【第42話】 風の小道は続いていく
人の声が消えた風待ち小屋には、紙をめくる音だけが残っていた。
ユウトは机の中央に置かれた最後の一通を持ち上げ、季節便予定表と受領記録を並べた。封筒の宛名、受付時の印、届け先。三つを順に確かめる。
「バルドさん宛てで間違いありません。今日の受け渡し分ではなく、直接渡す印がついています」
「うん。ここに別の印があるね」
リーネが生活地図を広げ、風待ち小屋からルミナ村までの線を指先でなぞった。
「この道なら全部、確認済みの道。夕方の風が強くなる前に着けると思う」
窓の外では、傾いた陽が白樺の幹を淡く照らしていた。道は乾いている。空の色にも、急な雨の気配はない。
暖炉のそばにいたポルカが、二人の支度に気づいて耳を立てた。寝床から飛び出すと、自分用の小さな配達鞄を前脚で引きずってくる。
「それも持っていくのか」
「ぷい」
鞄の中は空だった。ポルカに運べるのは軽い札や紐、小さな包みだけで、今回の手紙を任せるには距離がある。それでも、自分も配達へ行くつもりらしい。
ユウトは鞄の紐が絡んでいないことを確かめ、ポルカの背へ軽く掛けた。
「無理はしないこと。疲れたら肩に乗れ」
「きゅ」
ポルカは胸を張り、先に扉へ向かった。
三人が歩き出すと、夕方の風が谷の草を低く撫でた。
季節便の荷物を抱えて何度も通った道だった。新しく直した道標が曲がり角に立ち、少し先には雨宿りに使える休憩所の屋根が見える。地図の上では細い一本の線でも、その途中には直した板や、草を刈った跡や、誰かから聞いた注意が積み重なっていた。
リーネは歩きながら、地図鞄の留め具へ触れた。
「生活地図、まだ書くことが増えそう」
「今日だけでも、かなり増えましたからね」
「でも、前みたいに空白が怖くはないよ。空いているなら、これから確かめられるってことだから」
明るい声だった。無理に笑っている響きではない。
ユウトは道の端へ目を向けた。土の湿りは浅く、草の倒れ方も揃っている。荷車の跡は古く、今は歩きやすい。
「この先も問題ありません。日が落ちる前には戻れます」
「さすが郵便屋さん」
「まだ最後の一通が残っています」
「じゃあ、届けたら言い直す」
ポルカが二人の間を小さく跳ねた。しばらく進んだところで羽を震わせ、ユウトの脚をよじ登って肩へ収まる。
「もう疲れたのか」
「ぽるる」
「今日はよく働いたもんね」
リーネが指を近づけると、ポルカは鼻先だけを寄せ、すぐにユウトの襟元へ顔を埋めた。
ルミナ村に着いた頃、広場には長い影が伸びていた。ルミナ村掲示板には季節便終了の印がついた札が残り、村人たちはそれぞれ家路についている。
バルドは広場脇で、風に傾いた籠を積み直していた。
「バルドさん」
呼びかけると、村長は手を止めて振り返った。
「どうした。受け渡しは終わったはずだ」
「最後の一通です。季節便予定表では、バルドさんへ直接渡すことになっていました」
ユウトは配達鞄から封筒を取り出した。宛名を見せ、本人であることを確かめてから、両手で差し出す。
バルドはすぐには受け取らず、封の状態と宛名を見た。それから大きな手で封筒を受け取る。
「傷みはありません」
「分かった」
ユウトは受領記録へ時刻と状態を書き、バルドに確認を求めた。村長は短く頷く。
最後の印をつけた瞬間、紙の上に残っていた空欄が埋まった。
第一回の季節便が、ようやく終わった。
バルドは封筒を懐へ収め、ユウトを見た。
「約束は軽くない」
「はい」
「集めた物を間違えずに分け、決めた道を通り、渡したあとまで記録した。遅れそうな時は勝手に無理をせず、人を頼った」
低い声が、夕方の広場に落ちる。
「ユウト。お前を風渡りの谷の郵便屋として認める」
ユウトは言葉を返すまでに、わずかな間が必要だった。
古びた小屋へ初めて入った日には、雨漏りを受ける桶と、傾いた棚しかなかった。谷の道も、人の顔も、手紙一通の重さも知らなかった。
「ありがとうございます」
「次の季節も任せる」
「はい。届けます」
答えてから、ユウトは受領記録へ視線を落とした。
「ただ、俺一人では終えられませんでした」
隣に立つリーネと、肩の上のポルカを見る。
「リーネさんが経路と予定を整理してくれました。ポルカも札を運んで、風の変化を知らせてくれた。バルドさんが列を分けて、セラさんが待つ人を支えて、トマさんが荷物台を用意してくれたから、最後まで混乱させずに渡せました」
バルドは黙って聞いていた。
「だから、季節便の記録には全員の働きを残します。これは俺だけの仕事じゃありません」
「そうしろ」
短い返事だった。
「人を頼るのも、任せるのも仕事だ。それを覚えたなら、前よりましになった」
褒められたのだと分かるまで、少し時間がかかった。
リーネが横で小さく笑う。
「今度こそ言っていいですね。さすが郵便屋さん」
「……ありがとうございます」
返答に詰まったユウトの肩で、ポルカが得意げに胸を張った。
「お前もだ、小さいの」
「ぷい」
バルドは困ったように眉を寄せながら、懐から木の実を一つ取り出した。
風待ち小屋へ戻ると、扉の前にセラが立っていた。両手には蓋つきの鍋と、布で包んだ籠がある。
「遅かったね。ちゃんと渡せたかい」
「はい。季節便は完了しました」
「それなら、まず食べな」
鍋の中には豆と根菜のスープが入り、籠には具入りパンが並んでいた。冷え始めた小屋に湯気が立ち、香草と焼いた麦の匂いが広がる。
その後ろから、板束を抱えたトマが現れた。
「食う前にこれを見ろ」
「トマさん、それは?」
「案だけだ。作るとは言ってない」
机へ置かれた板には、荷物置き場と棚を増やすための簡単な線が引かれていた。入口脇へ低い台を置き、仕分け棚の横へ細い棚を追加する形になっている。
「今日の仮台より広くしてある。ただし、このまま作れば通路が狭くなる」
リーネが板を覗き込む。
「生活地図を広げる場所とも重なりそう」
「だから先に決めろ。必要な材料も、使い方も、置き場もだ」
ユウトは小屋の中を見回した。返事待ち棚、仕分け棚、作業机、ポルカの寝床。増やしたい物は多いが、ただ置けば暮らしにくくなる。
「すぐには始めません。何をどれだけ置くのか、日々の動きを確かめてから相談します」
「それでいい」
「定期便の箱や、残っている羊柵の修理とも分けて考えます」
トマは板束を机の端へ寄せた。
「決まったら呼べ。材料がなければ作れんからな」
セラが椀を並べながら笑う。
「話は食べながらにしな。終わった日にまで空腹で働く気かい」
食事のあと、セラとトマが帰ると、小屋には再び三人だけが残った。
ユウトは受領記録の最後の欄へ完了の印をつけ、その隣に行程記録を開いた。リーネが整理した経路、ポルカが運んだ札、バルドの列整理、セラの飲み物と軽食、トマの荷物台。役割と助かった点を、一つずつ書き残していく。
「礼まで記録にするんですね」
「次に同じことをする時、誰に何を頼めばいいか分かります。それに、忘れたくないので」
「それ、地図に残したい」
「記録の地図ですか」
「ううん。今のは言ってみただけ」
リーネは笑い、生活地図を広げた。
ポルカは最後の受領札をくわえ、棚の前まで運ぶ。少し高い段へ跳び上がろうとして滑り、耳を伏せた。
「下の段でいいぞ」
「きゅ」
ユウトが指した場所へ札を置くと、ポルカは続けて自分の配達鞄を引きずり、暖炉横の小さな掛け木の下へ戻した。
「今日はよく働いたな、ポルカ」
「ぷい」
胸を張った拍子に鞄が倒れ、ポルカは慌てて起こした。
リーネは地図へ風待ち小屋とルミナ村掲示板を描き込み、道標、休憩所、確認済みの道へ新しい印を足していった。紙の端には、まだ確かめていない坂や、風よけの希望、森際の旧道に関する書き込みが残っている。
「全部は描けませんね」
「うん。でも、これでいいと思う」
リーネは空白を指先で撫でた。
「生活地図は、完成させて閉じるものじゃない。暮らす人が使って、困ったところを教えてくれて、私たちが歩いて確かめて、また描き足すものだから」
「次はもっと上手く描けそうですか」
「もちろん。でも、次もきっと未完成だよ」
それを口にする彼女の表情は穏やかだった。
ユウトは入口近くに置かれた木箱へ目を向けた。
トマが以前、受付用に使えるかもしれないと試作して持ち込んだ箱だった。蓋には雨が入りにくい傾斜がつき、正面には細い投入口がある。まだ用途を示す札は掛けられていない。
「この箱、明日から使いましょうか」
「受付用の箱として?」
「はい。小屋が閉まっている時でも、急がない手紙なら入れてもらえるように。ただし、荷物や大事な相談は直接受け付けることにします」
リーネは頷き、紙片へ用途を書いた。
「手紙だけ。濡れた物は入れない。送り先と差出人を書く。毎朝、ユウトさんたちが確認する」
「集落にも使い方を伝えましょう」
二人で決めた札を箱へ掛ける。
風待ち小屋で新しい手紙を常時受け付ける設備として、風待ち小屋受付箱が使われ始めた。
すると、箱の底から紙の擦れる音がした。
「もう入っています」
季節便の受け渡しで人が集まっていた間に、誰かが用途を推測して入れたらしい。
蓋を開けると、中には一通の手紙があった。宛名と差出人は書かれているが、今から出発する必要はない。受付日も、明日の分として扱える。
ポルカがユウトの肩へ登り、箱の中を覗き込む。
「今日は届けないぞ」
「きゅ?」
「明日の受付分です。まず記録して、道と予定を確認してから」
リーネが地図鞄を軽く開くと、ポルカはユウトの肩からそちらへ移った。鞄の縁に前脚を掛け、しばらく新しい手紙を見つめていたが、やがて大きな欠伸をする。
「寝る時間だよ、ポルカ」
「ぽるる」
ポルカは鞄から机へ降り、暖炉横の寝床へ戻った。乾いた布を前脚で整え、丸くなる。
ユウトは新しい手紙を受付表の横へ置き、生活地図、次の定期便予定、改装案を見渡した。
終わった仕事があり、まだ残っている仕事がある。終わっていない羊柵の修理も、清書の途中の道も、小屋の狭さも、そのままだ。
それでも、焦る必要はなかった。
一つずつ確かめ、頼り、届けていけばいい。
暖炉の火が小さく鳴る。リーネが地図の端を押さえ、ポルカの寝息が布の中から聞こえる。
ユウトは風待ち小屋受付箱に掛けた札を見た。
明日になれば、また誰かの便りを預かる。
その先にある顔を思い浮かべながら、ユウトは静かに息をついた。
ここで、郵便屋を続けていく。
谷を抜ける夜の風が、古い軒と新しい箱を同じように撫でていった。




