【第40話】 霧の道を三人で
風待ち小屋の作業机には、二枚の記録が並んでいた。
一枚は、ミルネル丘で残した受領記録。もう一枚は、休憩地点と所要時間、疲労の印を書き込んだ行程記録だ。その隣には、枝音の集落と水車小屋へ運ぶ荷物が置かれている。
ユウトは当初の一覧から、木箱を一つ棚へ戻した。
「これは後の便に回します」
リーネが予定表の数字を書き直す。
「食品も一包み減らした方がいいね。水車小屋まで持っていく分は残して、急がない物は最終受付のあとでも渡せるから」
「はい。第一便と同じ量を運ぶ必要はありません」
早く届けることより、全員が無事に戻れることを優先する。そのために記録を残したのだ。
荷物札と実物を照合し、食品と修理品を別々の防水袋へ収める。底の湿り、紐の緩み、箱の角を確かめてから、ユウトは鞄の隙間へ乾いた布を入れた。
作業机の上で見ていたポルカが、布の端を前脚で押さえる。
「これはポルカ用だ。霧で羽が湿ったら使おう」
「ぷい」
「携帯食も入れたよ」
リーネが小さな包みを見せると、ポルカはすぐにそちらへ顔を向けた。
「まだ食べないぞ」
「きゅ」
不満そうに鳴いたものの、ポルカはユウトの肩へ登った。
三人が風待ち小屋を出た頃、谷には薄い霞がかかっていた。
道の先はまだ見えていたが、森寄りの区間へ入るにつれ、白いものが木々の間から流れ込んできた。湿った空気が外套へまとわりつき、草の先から雫が落ちる。
やがて、十歩先の道標さえ輪郭を失った。
ポルカの耳と羽が細かく震えた。
「ぽるる……」
「大丈夫だ。無理に外を見なくていい」
ポルカはユウトの襟元へ潜り込み、白い首毛だけを覗かせた。
ユウトは足元へ目を凝らした。土の湿り、草の倒れ方、風の抜ける向き。風路読みの手がかりは残っているが、どれも輪郭が薄い。湿気で地面の痕跡が均され、風も森の中で細かく巻いていた。
「予定していた近道は使いません」
リーネが顔を上げる。
「感覚が読みにくい?」
「はい。道らしい流れはありますが、確かだとは言えません。霧の中で試す道ではないです」
「分かった。今いるのは、この道標の手前」
リーネは地図を外套の内側で広げた。紙を濡らさないよう半分だけ開き、道標に刻まれた印と、地図上の位置を見比べる。
「先に分かれ道があるはず。でも、見えない場所をあるとは言い切れない」
「一つずつ確かめましょう」
修復された道標は、霧の中でも近づけば形が分かった。柱の傾きは直され、矢印も深く彫り直されている。
ユウトは道標の根元を確かめ、リーネは地図へ短い印をつけた。
「次の道標まで遠回りの道を使おう。近道より時間はかかるけど、休憩所を通れる」
「その方が安全です」
二人が進み始めると、襟元にいたポルカが身じろぎした。しばらく迷ったあと、ユウトの腕を伝い、リーネの地図鞄へ飛び移る。
リーネは歩みを止めず、鞄の口を少しだけ広げた。
「ここなら雨粒も入らないよ」
「きゅ」
ポルカは地図鞄の陰へ丸まり、鼻先だけを出した。
霧の中では、音が普段より近く聞こえた。
水滴が葉を打つ音。靴底が湿った土を踏む音。遠くで枝が軋む音。
不意に、ポルカが顔を上げた。耳が前を向き、羽が一度だけ震える。
「きゅっ」
ユウトも足を止めた。
前方から、一定の間隔で足音が近づいてくる。人の歩幅らしいが、姿は見えない。
「道端へ寄りましょう」
三人は石垣の脇へ身を寄せた。ユウトは荷物が石へ当たらないよう鞄を支え、足音が通り過ぎるのを待つ。
霧の向こうから現れたのは、空の手押し車を押す男だった。互いに短く挨拶を交わし、男の姿が再び白い中へ消える。
ユウトはすぐには歩き出さず、足音が遠ざかるまで待った。風が一度だけ右から左へ流れ、霧が薄く揺れる。
「道幅はあります。でも視界は戻りません」
「予定どおり休憩所へ行こう」
休憩所の屋根が見えた時、ユウトは胸の奥で小さく息を吐いた。
中へ入ると、まず荷物を乾いた台へ置いた。防水袋の表面には細かな水滴がついていたが、内側に湿りはない。修理品の箱にも擦れはなく、食品の包みは冷えたままだった。
「異常なしです」
リーネは記録へ到着時刻を書き、続けて霧の濃さを示す印をつけた。
「予定より遅れてるけど、休憩は減らさないよ」
「はい」
「肩は?」
「少し重いです」
「少し、は疲労一つ?」
「今回は一つでお願いします」
リーネが小さく笑い、自分の欄にも同じ印をつけた。
ポルカには乾いた布を渡した。羽の表面についた湿りを拭いてやると、縮こまっていた背中が少しずつ戻っていく。
携帯食を分け、十分に休んでから再び道へ出た。
枝音の集落へ着いた頃も、霧は木々の間に残っていた。
トマは工房の軒先で腕を組み、三人の姿を見るなり荷物へ目を向けた。
「遅かったな」
「霧で近道を避けました」
「道を外したか」
「いいえ。修復した道標を確認して、休憩所を通る道へ変えました」
トマは荷物を受け取りながら、ユウトの顔を見た。
「風路読みはどうした」
「湿気で曖昧でした。確かでないものには頼れません」
リーネが地図を開き、通ってきた道標の位置を示す。
「この三本は見えました。特に森側の一本がなかったら、分かれ道の位置を確かめにくかったと思います」
トマは鼻を鳴らした。
「あれは深く打ち直した。霧でも根元まで来りゃ分かる」
「役に立ちました」
「なら雑に扱うな」
いつもの言葉だったが、声はわずかに低く落ち着いていた。
荷物の中身と状態を一緒に確認し、トマは受領記録へ目を通した。
「間違いない」
「返事や追加の依頼はありますか」
「今日はない。羊柵の修理は残ってる。勝手に終わったことにするな」
「分かっています」
枝音の集落を出たあと、三人は水車小屋方面へ進んだ。
霧は少し薄れたが、川沿いの空気は冷たく、道の窪みに白い靄が溜まっている。休憩後の記録を確かめ、道標の位置を一つずつ拾いながら歩いた。
水車の音が聞こえ始めると、ポルカが地図鞄から顔を出した。まだ羽は体へ寄せたままだが、耳はしっかり前を向いている。
水車小屋側の受取人は、戸口の内側へ乾いた布を広げて待っていた。
ユウトは修理品の入った防水袋を台へ置き、包みを開く。木の部品には割れも欠けもなく、金具の留めも緩んでいない。
「こちらで間違いありませんか」
「ああ。濡れてもいない。助かったよ」
受取人が一つずつ確かめる間、ユウトは急かさず待った。
荷物の状態、受取人、破損がないことを受領記録へ書き、内容を確認してもらう。返事の希望はなし。それも他の依頼とは分けて記した。
帰路に入っても、霧は谷から消えなかった。
夕方が近づき、白い景色は少しずつ灰色を帯びていく。
ユウトは足元の固さと道の傾きを見て進路を選び、リーネは地図と道標の間隔を確かめた。ポルカは時折耳を動かし、近づく足音や風の変化に短く鳴いた。
「次の道標、右側にあるはず。でも見えるまでは曲がらない」
「はい。足元はこのまま真っすぐ続いています」
「きゅ」
ポルカが前を向く。
霧の中から、黒い柱の影が浮かんだ。
「ありました」
「位置も合ってる。ここから風待ち小屋までは、休憩所を一つ挟めば戻れる」
誰か一人が先を決めるのではなかった。
ユウトが歩ける道を選び、リーネが位置を確かめ、ポルカが見えない変化を先に知らせる。そのたびに二人は立ち止まり、三人で進める方を選んだ。
やがて霧の向こうに、風待ち小屋の屋根が見えた。
「帰ってきたね」
「はい」
地図鞄から出たポルカが、リーネの腕を伝ってユウトの肩へ移る。
「ぽるる」
「お疲れ、ポルカ」
扉を開けると、乾いた木と消えかけた暖炉の匂いが迎えた。
荷物を下ろし、外套を掛け、ポルカを暖炉の横の寝床へ入れる。ポルカは乾いた布へ潜り込んだが、すぐに顔を出し、机へ向かう二人を見ていた。
リーネは地図を広げ、霧の濃かった区間へ印をつけた。
「使った道、休憩時間、道標が見えた距離。全部残しておこう」
「足音を避けた場所もお願いします。霧の日は、相手が見えてからでは遅いです」
「うん。ポルカが先に気づいたところも」
「ぷい」
呼ばれたポルカが寝床の中で胸を張る。
ユウトは二枚の受領記録を仕分け棚へ収めた。季節便の残りは、風待ち小屋周辺での受け渡しになる。机の端には、最終受付日に使う予定表と、まだ空の仕分け箱が重ねてあった。
「明日は、この箱を分けましょう」
「受け取る物と、持ち帰る返事で札を変えたいね」
「定期便と備蓄便の分も混ざらないようにします」
終わっていない仕事は残っている。羊柵の修理も、森際の旧道の課題も、そのままだ。
けれど今日の道では、これまで一つずつ整えてきた物が互いを支えていた。地図が道標の位置を示し、道標が霧の中で地図の正しさを返し、休憩所が急がない判断を守った。防水袋と記録は、届けた物と歩いた道を次へ残した。
そして三人は、同じ仕事を終え、同じ場所へ帰ってきた。
ポルカが寝床から抜け出し、机の脚を登ってくる。地図の端へ前脚を置き、今度は紙が乾いていることを確かめるように鼻を寄せた。
「そこなら押さえていいよ」
リーネが言うと、ポルカは得意げに胸を張った。
ユウトは仕分け箱を机へ並べた。
「一つずつ片づけましょう」
「うん。三人でね」
暖炉へ薪を足すと、風待ち小屋の中へ柔らかな明かりが広がった。外ではまだ霧が谷を覆っていたが、帰る場所の中には、次の便を迎えるための道具と記録と、三人分の気配がそろっていた。




