【第21話】 古道を分ける道標
風見鶏亭の連絡札の下にある卓には、古い道標について書かれた確認待ちの札が三枚並んでいた。
どれも場所は白樺の小道から古道へ入る分かれ目を示している。だが、文字板が傾いていたという者もいれば、片方が落ちていたという者もいた。苔で文字が読めなかったという話まであり、そのまま通行情報として掲示できる内容ではなかった。
「場所は同じで間違いなさそうです。でも、向きまでは分かりませんね」
ユウトが札を見比べると、隣で地図を広げていたリーネが頷いた。
「古い地図では、分かれ目から先にも道が続いてる。でも今の地図だと、配達路はもっと浅い角度で曲がってるんです」
卓の端では、ポルカが三本の紐を前脚で押さえていた。一本が転がるたび、慌てて尻尾で止めている。
「道標を起こすだけでは駄目だ」
バルドが低い声で言った。
「あの先には、今はほとんど使われていない古道がある。昔の向きへ戻せば、旅人をそちらへ送ることになる」
「だから現地で確かめる必要があるんですね」
「ああ。土地の境も絡む。勝手に向きを変えるな」
壁際に立っていたトマは、肩に掛けた工具袋を持ち直した。
「腐り方を見なきゃ材料も決められん。話していても板は直らんぞ」
風見鶏亭を出るころには、朝の霧が白樺の幹の間へ薄く残っていた。
分かれ目までは、徒歩で半刻ほどだった。道の途中には昨夜の湿りが残り、靴底へ柔らかな土がまとわりつく。ポルカはユウトの肩とリーネの地図鞄を行き来しながら、風が抜けるたび耳と羽を震わせていた。
やがて道が二つに分かれる場所へ着いた。
古い道標は、草むらの中で斜めに立っていた。支柱は根元から黒ずみ、二枚あるはずの文字板のうち一枚しか見えない。残った板も苔に覆われ、矢印の先端だけがかろうじて分かった。
「もう一枚は、こっちです」
リーネが草をかき分ける。土に半分埋もれた板が現れ、表面には泥が固く張りついていた。
トマはしゃがみ込み、支柱の下部を小槌で軽く叩いた。乾いた音のあとに、鈍い割れ音が返る。
「下は腐ってる。だが上は使えるな。全部作り直すより、傷んだところを切って補強したほうが早い」
ユウトは分岐の中央へ立ち、足元へ意識を向けた。
風路読みで追うと、右手の道には細い車輪跡と複数の靴跡が重なっている。草も一定の幅で踏み固められ、最近も人が通っていることが分かった。
一方、左手の古道にも痕跡はあった。小さな蹄跡、獣の爪痕、籠を背負った者らしい片寄った足跡。道が完全に死んでいるわけではない。
「どっちにも通った跡があります」
「古道のほうは採取人が使う」
バルドが左の道を見た。
「奥に木の実が採れる場所があるからな。獣も通る。人の足跡があるだけで、村へ続く道だと思うな」
「はい。風路読みだけでは決めません」
ユウトは右手の車輪跡を指した。
「こちらには荷車が何度も通った跡があります。幅も一定です。ただ、雨のあとに付いた跡かどうかは確かめたいです」
「それ、地図に残したい」
リーネは新旧二枚の地図を平らな石の上へ広げた。ポルカが地図の端へ乗り、風でめくれないよう前脚を踏ん張る。
「バルドさん、昔の橋はどこにあったんですか?」
「古道を進んだ先だ。川が増水して橋脚が傾き、二十年ほど前に渡る場所を下流へ移した。そのとき、荷車道も付け替えた」
バルドは杖の先で、地図上の川筋をなぞった。
「境はこの石列から向こうだ。新しい道は境に沿わせると決めた。古道は残したが、荷車を通す道ではない」
リーネは紐を使って分岐の角度を測り、歩幅で道幅と距離を確かめていく。虫の多い草むらへ入るたび眉を寄せながらも、記録の手は止めなかった。
「右は分岐から十二歩で少し下る。左は最初から上りです。板の矢印だけじゃなく、行き先の下に『荷車道』と『古道』を分けて書いたほうがよさそう」
「古道を消すのは駄目か?」
トマが埋もれていた板の泥を削りながら尋ねた。
「消すと、採取に入る人が困ります。利用が少ないと分かる印を添えて、配達路とは違う道だと示したいです」
リーネは紙へ文字と矢印の配置を描いた。現在使われる道の板は大きな矢印にし、古道の板には細い矢印と、荷車向きではないことを示す短い文を添える。
トマは図を受け取り、しばらく黙って眺めた。
「文字をここまで端へ寄せると、割れやすい」
「では、一文字分だけ内側へ移します。矢印の角度は変えないでください。分岐の開きに合わせてあります」
「細かいな」
「間違えたら、地図ごと直すことになりますから」
リーネは笑っていたが、引かなかった。
トマは鼻を鳴らし、図を工具箱の上へ置いた。
「その図なら間違えん。板はこの通りに削る」
リーネは一瞬目を丸くし、それから小さく息を吐いた。
「はい。お願いします」
トマは腐った支柱の下部を切り落とし、持参した乾いた補強材を左右から当てた。穴の位置を決め、木釘を削り、少しずつ打ち込んでいく。ユウトは支柱を押さえ、バルドは境界の石列と板の向きを見比べた。
リーネは印を付けた短い紐を、ポルカの前へ並べた。
「ポルカ、一本ずつトマさんのところへお願いします」
「きゅ」
ポルカは赤い紐をくわえ、工具箱の脇へ運んだ。次は白、最後は青。三本目を渡す途中、支柱に立てかけられた板へ飛び移り、そのまま補強材を伝って上へ登っていく。
「ポルカ、そこは危ないですよ」
ユウトが手を伸ばすより先に、ポルカは支柱の頂上へ着いた。
胸を張り、口にくわえた青い紐を掲げる。
「きゅっ」
「降りてこい、毛玉」
トマが低く言うと、ポルカは下を見た。
途端に耳が伏せられ、羽が膨らむ。前脚を一歩出しては戻し、支柱へしがみついたまま動かなくなった。
「登れたのに、降りられないんですね」
リーネが困ったように笑う。
ユウトは支柱を揺らさないよう近づき、両手でポルカを抱き下ろした。腕の中へ収まったポルカは耳を伏せたまま、青い紐だけはしっかりくわえている。
「怖かったなら、無理しなくていいんですよ」
「ぽるる……」
トマが手を差し出すと、ポルカはためらいながら紐を置いた。
「落とさなかったのか」
ポルカがそっと顔を上げる。
「役目は果たしたな、毛玉」
大きな手が、白い首毛の少し手前で止まった。触れはしなかったが、ポルカは逃げずに胸を張った。
補強した支柱を穴へ戻し、周囲へ小石と土を詰める。ユウトとバルドが垂直を確かめ、リーネが二枚の板の角度を測った。
「配達路は、あと少し右です」
「これでどうだ」
「止めてください。そこです」
バルドも境界の石列を見渡し、短く頷いた。
「問題ない」
トマが木釘を打ち込み、最後に金具を締めた。新しく削り直された文字板が、二つの道を別々に示す。
幅の広い現在の配達路。
利用の少ない、荷車には向かない古道。
同じ分かれ目から伸びていても、役割の違う道だった。
道具を片づけ始めたころ、一人の旅人が白樺の小道から歩いてきた。背負い袋を下ろさず、修理されたばかりの道標を見上げる。
「村へ行くなら、こっちでいいんだな」
「はい。右の配達路です。左は古道で、荷車には向きません」
ユウトが答えると、旅人は板の文字をもう一度確かめ、迷わず右へ進んだ。
草を踏む足音が、現在の道へ遠ざかっていく。
「働いたな」
バルドの言葉に、ユウトは道標を見上げた。
ただ起こしただけではない。歩いた跡を確かめ、地図を測り、昔の取り決めを聞き、使う人が迷わない形へ直した。
ようやく道標修理が終わったのだ。
「少し休みましょうか」
リーネが額の汗を拭った。
だが、周囲を見回しても、腰を下ろせる乾いた場所がない。草地は昨夜の雨を含み、倒木は苔で湿っている。風も分岐をまっすぐ抜け、立ち止まると汗が冷えた。
トマは工具箱を地面へ置き、その上へ片手をついた。
「道標は直ったが、休む場所はないな」
「旅人もここで地図を見たり、荷物を結び直したりするでしょうね」
リーネが分岐脇の空き地を見る。
「雨を避けるほど大きくなくても、腰を下ろせる板と風よけがあれば違いそうです」
「勝手には作るな」
バルドが言った。
「土地の境を確かめてからだ」
「はい。一つずつ進めます」
ユウトの肩へ戻ったポルカが、小さく喉を鳴らした。
羊柵修理の返答も、傷んだ板の運び込みも、まだ残っている。それでも今日、迷いやすかった分岐には、今使われている道を正しく示す道標が立った。
風に揺れる二枚の文字板は、古い道と今の道を混ぜることなく、それぞれの先を指していた。




