021
槐が魔術院の第三講堂のおおきな防音扉を押しひらいたときには、すでに魔術理論の授業は始まっていた。
正面のスクリーンは、左半分が無数の魔術用語と図表で埋まっている。
壇上の白衣の若い教師――担任の雨宮幾多郎が、またおまえか、という顔つきをして一瞥をなげかけてくる。
槐は実直な顔つきをつくって会釈をし、なるべく靴音を立てないよう、通路を足早にくだった。
2、000人収容の大きな講堂に、戦闘科の一年生の120人ばかりが入っていた。
演台のまわりを、その生徒たちがまばらに埋めている。
槐は端のほうに、実技のおなじ班に属する淡河雅矩の結わえた後ろ髪を見つけると、間をひとつあけて座った。
あいにく雅矩は、腕を組んで教科書をうえから読み込むふうを装って、船を漕いでいた。
わざわざ起こすほどの急ぎの話もなかったし、壇上の雨宮の注意もひきたくはなかったので、声はかけずに置いた。
「……魔術理論の発見により、宗教や呪術といったものの再定義が進んでいる」
雨宮が壇に腕をついて、朗々とした声で説明した。
「が、高等部では、このあたりは詳しくはやらない。
というのも、信仰を持つ連中にとって、あまり愉快な話でないことは、おまえらにも想像がつくだろう。
現に、年に何回かは、さまざまな宗教宗派の信者が安曇野の駅前広場に集まってきて、魔術の教育や研究をすぐにもやめるよう、プラカードを掲げ、目抜き通りを練り歩いている。
まあ、やつらにとっては魔術研究なんぞ神への冒涜いがいのなにものでもないだろうなからな。
魔術院、いや、魔法省としては、ああいう連中を無駄に刺激したくない、というのが偽らざる本音なんだ。
ただ、現代魔術学の立場から述べれば、神学において議論されてきた天国や地獄、煉獄、密教における金剛界や胎蔵界、道教における泰山仙界などの逸話や伝承は、なんらかの理由により『狭間の異世界』を垣間見た者たちが、その体験を記述したものだろうと考えられている。
おそらくヴァルハラや神話としてのオリュンポスもそうだろうし……もしかしたら、むかし話の鬼ヶ島や竜宮城も、『狭間の異世界』をたまたま覗き見た者たちの体験談が元ネタになっているのかもしれないな。
……この辺りに興味のある者は、魔術史の原田先生にでも訊ねてみるといい」
槐は講義を聞きながら、バッグから魔術理論Ⅰの教科書をとりだして開いた。
スフィアを起動して電子書籍を視界内ウィンドウに展開してもよかったが、こと勉強に関しては、紙の教科書のほうが使いやすい、というのが槐の意見だった。
「……さて、そこで『狭間の異世界』の存在がどのように証明され、確認されたのか、だ」
と、雨宮がオーバルの眼鏡をかけて、教壇にひろげた資料をのぞき込みながら言っている。
「理論科の連中には、量子力学だの宇宙物理学だの解剖学だの心理学だのの小難しい数式やら構造やらを引きながら順を追ってクソ丁寧に説明してやらなきゃならんのだが、おまえら戦闘科のボンクラどもにそんな話をしても理解できんだろうし、たがいに幸運なことに、カリキュラムもそうなってはいない。
概要を説明するだけでいいということになっている……」
槐はスフィアを起動して、スクリーンの文字と図を撮影し、それを電子ノートにまとめるよう指示を与えた。
こないだまでは真面目にルーズリーフに手書きしていたが、速記の、ミミズののくたったような字を読み返すのが大変で、いさぎよく諦めることにした。
スフィアのアプリにやらせれば、出版物のようにフォントと図形を整えてくれるし、誤植も勝手にチェックをいれて修正してくれる。
そうして槐は頬杖をついてガラス張りのむこうの空を眺めた。
灰色の雲を抜けて青い空のかなたに、黒い下敷きを三枚連ねたようなものが浮かんでいた。
宇宙ソーラーパネルである。
そこから突如、ひとすじの紫電のひかりがまっすぐに打ちおろされた。
晴れた日にはこうしてアースリングに電力を供給しているのである。
一瞬、講堂のライトが陰り、スクリーンにノイズが走った。
幾人かの生徒が、退屈をもてあましたように大都市を漂白する天空の閃光を見やった。
雨宮は構わず、講義を続けている。
「……おまえらはしょせんブルーカラーだ。
異世界で身をもって悪鬼どもと戦い、お国なり企業の保安部なり軍事会社なり、あるいはフリーとして依頼者からカネを貰って食っていくことになる。
小難しい証明だのなんだのは知らなくていい。
そんなことに労力を割く暇と余裕があるなら、すこしでも戦闘の腕を磨いておくことだ。
ただ、仕組みだけは頭に叩き込んでおく必要がある。
いざというとき、理屈がわかっているかいないかで、生死が分かれることもあるからな」
隣で、淡河がもごもごと寝言を呟いている。
耳をそばだてると、
(うーん、チェリーパイはもう食べられないぜベイビー……)
この男は学生寮の抽選にあたってせっかく入寮できたのに、門限の規則を守ることができず、自分から退寮を申し出て、いまは歳の離れた恋人のもとに転がり込んでいた。
それも、話を聞くたびに恋人の職業がかわっていた。
最初は港湾区の女刑事だったが、つぎは平坂区のクラブのママ、そのつぎは安曇野の法律事務所に勤める女性弁護士で、それからミュージカルやアイドルに振り付けをする三十路すぎのダンサー、こないだ聞いたときにはそれが仮想現実技術関連の有名企業の女性管理職に変わっていた。
いちど、その恋人が雅矩を学校まえのバーガー・ショップまでランド・カーで迎えにくるのを見たことがあるが、それがクラブのママなのか、刑事なのか、それとも大企業の管理職なのか、判然としなかった。
わかるのはカジュアルな服装の割ときれいな白人金髪のお姉さん、というだけだ。
ただ、そのお姉さんの雅矩にむかって浮かべる笑みが、陥落し征服された「女」そのもので、
(コイツ、やるな……)
と思ったのを覚えている。
雅矩はいま、その恋人に、手作りのパイを嫌というほど食べさせられている夢でも見ているのだろう。
あるいはそれは恋人どうしだけで通用するなにかの隠語なのかもしれない。
「おい淡河、起きろ!」
壇上の雨宮がとつぜん怒号をあげた。
「疲れてんのは分かるが、これから重要な話をするから聞いておけ」
雅矩ががばっと顔をあげて、まどろみに半分浸かった険しい眼つきであたりを見渡して、それから状況を察したらしく、
「うっス!」
と言った。
けれども講堂のなかに失笑を漏らすものはいなかった。
雅矩も槐とおなじく高等部から魔術を始め、戦闘スコア自体も二桁に留まっていたが、200や300を超えるようなのがごろごろいるA組B組の連中を戦闘訓練で幾度も撃破しており、腕自慢のガラの悪い連中からも、それなりに敬意を払われていた。
講堂は静まり返っていたが、そのかわり、幾人かが雅矩に敵意のこもった視線を投げかけてきた。
戦闘スコアもキャリアも遥かに劣る編入組などに負けたことを根に持っているらしい。
雅矩はすぐに、(なに見てんだコラ……)的な目つきで見返す。
相手はすぐに、猟犬に睨まれた野良犬のように顔を伏せた。
それから槐が隣にいることにいま気づいたというように、
「なんだよ、いたんなら起こせって」
「寝言を言うほど気持ちよさそうに寝てる奴を起こせるかよ」
「は?」
雅矩は急にキョドり始めた。
「俺、なんて言ってた?」
近くの席に座っている女子たちの様子をうかがう。
ようするに、女子には言えないような夢を見ていたのだろう。
この男は敵意を示してくる連中には遠慮がなかったが、女性にはあくまで紳士だった。
たとえ寝言でも不用意な言葉は聞かせたくないらしい。
槐は、
「割と恥ずかしいことを口走ってたな……」
と言い、それから演壇のほうを見やって、
「いまはとりあえず雨宮の話を聞いておこう」
「お、おう! そうだな!」
あれからひと文字も書けてませんが、、乏しいストックを削って更新してみました。引き続き、しばらく間があくと思います。また思い出したころにでも覗いてみてください。あるいは収拾をつけることだの構成だのは考えず、のらりくらりと更新していく方針にチェンジするかもしれません。




