019
(いいや、この際、サボるか……)
槐は高層ビルのずっとむこうに輝く雲のふちを眺めながら、考える。
そうと決まれば、図書館だ。暖房のきいた、日当たりのいい、ガラス張りのサンルームみたいな閲覧室で、正岡子規のロックな俳句論に耳を傾けてすごそう。
そうしてときどき雪をかぶった中庭の松でも眺めながら、明治の根岸に思いを馳せよう。
(俺はジジイかよ……)
苦笑いが浮かぶが、それでも心が弾むのはどうしようもない。
サイバーパンクの世界はもう飽きた。
おれは文明開化のジャポンにジャック・インさせてもらう。
いまさりげなく韻を踏んだが、お気づきいただけただろうか。
この時代においては、むしろこれがオサレ、至高のファンタジィ、おお愛と幻想の浅草凌雲閣、と自分でも訳の分からないことを脳裏で呟きながら、白い息をはずませて人込みの横断歩道をわたる。
新安曇野の区立図書館は、魔術の知識の集積地としての役割も持っていた。
魔術の心得のない人間にとっては何の変哲もない現代的な図書館にすぎなかったが、狭間の異世界の側に侵入すると、古城の書斎やら地中海世界の大図書館やらチベットの古い蔵経洞やらを連ねたようなおどろおどろしい空間が立ち現れる。
そこでは、魔術院の研究者や大学生、高等部の理論科の生徒たちが、古今東西の魔術書の読解にいそしんでいた。
魔術書はむろん眼で文字を追うことで読むこともできたが、大抵の魔術師は、その書に直接「没入」する、つまり精神的に入り込むことで、体感的に理解することを好んだ。
別の言い方をするならば、書について深く瞑想するのである。
こうすることでしか理解できない魔術書もたくさんあった。
魔術はそもそも、人間の意識のかなり深いところで扱うものであり、ごく初歩的なものを別にすれば、それは大抵、脳の言語能力や理論的思考を担う領域よりずっと深層にあった。
そのため、これらの概念や実践技術を言葉でもって正確に論述することはほぼ不可能だった。
そこで象徴的な挿絵や、意味不明な詩、あるいは公案や禅問答のようなかたちをとって表現される。
それらについて瞑想することで、はじめて魔術の理解や習得が可能になる。
この要領を掴むことが、初学者にとって、最初のおおきな試練となっていた。
慣れないうちは、水深のあるプールで素潜りをするのにも似た苦しさを覚える苛酷な修練だったが、高等部の理論科や魔術大学に通うたいていの学生にとって、それは初等部から嫌というほどやらされてきた基礎中の基礎の技術であり、造作もなく行うことができた。
そういう人たちが、レポートや卒論の執筆のために、あるいは魔術の上達や習得のために、区立図書館から狭間の異世界に侵入して、魔術書の読解や研究をしていた。
けれども、サボる目的で図書館にやってきた槐にとって、そんなことはどうでもよかった。
受付のシステムにボルテクス・スフィアを介して学生証明書を提示し、インデックスを検索して電子書籍を借り受け、松や杉、白樺などの雑木林がよく見渡せる日当たりのいい席に座り、カフェで購入した熱いラテを含みながら、むかしの俳句の世界をあてもなくさまよう。
目黒川の桜を眺め、黒い森を覆うようにして流れる天の川に圧倒され、鴨の遊ぶ水辺を散策し、春日野の野焼きのけむりに咽ぶ。
温暖化によって四季を破壊されてしまった日本ではもう見ることのできない自然の情景に思いを馳せて、ほとんど酔ったようになりながら、電子書籍を閉じてゆったりとラテをすすり、椅子のうえでめいっぱい伸びをした。
その拍子に、ガラス張りの窓にうっすらと奇妙なものが映っているのに気が付いた。
中二階にずらっと並ぶ本棚のまえを茶トラの猫が歩いている。
それも、メインクーンほどの大きな猫だ。
槐はレア・モンスターを見つけるのにも似た軽い興奮を覚えて、立ち上がり、ふりかえった。
思ったとおり、中二階の手すりのむこうを、猫耳を生やしたショート・ボブの女の子が歩いていた。
魔術院の高等部の制服を身につけている。
スカートから生えた細い尻尾が、ゆらゆら揺れていた。
その猫耳と尻尾は、カチューシャやアクセサリーなどではなかった。
魔術の心得のない者には見ることのできないもので、あの少女が自分はネコだとつよく思い込んでいるせいで、魔力への感受性がある者には、そのように感じ取れるのだった。
ガラス張りにネコの姿で映っていたのもそのせいだ。
彼女はけっして認めないかもしれないが、むろんまぎれもなく人間だったし、黒髪をよければ、ちゃんと耳もついている。
槐はロング・コートを脇にかかえ、鞄を肩にかけて、紙コップを売店のゴミ箱に放り込むと、小走りに階段をあがった。
猫は踏み込むようには歩かず、前足をおろしてから慎重に体重を移動する。
中二階をゆく猫耳の少女もそうだった。
独特の、優雅な歩きかたをする。
昔からそうだったのか、それとも自分をネコと自認するようになってからそうなったのかは分からない。
槐がアースリングにやってきて魔術院に入学したときには、少女はすでにそんな風にして歩いていた。
聞くところによれば、二年前に狭間の異世界で致命的なダメージを負い、なんとか命は助かったのの、後遺症が残った。
その結果、この少女は自分をネコと考えるようになった。
「よっ、森崎」
と、槐は制服の背中のまえでゆらゆらするしまの尻尾にむかって声をかけた。
「本をさがしてるのか。
良かったら手伝おうか」
少女はくるりと振り返ると、白い手をバツの字にクロスさせて、すこし腰をおとし、あまりネコらしくない凛とした眼で槐をにらみ、
「ぶんがくおとこ!」
と言った。
なぜか少女――森崎ミーシャは槐のことをそう呼んでいた。
「ここになにしにきた」
「その、『ぶんがくおとこ』が図書館にダーツを投げに来たとでも思うか?」
と、槐は微笑んだ。
「授業をサボって本を読んでただけだよ。
そしたら、ちょうど森崎を見かけてさ」
「ネコをつれていこうとしてもむだだぞ」
耳がイカみたいになっている。
そうとう警戒されているようだ。
足許に眼をおとせば、左右の靴下が違っていた。
右は学校指定の黒のハイソックスで、左はブラウンのリブソックスだった。
「ネコ娘の意思に逆らって連れていこうなんて思っちゃいねえよ。
……その靴下の穿きかた、なかなか上級者だな。
他の奴には真似できねえ」
槐は、皮肉抜きに言った。
見るものにどことなく滑稽でかわいらしい印象を与えることができるのは森崎だけかもしれない。
森崎は頬をふくらませて、ふーっと息をつき、槐に背をむけて歩き出した。
槐はその傍にならんで、
「ネコという割にはちゃんと爪を切ってあるんだな。
戦闘科の生徒なら、それが正解だよ。
どこかに引っ掛けて剥がしでもしたら酷いことになるからな」
「おおやさんにきられた」
と、森崎は言った。
「ネコがはしらでつめとぎをするから、だめです、といわれた」
「おまえ、爪とぎすんのかよ……本格的だな……」
「ネコだからしかたない」
槐は、森崎のほっそりとした指や首筋を見やりながら、
「ところで、ちゃんと飯食ってんのか」
「ぶんがくおとこにしんぱいされたくない。
おまえこそちゃんとたべてるのか」
「あれ……もしかして、俺、貧乏オーラ出てる?」
「ちょっとだけな」
槐はやれやれと首を振った。
アースリングの住宅事情と、魔術院から支給される毎月の奨学金を考えれば、互いに楽ではないことは分かっているが、少なくとも森崎には人の心配をするだけの余裕はあるらしい。
ひとまずは安心だった。




