001
地下鉄の広告ディスプレイに砂を撒いたようなノイズが走った直後、ライトがいっせいに点滅を始めた。
窓のむこうのオレンジのひかりが緩やかに流れて、やがて止まる。
闇に沈んだ車内では、携帯端末の発する冷たいひかりが、そこかしこに灯って、仕事帰りの人々の顔を青白く染めた。
染みわたるような、静寂――
耳を澄ますと、地下鉄の走る荒涼とした音が、とおくから響いてきていた。
その振動の投げかける小さな波紋が、透明なゼリーを揺らすみたいに広がっていく様子が、眼に見えるような気がした。
九谷槐は、にわかにざわめき始めた車内の人込みをぼんやりと眺めたあと、駱駝色のサッチェル・バッグを抱えるようにして、足を組み、コートの襟をかき寄せ、眼を閉じた。
なにがあったのかは知らないが、どうせしばらくは動き出さないだろう。
携帯端末で交通情報を調べてみたところで、問題の解決が早まるわけでもない。
だったら、寝て時間を潰すにかぎる。
学校でのハードな魔術訓練のせいでひどく疲れていたこともあり、すぐに眠気が萌してきた。
そうしてうつらうつらし始めた頃、突如、首に提げたボルテクス・スフィアから通信が飛び込んできた。
『魔術院高等部一年、戦闘科D組、九谷槐のスフィアだな?
聞こえているなら応答しろ』
槐は目元を指でこすりながら遠慮なく舌打ちをし、漫然と、スフィアに強制シャットダウンのボタンでも付いていればいいのに、と考えた。
スフィアが、通信を寄越してきた男の肖像と、付帯情報を、直接、槐の意識へと投げかけてくる。
それが視界のなかでホログラム映像のように浮かび上がった。
――治安当局の濃紺の制服をまとって、インカム・マイクをかけた、五分刈りの中年男。
顔はやつれ、眼には力がなく、頬やあごがやけに青い。
その傍に、帆影北署、管制官、渡部六郎警部補と表記されていた。
その下に、識別コードと、身分証明がわりのQRコード。
テキスト・カーソルが二度ほど点滅したあと、スフィアが行政システムに接続して確認を取ったことが追記された。
「……はい、何スか」
槐は、欠伸をしながら言った。
渡部はコンソール・パネルを操作しながら、
『ええと、高等部からの編入組か……戦闘スコアは……92だと?
ハッ、劣等生か。
まあいい』
槐は頭のなかでこの無礼な管制官の顔面に思いっきり拳を叩きこんでから、
「……そう、ド底辺の劣等生っス。
使い物になりませんよ。
下手に厄介ごとを押し付けるとあんたの責任問題になるかもね。
近くにだれか適当な奴がいるならソイツに……」
管制官は遮るようにして、
『サン・ジョヴァイドが、――行政支援AIが状況を分析して算出してきた必要値は42ポイントだ。
残念だが、おまえでも十分に事足りるらしい』
だいたい、これはあんたらの仕事だろう、と怒鳴りたかったが、そんなことを言っても魔術院高等部にクレームが行って余計に教師たちから睨まれることになるだけだった。
それに人手不足は残念ながらこの男のせいでもなければ、政府の責任でもない。
方々の国に難癖をつけて侵攻を続けている頭のおかしいUSPR(環太平洋連邦)のクソどもが悪い。
その対応のために、治安当局も軍も、使える魔術師はほぼ根こそぎもっていかれてしまっていた。
加えて、世には生まれつき魔術の素養を持たないことを恨みに思っている者が案外たくさんいて、そういう連中の、魔術院の生徒への当たりは概して厳しかった。
とくに槐のような成績優秀とは言い難い生徒にはそうだった。
この男も、自分に魔術の素質さえあれば、エリートとしてずっといいポジションを担えたはずだと思っているのだろう。
そう考えれば哀れではある。
腹が立つからといって、鎖をちぎって指輪型のボルテクス・スフィアを窓から放り投げても、問題は解決しない。
自分で始末をつけなければ、いつまでも列車が動き出さず、下宿先にも帰れないのだとすれば、ほかに仕様がなかった。
それに、魔術院の生徒として、学費も生活費も、国に面倒を見てもらっている以上、振られた仕事は断れない。
「……わかりましたよ」
槐はため息をついて、
「で、状況は?」
『そこから線路を200Mほど西に進んだところに変電施設がある。
そこのシステムが誤作動を起こしている。
おまえに対処の指示が行ったことから分かるだろうが、これは機械的なトラブルじゃない。
狭間の異世界で、複数と思われるデーモンが設備にとりつき、盗電しているようだ』
「で、狭間の異世界に侵入して変電施設にむかい、その群れを始末しろと」
『そういうことだ』
槐は制服の黒のナロー・タイを緩めて、ワイシャツの第二ボタンをはずし、指をさしこんで、首に提げたボルテクス・スフィアをひきだした。
タングステンの指輪にはめ込んだ楕円形のスフィアが、淡い緑色のひかりを放っていた。
その半透明のスフィアのなかで、小さな銀河のような渦が回転を続けている。
このスフィアを指輪にして指にはめたり、イヤリングやピアスに加工して耳につけたりは、魔術院の生徒の裁量に任されていた。
ようは、常時身につけておける状態にすればいい。
槐は、その指輪に鎖をとおして、首にかけているのだった。
ボルテクス・スフィアは魔術師の戦闘や実務を支援するための仕組みがひととおり揃った、霊的な端末で、狭間の異世界と呼ばれる魔術空間に侵入するための仕掛けや、非電波通信、魔力の拡張や制御、特殊能力の付与などの機能が備わっていた。
軍や魔術院で支給される量産型のものもあれば、一品ものもある。
兵器産業のメーカーの生産品もあれば、専門の職人や工房が制作したりカスタマイズしたりしたものもある。
国家が厳重に管理するきわめて強力なものもあれば、街の密売組織が数万新円で取引しているような海賊品もある。
槐のスフィアは、魔術院が生徒に支給する量産型のヘッジホッグではなく、槐が魔術師の学校に進学するためにUSPR日本の新松戸レジデンシャル・コンプレックスからベーリング海の都市国家アースリングへと転居する際、ただひとりの家族である父親から、ビンテージのサッチェル・バッグとともに譲り受けた、一品ものだった。
父はフリーのジャーナリストで、魔術師ではなかったけれども、従軍経験があり、そのスフィアは、現地で人助けをしたとき、謝礼として受け取ったものらしい。
むろんスフィアは公的機関に登録済であったが、職人による手作りのもので、登録名はヘルズエンジェルと言った。
槐は、恐らく父が助けたのはアメリカ系の、アメコミとかのサブカルが好きな、田舎者の魔術師だったのだろうと推測している。
ヘルズエンジェルは魔術院の生徒への支給品であるヘッジホッグと規格や操作方法が異なっていたせいで、魔術院の戦闘訓練の授業では、やや戸惑うこともあったが、基本的な機能は十分に備わっていた。
基本的な構造は旧式のものであり、ヘッジホッグの長所である守備の面ではいくらか劣るところがあったが、魔力変換効率や情報支援などの機能は上回っていた。
他にも機能がいくつかあるようだったが、あいにく製作した工房のサイトは数年前から更新がとまっており、オンライン・マニュアルにもアクセスができず、調べようにも調べられなかった。
ともあれ、この淡い緑のひかりをほんのりと放つヘルズエンジェルを長く使っていて慣れてしまっているので、いまさら魔術院の推奨するヘッジホッグに変えるつもりもなかった。
「ヘルズエンジェル、聞いてただろ。
情報の解析を頼む。
それから、狭間の異世界へ侵入する。
移行の準備を頼む」
『Understood, sir.(了解しました)』
「日本語モードに戻せ」
『しかしSir、あなたはもう少しEnglish(英語)にAccustomed(慣れる)したほうがいい。
このあいだの英語のRegular exams(定期試験)の点数は、確か……』
「戻せと言っている」
『聞いてください槐。
私の計算では、つぎの期末試験まで英語モードを使用した場合、あなたの英語能力は一定成長し、16点から24点の上積みが期待できます。
これは赤点を回避するのに十分な……』
「うるせえ、余計なお世話だ」
なんでボルテクス・スフィアにまで勉強の心配をされなきゃならない。
補習は受けたし追試もちゃんと通っている。
期末だって一発勝負という訳ではない。進級に差し支えるようなことは、今のところ、なにもないのだ。




