若狭湾で幽霊船にさらわれた話する?【1 of 5】
ボゥー……ボゥー……
真夜中、港の方角から霧笛のような音が聞こえた。男は布団から這い出ると、寝ぼけ眼のまま窓を開けた。
「やれやれ。どこの船だ?こんな時間に好き勝手に鳴らして。」
その窓からは、港の大半を見渡すことができる。船がいれば、その灯りが見えるはずだ。しかし、いくら目を凝らしても、暗闇が広がるばかり。
「……気のせいか。いよいよボケがきたか。」
男は白髪交じりの顎髭を撫でると、窓を閉めて再び布団にもぐり込んだ。明日は久しぶりに早起きして、仲間の船の整備を手伝うことになっている。一分でも長く眠りたいと考えていた。
予定より早く起床した男は、港に続く道を下っていった。空はだいぶ明るんでいる。しばらくすれば、背後に迫る山の稜線から朝日が覗くはずだ。岸壁に並んで沖を眺める幾人もの漁師たちが、視界に入った。男に気づいた若い漁師が、駆け寄って声をかけた。
「おはようございます。ヨシヒコさん。朝からすみません。」
「おはようさん。カズオの頼みだ。構わんよ。家にいたって誰もおらんからな。雁首揃えて何を見ている?」
「ほら。あれ見てくださいよ。」
ヨシヒコは、カズオが示した方角に目をやった。そこには、この界隈ではあまり見ることのない大きな船が、湾口の澪筋を塞ぐように居座っていた。今時はまず見ることのない木造船だ。船体はあちこちが酷く傷んでいる。時代錯誤のボロ船だった。
「なんだ、ありゃ。どっかから、流れて来たんか?」
「分かりません。夕べ漁から戻ったときには、あんなのなかったんで。皆、大騒ぎですよ。船の整備どころじゃないですね。」
「そういえば、夜中に霧笛みたいな音が聞こえた気がするんだが。あの船かねえ。」
「霧笛?僕は気がつかなかったけど。いつ沈むかも分からんようなボロですよ?」
そこへ、煙草を咥えた中年の男が近づいてきた。男は、ヨシヒコに頭を下げた。
「おはようございます。親方。」
「親方はよせと言ってるだろ、ケンジ。俺はもう船を降りたんだ。」
「そう言われてもね。他に呼びようがない。」
「カズオのように名前で呼べばいい。なあ?」
「僕は最初からヨシヒコさんて呼んでましたよ。」
「俺には馴染まないんだよな。それ。」
ケンジは足元に投げた煙草を長靴で踏み消し、木造船のほうに向き直した。
「さて、あれをどうしたもんかな?あんなところにいられたんじゃ、船も出せん。」
「海保には、誰か連絡を入れたのか?」
「組合長がさっき電話してましたよ。隣の管区でトラブルがあって、巡視艇が来るまで少し時間がかかるって。」
「ああ?暢気なもんだな。俺らで沖に引っ張っちまうか?」
「そんな乱暴な。しょっぴかれるよ?」
「冗談だよ。カズオはお堅いな。さっき近くまで行った連中の話では、外から見る限り人影はなかったらしい。」
「そうか。海保が来る前に、ほんとに人がおらんかもう一度見ておくか?向こうの船だったら厄介だからな。」
「お?親方も見に行くんで?」
「ああ。一緒に乗せていけ。お宝があるかもしれん。」
「ヨシヒコさんはロマンがあるなあ。そんな景気のいい船には見えませんけどね?」
カズオとヨシヒコを乗せたケンジの小型船は、エンジン音を低く響かせながら、木造船の横手へと慎重に回り込んでいった。帆船とも蒸気船ともつかない、奇妙な造りだ。その船が放つ不気味な存在感は、近づくほどに増していった。
「こんな年代もの、俺が若い頃にもお目にかかったことがない。ケンジ、このまま右舷までひと回りできるか?」
「そりゃ、できますけど。あまり近づきたかないなあ。」
カズオは双眼鏡を覗いていた。
「船室は真っ暗ですねえ。人がいるかは、暗くて分からないな。無人なんじゃないですかねえ。」
「操舵室はどうだ?」
「この角度からじゃちょっと。もう少し、舳先の方に動いてもらえれば。」
ため息をついたケンジは、エンジンを軽く吹かした。船首が近づくと、変わった形の大きな碇が目に留まった。そのまま船首を横目にぐるりと反対側まで移動して、ケンジは再び船の速度を落とした。
「気味が悪いな。親方、あの碇、最近まで使われていたように見えませんか?」
「ああ。フジツボが新しい。この図体なのに登録番号も見当たらん。困ったもんだな。」
「操舵室にも人はいませんでしたよ。暗いし確かなことは言えないけど。」
ザアッと風が吹き付けた。いつにも増して濃い潮の匂いが鼻をつく。三人は黙ったまま、魅入られたように木造船を見つめていた。ふと、何かが聞こえた気がした。
「何か言ったか?」
「僕じゃないですよ。」
「俺でもない。」
再び、同じように聞こえた。
「あの船からですよ!」
「エンジン切れ!」
ケンジがエンジンを切ると、急に静まり返った。波の音に混じって、今度ははっきりと、人の声が聞こえた。
「すみませーん。助けてくださーい。そこの方ー!」
見上げると、木造船の甲板に声の主がいた。その船にはまるで似つかわしくない、淡い色のドレスを纏った若い女だった。欄干から身を乗り出してこちらを見ている。ケンジがカズオを睨みつけた。
「おいおい、人いるじゃねえか。ちゃんと見たのか?」
「見たよお!おかしいなあ。幽霊だったりして。」
「やめろ。シャレにならん。」
ヨシヒコが、年寄りとは思えない太い声で叫んだ。
「どうしたー!何があったー?」
女が手を振った。
「連れが怪我をしたんです。足を痛めて動けなくなって。」
カズオとケンジは顔を見合わせた。ヨシヒコはニヤニヤしていた。
「親方、どうします?海保に任せたほうが。」
「……いや。若い女が助けを求めてるんだ。行かいでか。」
「そう言うと思いましたよ。後で厄介なことにならなきゃいいけど。」
「カズオ、人命優先は海の常識だろう?ケンジ、寄せろ!」
「へいへい。承知!」
接舷したケンジの船を、カズオがロープで木造船に固定する。それが終わるのを待たずに、ヨシヒコが再び声を上げた。
「お嬢さーん!今から行くー。ロープか梯子を降ろしてくれー!」
「ありがとうございます!」
女は、おぼつかない手つきで縄梯子を垂らした。
「しっかり固定したかー?」
「はい。大丈夫でーす!」
ヨシヒコは両手を擦ると、縄梯子を掴んでグイと引っ張った。顎髭を手で撫でる。
「……うん。ま、一人ずつだな。」
軽々と甲板まで登ったヨシヒコの合図をうけてカズオが、その次にケンジが、順に木造船に乗り込んでいった。三人が揃うと、女は頭を下げた。
「わざわざ、申し訳ありません。連れは奥の機関室にいるのですが、私の力では運び出すことができなくて。」
ヨシヒコは首を傾げた。
「私のって、他に人がいるだろう?」
「いえ、乗っているのは私と連れの二人だけです。」
「ええ!?この船を二人で動かしているのかい?まあいい、とにかく怪我人の所に案内してくれ。」
「はい。こちらです。」
(つづく)




