第一話:本編 渇きの王国
砂漠の中に、ひとつの都があった。
いや、都であったものがあった、と言うほうが正しい。そこにはもう人の声も、獣の足音も、井戸端の笑い声もなかった。
残っていたのは、白く乾いた石と、崩れた柱と、砂に半ば埋もれた運河だけであった。
都の中央には噴水があった。
水盤は白い石でできており、かつてはその縁に青い花が彫られていたらしい。
だが、今では彫り目の中にまで砂が入り込み、底には干からびた泥と、塩のような白い跡だけが残っていた。
水盤の真ん中には、魚を抱いた女神の像が立っていたが、その顔は風に削られて半分なくなり、腕の中の魚も、骨だけのように細くなっていた。
風が吹くと、橋の下に積もった骨の隙間で砂が鳴った。からから、と。
それは、遠い昔から渇きつづけている者の喉が、今もどこかで鳴っているような音であった。
その都の門の前に、一台の白い魔導二輪が現れた。
前と後ろに大きな車輪を持つ乗り物であったが、それは鉄と木でできた人の乗り物ではなかった。
車輪の縁は白い金属で、内側には青い光が満ちており、回るたびに、夜の空気の中へ円い残像を残した。
車体は真珠のように白く、鯨の骨を思わせるなめらかな形をしていて、金色の細い骨組みがそれを包んでいた。
その名を、ヨルカといった。ヨルカの背には、ひとりの少女が乗っていた。
少女は濃紺のフードを深くかぶり、金色の目だけを静かに光らせていた。
年のころは十五、六に見えたが、その白い顔には人の子にはない静けさがあり、まばたきも、息も、砂時計の砂が落ちるよりもゆっくりとしていた。
胸元には、金と青で飾られた短刀が留められている。
短刀の名は、アスタ。
ただ鞘の奥でかすかに光り、ときおり眠っている虫の羽のように小さく震えた。ネムリカは、その小さな震えを聞くようにして、胸元に手を置くことがあった。
少女の名は、ネムリカ。
「着いたぞ、ネムリカ」
ヨルカが言った。声は車輪の奥から聞こえた。前輪の青い光がひとつまたたくと、それはまるで、乗り物そのものが目を開けたように見えた。
「ここは水の王国だったところだ。古い名はラウラ=ミド。水が歌う都、という意味だそうだ」
ネムリカは答えなかった。彼女はただ、門の上に刻まれた文字を見上げた。
文字は砂と風に削られ、もうほとんど読めなかったが、ところどころに青い色が残っていた。かつてこの門は、水の色に塗られていたのだろう。
だが、門の下に水の気配はなかった。
あるのは、焼けた石の匂い、古い骨の匂い、そして長いあいだ何かを待ちつづけたものの匂いだけであった。
ネムリカはヨルカから降りた。
彼女の足が砂に触れると、白い脚衣の下で、すねの半ばまで染まった青い模様がかすかに光った。
金の紋様が水脈のように足首へからまり、彼女が一歩進むたびに、砂の下で眠りそこねた記憶が、ほんの少し身じろぎした。
「この国は、死んでいるな」
ヨルカが言った。
「だが、死んだものはふつう静かになる。この国は、まだ静かではない」
ネムリカは小さく頷き、都の奥へ歩き出した。
門をくぐると、風の音が変わった。砂を運ぶだけの音の中に、どこかで水が流れるような、かすかな響きが混じっていた。
もちろん、本物の水はなかった。運河も井戸も噴水も、すべて干上がっていた。それでも、かつて水があったという記憶だけは、まだこの都の底を巡っているようであった。
最初に見つけたのは、市場の跡だった。
屋台は傾き、布は裂け、秤は割れていた。魚を売っていたらしい台の上には、白く乾いた骨が並び、壺の底には黒い染みが残っていた。ネムリカはその壺を覗いた。
水はない。ただ、誰かが最後の一滴を舌でなめ取ったような跡だけがあった。
市場の中央には、石の井戸があった。
井戸の縁には、数え切れないほどの手形がついていた。水を求めた人々が、爪を立て、血を流しながら石にすがった跡であった。縄は途中で切れており、桶は壊れたまま、井戸の壁に引っかかっていた。
ネムリカが井戸の中を覗き込むと、底は黒く、深かった。水のきらめきはなかった。
だが、声が残っていた。
少しでいい。子どもに飲ませてくれ。先に並んでいたのは私だ。金ならある。王宮へ知らせろ。誰にも渡すな。
それらの声は、はじめはひとつひとつ別の声であったが、やがて重なり、濁り、ひとつの大きな音になった。
それは、渇きという音だった。
ネムリカは井戸の縁に指を置いた。指先から落ちた小さな光が、星のかけらのように井戸の闇へ沈んでいった。その光が底に届いたとき、深い闇の奥で、何かが目を開いた。
「まだ醒めている」
ネムリカが言った。
「この国は滅んだ。だが、なぜ滅んだのかを忘れられずにいる」
ネムリカは、井戸から手を離した。
「探す」
「そうだな。答えは、眠りそこねたもののそばにある」
ネムリカは市場を抜け、細い路地へ入った。
路地の両側には民家が並んでいた。戸口には水瓶が置かれていたが、どれも割れており、中には砂だけが入っていた。
ある家の中では、低い食卓に三つの杯が並んでいた。杯の底には水の跡があり、そこだけが黒く染みになっていた。
壁には、子どもの背を測った線が残っていた。
一番上の線のそばに、古い文字で名が刻まれていた。
リーリオ。
ネムリカはその名を見つめた。
「リーリオか」
ヨルカが言った。
「王家の名ではない。けれど、ただの民の名でもない響きだ」
ネムリカは壁に触れた。
その瞬間、部屋の中に、短い過去が灯った。
雨の日であった。まだ幼い少年が、掌の上に小さな雲を浮かべている。雲から落ちる細い雨を、妹らしい幼い子が花鉢で受けて笑っていた。少年もまた笑っていた。
その光景は、すぐに消えた。残ったのは乾いた部屋と、割れた杯と、壁に刻まれた名だけであった。
「水を呼ぶ子どもか」
ヨルカは低く言った。
「ならば、この国がただ干上がっただけでないことは、たしかだ」
ネムリカは路地を出て、王宮へ向かった。
王宮に近づくにつれ、都の乾きは形を変えていった。
市場には争いの跡があり、民家には待ちつづけた跡があった。だが王宮の近くには、もっと整えられた乾きがあった。
広場には兵士の骨が並び、門の前には割れた水差しが規則正しく置かれていた。最後の時まで、誰かが順番を守らせようとしたのだろう。王宮の大扉は開いていた。
中に入ると、広間の床には青いモザイクが残っていた。魚、雨雲、川、女神。そのどれもが水をたたえる絵であったが、上には無数の足跡がついていた。足跡は玉座へ向かい、そこで乱れ、また奥の地下階段へ続いていた。
玉座には王が座っていた。
もちろん、生きてはいなかった。王冠をかぶった骸が、乾いた衣をまとい、今もなお国を見下ろすように座っていた。だが、その両手だけは胸の前で固く組まれており、指の間には薄い青板が挟まれていた。
「記録板だ」
ヨルカが言った。
「王の命令や、神官たちの祈りを残すものだろう」
ネムリカは王の手から青板を取った。
板は半分割れていたが、そこにはまだ読める文字があった。
——水脈、閉ざされる。
——雨雲、国境を避ける。
——井戸、日に三つずつ死ぬ。
——魔法使い、なお戻らず。
——民、暴徒化。
——王命。水を呼ぶ血を用いよ。
ネムリカは、長くその板を見ていた。
ヨルカも黙っていた。胸元のアスタが、鞘の中でかすかに震えた。声はなかった。ただ、その震えは、水底で細い針が鳴ったように静かだった。
「水を呼ぶ血」
ヨルカが言った。
「立派な言い方だな。立派な言い方ほど、ろくでもないものを隠す」
ネムリカは青板を玉座に戻した。
「リーリオ」
「そうだろうな」
ヨルカが言った。
「水を呼べる子ども。魔法使いの家の子。王命で用いられた。だが、それで水が戻ったのなら、国は助かったはずだ。ここにはまだ、何かが足りない」
ネムリカは広間の奥にある地下階段を見た。階段の下から、かすかな水音が聞こえていた。
いや、それは水音ではなかった。喉の鳴る音であった。だが水気はない。擦れるような微かな音——
ネムリカは階段を降りた。王宮の地下は、地上よりも冷たかった。壁には青い石がはめ込まれており、そこには水脈の地図が描かれていた。川は銀の線で、井戸は丸い点で、雨雲は淡い青で表されていた。
だが、それらの線は、地下の奥の一点で、ひどくねじれていた。
いちばん奥に、祭壇があった。青い石で作られた円環の祭壇であった。円の中央には小さな寝台があり、そこには古い鎖が残っていた。鎖は細く、子どもの手首に合うほどの大きさだった。
ネムリカは祭壇の縁に触れた。記憶が開いた。
そこには白い衣を着た魔法使いが立っていた。
彼の前には、少年がいた。リーリオだった。リーリオは怖がっていたが、逃げなかった。父を信じていたからだ。
だが魔法使いは、息子の額に手を置き悍ましい呪いを唱える。
渇き、水を欲せ。水を呼べ。
満たされるな。その飢えをもって、国に水を引け。
リーリオが叫んだ。父を呼び、悲痛な声で水を求めた。
けれど、誰も動かなかった。王も、兵士も、神官も、そして父である魔法使いでさえも、少年に水を与えなかった。
その渇きこそが、水を呼ぶからであった。
記憶はそこで一度途切れ、次に見えたのは、雨だった。
国に雨が降っていた。人々は歓喜し、井戸は蘇り、運河には細い流れが戻った。王は魔法使いをたたえ、民はリーリオを聖なる子と呼んだ。
だが、祭壇の下でリーリオは泣き続けていた。
水をください。
少しでいい。
舌を湿らせるだけでいい。
誰も来なかった。
ネムリカは祭壇から手を離した。地下の空気が重くなっていた。
「水が戻ったのに」
ヨルカが言った。
「子どもだけは、乾いたままにされたのか」
ネムリカは黙っていた。
国というものは、時にそういうことをする。ひとりの痛みを、みんなの希望という名で飾る。
そうして飾られた痛みは、祭壇の上では美しく見える。だが、その下で泣いている子どもの喉には、何ひとつ届かない。
胸元のアスタは、何も言わなかった。ただ、鞘の奥で青く光っていた。
ネムリカの金色の目は、祭壇のさらに奥を見ていた。
そこに、まだ続きがあった。
祭壇の裏には、細い石の扉があった。壁とほとんど同じ色をしていたが、中央には黒い手形が残っていた。大人の手ではなかった。子どもの手でもなかった。
ひどく痩せ、指だけが長くなったものの手形であった。
ネムリカが扉に触れると、扉は音もなく開いた。
その奥には、小さな部屋があった。
部屋の中央には、干からびた骸が横たわっていた。白い衣をまとい、胸には水脈を示す青い紋章がある。魔法使いだった。リーリオの父だった。
骸のそばには、割れた水杯が落ちていた。
そして壁には、爪で刻まれた文字があった。
——息子が、私の水を奪った。
——あの子は、まだ渇いている。
——私は国を救おうとした。
——私は、何を救ったのか。
ヨルカは黙った。ネムリカだけが、骸の前に膝をついた。
そのとき、部屋の奥で砂が崩れた。
人影が立っていた。痩せ細った男だった。長い外套をまとい、片手には折れた杖を持っている。顔は布で覆われていたが、その布の下からのぞく皮膚は、乾いた羊皮紙のようにひび割れていた。
彼はネムリカを見ていた。いや、彼女の内にある、わずかな潤いを見ていた。
男の喉が、からからと鳴った。
「水を」
男が言った。
その声は、ひび割れた器の底から聞こえるようであった。
「水を、くれ」
ネムリカは答えなかった。男が一歩近づくと、石の床が白く乾いていった。彼のまわりでは、空気に残るわずかな湿り気さえ奪われ、景色が陽炎のように揺れた。
「リーリオ」
ネムリカが言った。その名を聞いた瞬間、男の動きが止まった。布の奥で、少年のような目が開いた。
「ぼくは」
男は言った。
「ぼくは、喉が渇いたんだ」
その声は、まだ幼い少年の声だった。
ネムリカの前で、男の体が膨れ上がった。外套が破れ、干からびた無数の腕が現れた。
それは王の腕であり、兵士の腕であり、母親の腕であり、水を奪った者の腕であり、水を奪われた者の腕であった。誰のものかも分からなくなった指が、空を掻きむしっていた。
この国は、水がなくなったから滅びたのではなかった。
水を取り戻すために、ひとりの子どもを永遠に渇かせたから滅びたのだった。
そして、その子どもが初めて水の味を知ったとき、彼は父の水を魔法で奪い、飲んだ。
それだけでは満たされず、次に王の水を飲み、民の水を飲み、ついには国じゅうの水を飲み干した。
水の王国を滅ぼしたものは、砂漠ではなかった。
それは、国が自分で作った渇きだった。
「水を」
リーリオは言った。
「少しでいい。ほんの少しでいい。ぼくは、ずっと待っていたんだ」
ネムリカは目を伏せた。ヨルカの光輪が低く唸った。
「ネムリカ。水を与えれば、あれはまた思い出す。奪う味を」
ネムリカは小さく頷いた。それは救いではない。
もう、救いという言葉では届かないところまで来ていた。
ここにあるのは、終わらせるべき渇きであり、眠らせるべき記憶だった。
ネムリカは、リーリオの横を通り過ぎた。
周囲の影たちは、水を、水を、水を、とざわめいていた。けれど、その声の底には、別の願いも混じっていた。
忘れないで。
私たちは奪い合い、子どもを犠牲にした。
私たちは王を呪った。
私たちは水を欲した末、乾き、死んだ。
ネムリカは地下祭壇から地上へ戻った。ヨルカもそのあとを追い、青い車輪で階段に淡い光を残した。王宮を抜け、広場を渡り、最初の噴水の前へ戻るころには、都じゅうの影が彼女についてきていた。
水瓶を抱えた女も、王冠をかぶった骸も、兵士も、老人も、子どもも、そしてリーリオも。
みな、噴水を見ていた。
ネムリカは水の女神像の足元に立ち、胸元のアスタに手をかけた。
短刀は鞘の中で、かすかに青く光っていた。刃を抜いても、金属の音はしなかった。かわりに、遠い雨音のような響きが、噴水のまわりへ静かに広がった。
「切るのか」
ヨルカが言った。ネムリカは頷いた。
それは肉を切るための刃ではなかった。命を奪うための刃でもなかった。アスタの刃は、眠れなくなった記憶と、そこにしがみつく痛みとを切り分けるためにあった。
ネムリカは、干からびた人々の影へ向かって、静かに刃を振った。
女が水瓶を抱いて井戸へ走った記憶が切れた。兵士が剣を握りしめ、人々を列へ押し戻した記憶が切れた。王が玉座で水を呼ぶ血を用いよと命じた記憶が切れた。子どもが井戸の縁にすがり、誰かの名を呼んだ記憶が切れた。
切られた記憶は血を流さなかった。声も上げなかった。
ただ、長いあいだ固く結ばれていた糸がほどけるように、薄い布となって空中へ漂う。けれど、それは消えることではなかった。
切られたあとには、小さな空白が残った。長いあいだ渇きだけが居座っていた場所に、ぽっかりと、誰のものでもない静かな隙間が生まれた。
ネムリカは、その空白へ息を吹きかけた。青い光が彼女の唇に灯り、空白の中へ落ちていく。すると、影たちの閉じられなかった目の奥に、ひとつずつ夢が置かれていった。
それは水ではなかった。けれど、水の夢であった。
干上がった井戸の底に、昔の水面が戻る夢。割れた壺の中に、冷たい雫が溜まる夢。水瓶を抱えた女が、もう誰とも争わずに家へ帰る夢。橋の上で子どもたちが足を垂らし、銀色の魚がその下を泳いでいく夢。
そして、都の上から雨が降り始めた。一つ、二つ、そして無数に。
砂の上に落ちた星は、水滴の形をしていた。けれど、それは本物の水ではなかった。
触れても濡れず、飲んでも喉を潤さない。乾いた者たちが、最後に見てもよい夢としての雨であった。
リーリオが叫んだ。
「水だ」
無数の腕が空へ伸びた。だが、雨は彼の喉へは入らなかった。雨は壊れた屋根に降り、枯れた運河に降り、水盤に降り、井戸の底に降り、骨の上に降り、干からびた人々の影に降った。
雨に触れた影たちは、次々と顔を上げた。
市場で魚を売る声が戻り、洗濯物を運河に浸す女たちの笑い声が戻り、橋の上で笛を吹く少年の音色が戻った。
王宮の庭には白い花が咲き、雨の中で父の手を握るリーリオの姿が、一瞬だけ浮かんだ。
リーリオは雨の中で立ち尽くした。
「これは、水じゃない」
彼は言った。
「これでは、ぼくは……」
ネムリカは彼の前に立った。
「眠りなさい」
それだけを言った。リーリオの顔が歪んだ。
「眠ったら、僕の乾きは?」
「消えない」
その言葉を聞いた瞬間、リーリオの奥にいた渇きが暴れ出した。王国中の砂が巻き上がり、井戸が割れ、宮殿の塔が崩れた。無数の腕がネムリカへ伸びたが、そのときヨルカが走り出した。
二つの光輪が青く燃え、噴水のまわりを巡った。砂の上に描かれた軌跡は巨大な円となり、二重、三重と増えながら、都全体を包む眠りの輪へ変わっていった。
ヨルカの車体からは、鯨の骨にも似た白い魔導骨格が広がり、それでも前後の光輪は止まらず回り続けた。その回転音は、いつしか子守唄の拍子になっていた。
「国ごと寝かしつけだ」
ヨルカが言った。
「大きな眠りになるな、ネムリカ」
アスタの刃が、ネムリカの手の中で淡く光った。それは、ネムリカの魂をこの世界に縫い留める釘であり、また眠りの扉を開く鍵でもあった。
「ある国があった。その国は水は豊かで、人は美しく、魚は銀の尾をひるがえして運河を渡った。けれど国は乾き、人々は恐れ、王は命じ、父は息子を捧げた。息子は渇き、雨は戻った。だが誰も、その子に水を与えなかった」
ネムリカの声は、不思議なほど静かだった。
記憶の雨は強くなり、砂の都を青く染めていった。リーリオの体からは、腕が一本ずつ落ちていった。
王の腕、民の腕、兵士の腕、父の腕。それらは砂に触れる前に光となり、眠りの中へ沈んでいった。
「これは罪の話。飢え、愛を間違えた父の話であり、救いを求めた国が、ひとりの子どもに乾きを押しつけた話。けれど、もう起きていなくていい」
ネムリカが言った。
「水は戻らない。国も戻らない。奪われた者も、奪った者も、同じ朝には帰れない。けれど、覚えていることと、苦しみ続けることは違う」
リーリオは泣いていた。涙は出なかった。けれど、彼は確かに泣いていた。
「ぼくは、悪い子だった?」
ネムリカは首を横に振った。ほんの少しだけ。それでリーリオの表情は崩れた。
「父様は?」
ネムリカは答えなかった。
父は弱い大人だった。罪を犯した。だが、息子を愛していなかったわけではなかった。だからこそ、その罪はただ悪いというだけでは足りず、深く、かなしいものだった。
リーリオは、乾いた笑いを少しだけこぼした。
「そう」
彼は噴水を見た。魚を抱く女神像。水のない水盤。そこへ記憶の雨が降り積もり、青い幻の水が満ち始めていた。
リーリオは水盤へ近づいた。飲もうとはしなかった。ただ、水面を覗いた。
そこに映っていたのは、干からびた怪物ではなかった。父に手を引かれ、雨の中を歩いている幼い少年だった。
「眠りにつけば、雨は降る?」
リーリオが尋ねた。ネムリカは頷いた。
「夢で」
「乾きは?」
「記憶は消えない。あなたはただ休みなさい」
リーリオは少し考え、それから目を閉じた。
「消えないならそれでいい」
その言葉とともに、彼の体は崩れた。砂ではなく、青い星屑になって。
星屑は噴水の中へ落ち、水面に小さな波紋を広げた。波紋は運河へ、井戸へ、王宮へ、街の端へと伝わっていき、水の王国の記憶は、ようやく眠り始めた。
影たちは一人ずつ膝をついた。水瓶を抱えた女は空の瓶を胸に抱いたまま眠り、王冠の骸は冠を外して足元へ置いた。兵士は剣を手放し、老人は井戸の縁にもたれ、子どもは見えない雨を手のひらで受け止めたまま、静かに目を閉じた。
都全体が静かになっていった。
からからという音は消え、代わりに、遠くで水音がした。
実際には、水など一滴も流れていない。けれど、眠りについた王国の夢の中では、運河に水が戻っていた。魚が泳ぎ、女たちが洗濯をし、子どもたちが橋から足を垂らし、雨季の雲が空を覆っていた。
ネムリカは噴水の前に立っていた。
アスタの刃に残っていた青い光が、ゆっくりと消えていった。
「重かったか」
ヨルカが尋ねた。
ネムリカは首を横に振った。
ヨルカは静かに回る前輪を見下ろすようにして、それから噴水を見た。
「この国の古い歌をひとつ、切らずに残したな」
ネムリカは黙っていた。それは肯定だった。
水の王国には、かつて雨乞いの歌があった。母が子を寝かしつけるときにも歌った、短く素朴な歌である。誰も覚えていなかったその歌を、ネムリカは切らなかった。
ただ、眠りの底へ沈めずに、胸の奥へしまった。
忘れさせないために。けれど、起こし続けないために。
ヨルカは車体を低くした。二つの光輪が静かに回り、砂の上に薄い青の輪を描いた。ヨルカが尋ねる。
「この国は、眠りについたか」
ネムリカは都を見た。噴水も、王宮も、市場も、井戸も、もう彼女を呼んでいなかった。水を求める声も、骨の隙間で鳴っていた喉の音も、砂の底へ沈んでいた。
彼女は死者を救いに来たのではなかった。罪を裁きに来たのでもなかった。
滅びた国の物語を、もう一度始めるために来たのでもなかった。
ネムリカは、目を開けたまま終わってしまったものを眠らせるために旅をしている。
そしていつか、この世界そのものが長すぎる夢に疲れたとき、彼女は世界のそばに座り、最後の記憶を切り、すべてを静かな眠りへ渡すのだろう。
「次はどこへ行く、ネムリカ」
ヨルカが尋ねた。
ネムリカは砂の彼方を見た。夜が明けかけていた。東の空に、薄い金色の線が差している。砂漠の向こうには、逆さまに建つ塔の影と、空中に浮かぶ古い桟橋が見えた。そこにもまた、眠れない記憶があるのだろう。
世界は、まだ醒めすぎている。
悲劇も、祈りも、呪いも、約束も、死んだあとまで目を開けている。
ネムリカはヨルカに乗り、白い魔導二輪が走り出した。光輪が砂を噛み、青い円弧を後ろへ残す。その光はしばらく噴水のまわりを漂い、やがて眠った王国の夢へ溶けていった。
水の王国は、もう彼女を呼ばなかった。ただ、誰もいない都の奥で、記憶の雨だけが静かに降っていた。
次回。回想綺譚にてこの物語の前に何があったのか、語られる—
『 回想綺譚 水を希う魔法使い』も合わせてお読みください。




