第1話:放課後の空白(16歳)
放課後を告げるチャイムの音は、僕にとって「自由の合図」ではなく、単に「次の暇つぶしを探せという通知」でしかなかった。
夕日に照らされた教室。椅子を引く音、部活動へと急ぐ足音、そして今日という日の残り香を楽しむような談笑。それらすべてが、僕の鼓膜を滑り落ちていく。
「誠、お前もどっか寄ってくか? ゲーセンとか」
隣の席の男子が声をかけてきた。名前は……確か、佐藤だったか、田中だったか。どちらでもいい。僕は教科書を鞄に詰め、顔を上げずに答えた。
「いや、いい。予定があるから」
「そっか、熱心だな。じゃあな」
嘘だ。予定なんて、人生で一度も持ったことがない。
ただ、彼らの中に混ざって「楽しそうなフリ」をするのが、途方もなく面倒だっただけだ。それは時間を消費するのではなく、自分を削っているような感覚になる。
僕は一人、静まり返った校舎を歩き、図書室へと向かった。
図書室は、僕のような「何もしない人間」にとって最高のシェルターだ。ここには静寂があり、そして何より、無限に時間を埋めるための「紙の束」が積み上げられている。
棚の端から適当に一冊、背表紙も見ずに本を抜き取った。
タイトルは『中世ヨーロッパの農耕技術』。
興味があるわけじゃない。むしろ、どうでもいい。
内容が頭に入ってこなくても、文字を目で追っている間だけは、脳内の「空白」を埋めることができる。
窓際の席に座り、ページをめくる。
カサリ、という紙の音。
窓の外からは、野球部の掛け声や、吹奏楽部の不揃いなスケール練習が聞こえてくる。
あいつらは、何を求めているんだろう。
必死にボールを追いかけて、何になる?
指から血が出るまで楽器を吹いて、何が変わる?
どうせいつかは終わる「日常」という名の暇つぶしに、なぜあんなに熱量を注げるのか、僕には到底理解できなかった。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
司書の先生が、眼鏡の奥から僕を見ていた。
「鈴木くん、いつも熱心ね。その本、面白い?」
「……いえ、別に。ただ、読んでるだけです」
「何か将来、やりたいことでもあるの? 歴史に関係することとか」
将来。またその言葉だ。
大人たちは、まるで「何かを目指すこと」が人間の義務であるかのように問いかけてくる。
「いえ。……特には」
「そう。まあ、ゆっくり探せばいいわ。時間はたくさんあるんだから」
先生は優しく微笑んで、また手元の作業に戻った。
時間は、たくさんある。
その言葉が、ひどく重苦しく感じられた。
僕にとって時間は「可能性」ではなく、ただひたすら消化しなければならない「負債」のようなものだ。
あと何年、あと何十年、こうして何かを読んで、何かを食べて、空が暗くなるのを待てばいいのだろう。
本を閉じる。
結局、農耕技術の話は一行も記憶に残らなかった。
それでいい。一時間が死んだ。その事実だけが重要だった。
図書室を出ると、廊下はもう影に沈んでいた。
靴箱で靴を履き替え、校門を出る。
ふと、自分の手を見る。
白くて、豆一つない、何にも使われていない綺麗な手だ。
この手で誰かを殴ることも、誰かを抱き寄せることも、何かを掴み取ることも、きっと一生ないのだろう。
「……退屈だな」
独り言は、湿った夜風に混じって消えた。
僕は、明日を拒む理由も、明日を望む理由も持たないまま、夜の淵へと歩き出した。
それが、鈴木誠という男の、数え切れないほど繰り返される日常の、最初の一片だった。




