第181話 密室
タイトルを「春の嵐」から「密室」に変更しました。
「春の嵐」は次のエピソードのタイトルになります。
午後3時、2人は某テレビ局の本社ビルへと向かった。
地上約100メートルの球体展望室は、東京湾を一望できる絶景スポットだ。
大きなガラス窓の向こうに、夕暮れ前の東京湾が広がっていた。
「……うわあ、広~い」
窓に駆け寄り、息を呑む亜由美の横顔に、西日が柔らかく当たっていた。
祐希はその隣に並んで、同じ景色を眺めた。
午後4時、ダイバーシティ東京プラザへ移動。
広場の中央に、全高約20メートルの実物大の巨大ロボットがそびえ立っていた。
亜由美が立ち止まり、真剣な顔で見上げた。
しばらく無言でいた後、ぽつりと呟いた。
「へ~、これに人が乗って……戦うんですね」
あまりにも真剣な口調に、祐希は思わず吹き出した。
「え、なんで笑うんですか?」
「あ、ごめん、ごめん。
でも亜由美さんの反応が、なんかツボで」
「だって、本当にそう思って……」
亜由美が頬をふくらませた。
その嘘のない真っ直ぐさと、無邪気な表情が、さくらに似ていると思った。
午後5時、お台場海浜公園沿いを散策しながら近くの商業施設へ入った。
クレーンゲームではしゃいだり、雑貨屋を覗いたりしているうちに、レインボーブリッジが、夕焼けでオレンジ色に染まり始めていた。
祐希が時計を見ると、既に午後6時半を回っていた。
そろそろ帰る時間だ。
だが、亜由美の楽しそうな横顔を見ていると、なぜか「もう少し一緒にいたい」という気持ちになる。
「お腹が空きましたね」
「そうだね。何か食べて帰ろうか?
亜由美さん、何が食べたい?」
「え、ホントですか?
……私、焼肉が食べたかったんです」
「じゃあ、焼肉にしよう」
祐希が地図アプリで近くの韓国焼肉店を探し、2人はそこへ向かった。
気がつけば既に午後7時を過ぎていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
韓国焼肉店に入ると、亜由美はメニューを開いて目を輝かせた。
「タン塩、カルビ、ホルモン……
メニューにあるの、全部食べてみたいけど無理ですよね」
「じゃあ、好きなの少しずつ頼んでシェアしよう」
「それ、いい考えですね……!」
注文した肉が届くと、祐希が焼き方を担当し、絶妙な焼き加減で亜由美の皿の上に乗せていった。
彼女はそれを美味しそうに頬張った。
「焼肉、美味しい?」
「はい、とても美味しいです。
こんな柔らかいお肉、初めて食べました」
聞き上手な亜由美との会話が弾み、気がつけば入店してから2時間が過ぎていた。
「祐希さん、今日は本当にありがとうございました。
こんなに楽しい休日は初めてです」
その言葉に、祐希の胸が少し痛んだ。
亜由美の孤独の深さが、その一言に滲んでいたからだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
午後9時15分、食事を終えた2人は、アクアシティのエレベーターに乗った。
扉が閉まり、ボタンを押して下降し始めた直後だった。
突然、足元から突き上げるような揺れが襲った。
ガタガタと箱が揺れ、天井の蛍光灯がチラつく。
——地震だ。
揺れが収まるのを待つ間もなく、鈍い音とともに照明が消えた。
非常灯のオレンジ色の光が、狭い箱の中にぼんやりと浮かび上がる。
「……え?」
亜由美が天井を見上げる。
祐希は、すぐさま緊急用のインターホンに手を伸ばした。
「エレベーター集中管理センターです。
どうされましたか?」
落ち着いた男性の声が響いた。
「エレベーターが途中で止まりました……
今、中に2人乗ってます」
「分かりました。現在、地震で安全装置が作動してエレベーターが緊急停止しています。
これより技術員を派遣し緊急点検を行いますので、到着までしばらくお待ちいただけますでしょうか」
「どのくらいかかりそうですか?」
「同様の案件が複数発生しておりますので、到着まで1時間から2時間ほどかかる可能性がございます。
何かありましたら、またお知らせください」
「分かりました」
祐希はインターホンを切り、壁にもたれて座り込んだ。
亜由美もその隣に座り込み、小さく息を吐いた。
「……閉じ込められましたね」
「そうだね」
最初は、どこか他人事のようだった。
しかし、1時間経ってもエレベーターは動く気配がなく、2人の間に焦りと閉塞感が漂い始めた。
長い沈黙の後、亜由美が突然ぽつりと呟いた。
「祐希さん……私、あの夜のこと、今でも時々思い出すんです」
その言葉に祐希の心臓が、大きく跳ねた。
あの夜のこと——それは深夜の病室で自分が彼女の好意に甘えたこと。
極限の禁欲状態とは言え、性欲の処理をお願いしてしまったのだ。
それを「看護師の務め」と割り切り、亜由美は真剣に対応してくれた。
祐希は少し間を置いてから答えた。
「……僕も、あの夜のことは忘れてないよ」
亜由美の指先が、かすかに震えているのが分かった。
彼女は俯いたまま、小さな声で続けた。
「あの時の感触……今も、時々思い出すんです。
私……おかしいんでしょうか?」
祐希は言葉に詰まった。
おかしいと言う資格が、果たして自分にあるだろうか。
さくらという彼女がいながら、亜由美の顔を見るたびに、あの夜の記憶を思い出してしまうのは、他でもない自分だ。
「……おかしくないよ」
絞り出すような祐希の声が、密室に落ちた。
亜由美がゆっくりと顔を上げる。
その瞳は潤み、戸惑いの色を宿していた。
2人だけが知る「あの夜」の記憶が、密室の空気の中に静かに溶けていった。
亜由美は膝の上で指を組み、じっと床を見つめた。
——(言ってしまいたい)
あれは「看護師の務め」ではなく、自分自身が、祐希に触れたかっただけなのだと。
そして、あの続きがしたいと、あれから何度も思ったことを。
だが、それを口にしたら、祐希との関係は壊れるかもしれない。
亜由美は唇を噛み、その言葉をそっと飲み込んだ。
想いを封印し、彼女は祐希に一歩近づいた。
それは肩と肩が触れる距離だ。
「……少しだけ、こうしていてもいいですか?」
亜由美の声には、穏やかだが覚悟を秘めた響きがあった。
「……うん」
祐希が短く答えた。
触れ合う肩から伝わる、彼女の温もり。
密室の空気が、静かに変わっていく。
それから彼女は、看護師の仕事のこと、シェアハウスの住人のこと、金沢での高校時代のことを話した。
亜由美の声は穏やかで、とても心地よいトーンだった。
祐希は、肩に触れる彼女の温もりをずっと意識していた。
ふと亜由美の方を向くと、彼女の顔がすぐ近くにあり、じっと祐希を見つめていた。
亜由美の潤んだ瞳に、祐希の理性が溶けていく。
その距離、約10センチ。
どちらからともなく、吸い寄せられるようにして唇が触れた。
魂が蕩けるような、甘く優しい口づけ。
どれくらいキスをしていただろう。
密室という非現実的な環境で、2人とも時間の感覚が麻痺していた。
気づけば祐希は、亜由美のニットの上から豊かな膨らみに触れていた。
あの夜、同じ手のひらで包み込んだ、忘れ難い感触。
身体に刻まれた記憶が、祐希の意志を置き去りにして動いた。
「……ぁ」
亜由美の唇から、小さな声が漏れた。
拒絶ではなかった。
むしろ、彼女は祐希の肩に手を添え、身体を引き寄せるように密着してきた。
——その時。
エレベーターの照明が突如として点いた。
蛍光灯の白い光が、2人を容赦なく照らし出す。
ガコン、という機械音と共に、箱がゆっくりと動き出した。
「……っ」
弾かれるように、祐希は亜由美から身体を離した。
亜由美もまた、頬を染めたまま一歩下がる。
キスと、そして手のひらの感触だけが、互いの肌と唇に、生々しく残っていた。
※創作活動の励みになりますので、作品が気に入ったら「ブックマーク」と「☆」をよろしくお願いします。




