83億回の出産
寝室に入ると、絹物の山がそのままになっている。 ピンク色の柔らかな絹地の長襦袢を手に持ち、汚れがないか確かめてから、ハンガーにかける。 豪華な桜色の訪問着を両手で広げて、「大丈夫ね、きれい」と呟いて、ハンガーに掛ける。 袋帯を伸ばし「とてもステキ、何てきれいなのかしら」と囁き、同じくハンガーに掛ける。 肌襦袢、裾除け、足袋、「これはお洗濯しないとね」 帯揚げ、帯締め、帯枕、前板、伊達締め、半襟、腰ひも数本を、大事そうに確認して「小物も一つ一つ繊細でいいな」と呟き、引き出しへしまう。 「お着物って良いわね。 自分で着て嫌と言うほど感じさせられた。 男性は知らない喜びよね。 こうならなければ、私も知る事はなかったでしょう。 きれいだ、きれいだと言われていると、やっぱり悪い気はしないし、何だかもう嵌まっちゃいそう。 このお着物もう一度着たくなっちゃった。 彼、当然喜ぶだろうし。 昨夜は、彼とても興奮して、凄く良かったわ。 絹のお着物、彼に脱がされていって、抱かれるの最高でした。 まあ、真昼間からこんな事考えて、はしたないわね。 でも、これ、もう一度着たくなっちゃった。 そうだ彼の両親に妊娠を伝えた時と同じ姿で私の両親にも伝える事にしたら? 彼、どうせ私の言う事なら聞きいれてくれるだろうし。 大体、彼本人がすごく喜ぶだろうし、あたしの両親も喜ぶだろうし。 こんなきれいで高価なお着物、一度着るだけじゃあ勿体ない気がしちゃう。 もう一度着よう、そうしよう。 メイクされて、着付けされて、何だか嵌まっちゃいそう。 大体式の時のあの体験、あれが問題みたい」 着物を陰干しにする、女性はとても楽しそうに見えた。
あいつと何度か電話で連絡し合うなかで、あいつの奥さんが、夫婦どうしで会いたいという希望があり、話し合ううちに、私と彼が、彼奴の家を訪問することに成った。
あいつの家は、駅からも、塾からも、私の両親の家からも、10分ほどの位置にある。 駅近くの閑静な住宅街、彼と手をつないで歩く。 とても、よく知った街並み。
200メートルほど先にあいつの家が見えて来た。 八年前に購入した、35坪の土地に立つ建売住宅。 親から2千万円、女房の親から1千万円援助してもらい、ローンを組んで、購入した。 ローンは奴が払っている。 所有権はあいつに移っていると考えて良いのだろうか? 法的には、入れ替わり何てものは存在しないのだろうけれど。
インターホンを鳴らす、四カ月ぶりの帰宅だ。 しかし、これを帰宅と言って良いのだろうか?
子供が走る小さな物音が聞こえ、暫くしてドアーが開く。 三十代半過ぎの女性が現れて、「本当によく、いらっしゃいました」と満面の笑みを浮べ、愛想よく迎えてくれる。 あいつの奥さんだ。 まだ、腹部の膨らみは分からないが、何となく妊娠中の雰囲気を漂わせている。 母親の後ろに隠れていた、男の子が前に出てきて「ロングヘア―の塾のおねいちゃんだ」と言い、抱きついてきて、私のスカートに顔を寄せる。
以前に美憂がやっていたように、頭を撫ぜてから抱き上げる。 「悠人君、大きく成ったね、凄いねー」と私。 彼の為の小さな菓子の包みを渡すと、「わー、ありがとうございます!」と大声で喜ぶ。
悠人に会って特別な感情がわくかのかと思いきや、女性が知り合いの幼子に会う感じ以上のものはない。
知り尽くした、室内に導かれ、リビングであいつと挨拶を交わす。 ソファーの彼奴の前には彼が、奥さんの前に私が掛ける。 室内の雰囲気は前とほとんど同じで、小さな子供がいるので、少し雑然とした感じではある。
「篠原君でいいかな? 呼び慣れてるし、奥さんとか何か言いにくいよね」と彼奴。 「ええ、篠原でお願いします、あたしも北島とか呼ばれると、少し戸惑うし」
話題は、二人が妊娠中の為、出産の事、子育ての事が中心になる。 妊娠中の生活の事、出産の事、子育ての事、経験者の彼女に色々と質問する。 話慣れた、相手なので質問しやすいのかもしれない? 向こうは塾で働いていた若い女性としか思っていないはずなのだが。 「悠人君の時はどうでした?」 「それは、ねえ、初産だしもう地獄としか言いようがないの。 でも、あれを最初に抱いた時の満足感も、生涯わすれないでしょうね。 まあ、大変よ、あなたも覚悟するのね」 「アー、やっぱり大変なんですね」 「でも大丈夫よ。 みんな乗り越えて行くんだから、60億人全員がそうして、生まれて来たんじゃない。 60億で良かったかしら?」 「だいぶ違うね、2026年現在、約83億人で覚えるようにしている」「そういう事、詳しいんだから、この人。 こちらの方もそうね」と私を差して笑う。
「悪阻はどうですか?」 と私の彼。「今回は軽かったわ、殆ど終ったみたい」 「うちのも、殆ど出てないですよ。 全然元気です、最初から葉酸のサブリを沢山飲んだのが、良かったのかもしれない」
ここから中学受験の話になる、今年は御三家が何人だとか、早慶が何人だとかの話になる、私も元々関係のあった事柄なので、話題には困らない。
悠人がやって来て、何故か殆ど知らない私の彼に甘えて、膝に乗ったりしている。 「悠人もそのお兄ちゃんみたいに、・・・学園、・・・大学医学部みたいな学校に進学しようね」と母親。 「君は、僕の後輩になるのかな?」と彼は悠人の頭を撫ぜて笑う。
こうして見るとこの家の様子は以前と、何も変わらないかのように見える。
彼奴と私はあの飛んでもない秘密を知るが、奥さんと彼は何もまったく知らないでいる。 彼奴は夫であり父親である事を普通にこなしているように見える。 私も結婚して、新婚生活を平常に送るという、難題をほぼ完全にクリアーして来た様に見える。 入れ替わりと言う、超現実的事態に対し、あいつが主張していたように現実的に対応して来たのだ。 双方とも。
入れ替わりの直後は、私が現実的対応をすべきと主張したと記憶している。 入れ替わったといえ、元々の二人の関係では、こちらが主導する立場だったからだろう。 しかし、そう時間がたたないうちに、若い女性として暮らすこちらは、頼りがいのある中年男性としてくらす、彼奴に主導される立場に転換し、入れ替わって行った感がある。 現実的対応を私が求められ、説得される立場に転換して行ったのだ。 とても受け入れられないはずの事柄を、現実的に受け入れざるおえなかったからだろう。 女性として、予定どうりに決まっていた式を挙げ、夫との性関係を結び、さらに妊娠し、受け入れる事など出来ないはずの事を全て受け入れて来たのだ。 それどころか、今では隣に座る彼と心の底から愛し合い、妊娠までして、しかもそれに無上の幸福感を抱いている。 以前ならばまったく考えられないい自分が現実に存在している。
目の前の彼奴はどう思っているのだろうか? あいつは何時もどうり、なかなか雄弁で、話が面白く、ユーモアがあり、奥さんや私を笑わせている。 この男の雰囲気は入れ替わりの前とほとんど同じだ。 中身は、違うはずなのに?
こちらも、表面的には何も変化していないだろう。
ただ、結婚を機に、クールな雰囲気の若い女性から、夫が大好きな可愛い人妻に変化したのだろうか? 入れ替わりなど無くても、この肉体の女性は、その変化を遂げたと思う。
あの式で、白無垢から色打掛に移行することに伴う気持ちの変化。 7日間のヨーロッパ旅行で、とことん彼に愛されてしまい、元々この体に秘められていたであろう、性的感受性を完璧に引き出されてしまった体験。 帰国したときは、彼を客観的に眺めていた自分から、彼と同じように配偶者を愛する、人妻に変貌していた。 あれほど、恐れ、嫌悪していた、妊娠が喜びに変貌していた。
「篠原君、メイクしたり、和服着たり、なんか変ったね。 前はおしゃれとかあまり関心がなかったみたいだったけど」とあいつ。 「結婚しましたから、少し女らしく成りたいと思いまして」と私。 「こんなハンサムな彼がいるんだ、当然だろうな。 それにしても、若くてこんなきれいな奥さんを持つなんて、心底羨ましいね」と彼に視線を向ける。 「家のは、色気はたっぷりだが、篠原君にはとてもかなわないなと」皆を、笑わせる。




