2.24 よくある寒村のありふれた悲劇
生まれ落ちた時、人は初めて世界を知る。
空気の震えを、人肌の温もりを、秋空の寒さを、礼儀を、喜びを、信念を知る。
母親の腕に抱かれ、愛の庇護を受けて、過酷な世界で生き抜く術を知るのだ。そして何も知らない赤子は、知識を持って人となる。
では、愛を知らぬ子がいたら、愛を注がれぬ子がいたら、その子は何を頼りに生きればよいのだろうか。
とある寒村に住む女は、成人になると同時に都会に出た。華々しい生活を夢見て。
都会に出た女は、持ち前の器量の良さと勤勉性を発揮して、瞬く間に都会の生活に馴染んでいった。女から地方特有の訛りが消えて、綺麗な標準語を話すのに半年も月日は掛からなかった。
最初はパン屋で働いていた女だが、努力の成果もありついに大きな商家の屋敷に住み込みで働くことになる。簡素ながらも一人部屋を獲得し、給料も確かな重みを感じられる程になった。
女は確信する。自分の人生がどんどん良い方向に進んでいっていると。
そして女の人生は最盛期を迎える。屋敷で働き始めて半年が経った頃、彼女の働きぶりとその容姿が、家主の目に留まったのだ。
女は家主と懇ろになった。家主には妻子がいたが、屋敷の中の誰よりも愛を注がれたのは彼女だった。
女が人生のターニングポイントを迎えたのは、屋敷で三回目の冬を迎えてすぐのことだった。その日は朝から薄汚れた雪が降っていて、街が灰を被ったように色彩を失っていた。
その日、女は目が覚めてすぐ二度ほど吐いた。それが妊娠によるものだというのは、すぐに家中に知れ渡る。彼女のお腹はコルセットを締めてもなお、隠しきれない程に膨らんでいたのだ。
そして妊娠が発覚した日、女は家を追い出される。家主が愛していたのは女そのものではなく、彼女の肉体だった。
職を失った女は、身重の体を引きずり故郷へと帰る。そして冬が終わりを告げる頃、一人の男の子を産んだ。名はホフマン。
ホフマンは望まれぬ子だった。
ーーー
「誰ですか、あなた?」
冷たく低い声が響く。目の前の幼い子供に向けて、母親が示したのは明確な拒絶だった。
「あっ……えっ……」
ホフマンは壊れた絡繰のように、言葉にならない声を発して、母親の顔と地面を交互に見る。足元には手からはたき落とされ、ほどけた花冠が転がっている。
ホフマンは少しの間固まったあと、ぎこちない動きで地面にしゃがみ込む。そして散らばった花をかき集めはじめた。割れた陶器の破片を一つずつ集めるように、必死に手を動かす。その姿はあまりにも痛々しいものだった。
目に涙を浮かべて花を集めるホフマンに、母親が無表情のまま近づいていく。大きな影が小さな少年を覆い、ホフマンは母親の顔を見上げる。
「あっ、はは様……」
ホフマンが言葉を発した瞬間、彼のかき集めた花々を女が思い切り蹴り上げた。花は宙でばらけて、強風に吹かれ丘の下へと落ちていく。
ホフマンは呆然とした様子で、その一部始終を見つめる。もう、言葉を発することさえできない様子で。
そんなホフマンの代わりに声を張り上げたのはユーリカだ。
「ちょっと! いきなり何をするんですか!?」
声を震わせるユーリカに、女は初めてユーリカの方を見る。その瞳にはホフマンに向けたものと同様の冷たい色が宿っていた。そして少しの沈黙のあと、ユーリカへ向けて口を開く。怒りを堪えるように、頬を振るわせながら。
「あなた達がこの子を連れてきたんですか? 余計なお世話をしてくれましたね」
「余計なお世話って……。ホフマン君は貴女の大切な子供じゃないんですかっ!?」
「確かにこの子は、私とあの人の子供です。だから余計なお世話だと言ったんです」
ユーリカの問いかけに対して、女は平静を保つように低い声で答える。
淡々とした口調ながら、そこには確かな怒気があった。決して軽くはない、深い深い怒りが。
女の表情に、ユーリカは思わず気圧される。
「この子は算術ができません」
「えっ?」
女は唐突にそう切り出した。それがとても致命的なことであるかのように、ホフマンを睨みながら告げる。
「それだけではありません。この子は容量が悪く、炊事も縫い物も褒められた出来ではありません。裁縫に関しては満足に服を繕うことすらできません。力もないので畑仕事にも向きません。この子に都会の標準語を三歳の頃から教えてきましたが、ご覧の通り不完全で拙い言葉しか話せません。すぐ言葉に詰まりますし、文法の理解というものができていません。……私とあの人の子なのに、聡明さも器用さも何一つありません。彼の不出来を目の当たりにする度に、深い悲しみを覚えます。いや、悲しみというより憎悪かもしれませんね。あの人と私を引き裂いたくせに、どこまでも間抜けで役に立たない。私の人生の負債です。だから、家から早く出ていって欲しかった。本当は敬語と仕事を覚えさせて、どこかの屋敷に働きに出させるつもりでした。しかしそんな能力はなかったので仕方なく奴隷に出しました。私にとっての呪いの象徴、それからようやく解放されたと思ったのに。今こうして、この子は私の前に帰ってきてしまいました。奴隷として出してお金を受け取ったのに、その商品が逃げ出して帰ってきたらどうなりますか? 契約不履行です。よりにもよって契約不履行の相手は伯爵様です。この子のせいで、私は伯爵様の怒りに触れてしまったのですよ。ああ、この子は神から私に託された恩寵です。呪いという名の逃れられない恩寵なのです。そう、強く痛感します。この子は一度ならず二度までも私の人生を狂わせた。私の人生の汚点、決して消えない陶器の罅のようなものです。そんな最悪な汚点が、拙い花冠を作って、拙い敬語を使って、挙句私の前でその不細工な顔を涙で濡らしている。全く、これに勝る悪夢がどこにありましょうか? 泣きたいのはこちらだというのに……」
女の言葉は呪詛だった。女の中で長い人生の中で形作られてきた負の感情。その全てが濁流のように溢れ出す。理性という名の堤防は決壊し、狭い出口に呪いの言葉が殺到していく。
もう何者にもそれは止められなかった。
「で、でも……」
それでも粘ろうとするユーリカの肩を、アルビオが大きな手で掴んだ。
「もう今日は無理だ。見りゃぁ分かんだろ?」
ぶっきらぼうな言葉だが、それが事実だということはユーリカには分かった。ぽっと出の部外者が口を挟む余地など、どこにもない。目の前の女の呪詛には、そう思わせるだけの説得力があった。
「……もう、帰ってください」
女が絞り出すようにそう言うと、そのまま静かに玄関の扉が閉じられた。
ーーー
木陰の中で兵士たちが息を潜めている。統制された指揮のもと、音を出さず、岩のように。
兵士たちの視線の先にはひとつの村があった。名はカイラ。かつては林業でそれなりに栄えた村だったが、今は侘しい寒村である。
村を見つめる彼らの手には鈍色の輝きを放つ剣が握られていた。
ああ全く、どうしてこんな事になってしまったのか。ツヴァイは己の愚かさを祟りながら、ことの行く末を眺める。
ツヴァイの脳裏を巡るのは後悔と、昨晩マリシャという少女と交わした会話である。
マリシャの献身により、ツヴァイは昨晩伯爵の私兵団から逃れる機会を貰った。わざわざ危ない橋を渡って、少女はツヴァイを逃がそうとしたのだ。そうして与えられた千載一遇のチャンスを、ツヴァイはみすみすと手放した。
なぜ逃げなかったのか。
自身が逃げたらマリシャが疑われるのでは、という思慮かもしれない。
このまま伯爵に貢献すれば出世の道が開かれるのでは、という打算かもしれない。
どうせ逃げても行く宛などないという、諦念かもしれない。
理由はツヴァイ自身さえ分からない。確かなのは、ツヴァイは昨晩一歩動き出せずに、今ここにいるということだ。
「この世は悲劇に満ちている」
ツヴァイの意識を現実に戻すように、ひとつ、声が響く。
低い男の声だ。その声色は落ち着き払っていたが、それがかえってツヴァイに底知れぬ恐怖を覚えさせた。
声の主は伯爵の執事ゴレムス。その裏の顔は伯爵の悪事を支える懐刀である。冷酷にして付け入る隙を与えぬその男は、兵士たちに言い聞かせるように言った。
「怪物の襲撃に遭い命を散らす旅人がいる。医者にかかる金を持たぬ病人がいる。差別の果てに街に住むことを許されぬ亜人がいる。親に愛されない子供がいる……。この世界ではどれもよくあることです」
雄弁に語りかけるゴレムスの意図はツヴァイには分からない。周囲の私兵たちも同じようで、静かに頷きながらもその瞳には困惑の色が滲んでいた。
そんな私兵たちの様子など知らぬといった素ぶりで、ゴレムスはカイラの村を指差した。
「だから、目の前の寒村が野盗に襲われて滅ぶのだって、よくあることです」
「なっ……」
どこからか漏れ出た驚愕の声を掻き消すように、ゴレムスは続ける。
「カイラは今日滅びる。たまたま村を訪れていた聖女様一行も巻き添えになり、生存者はゼロ。遅れてやってきたマルダン伯爵様の私兵団により、野盗は殲滅される。……そんな脚本でどうでしょうか?」
胡乱かつ露悪的なその脚本は、私兵たちに課された命令であった。
村人もろともユーリカたちを殺せ。そして帳簿を取り返せ、とゴレムスは告げているのだ。
ゴレムスの命令に、ツヴァイは嫌悪とも恐怖とも取れる不快感を覚える。あまりにも乱暴で後先を考えない作戦だ。論理的にも、道義的にも、それは却下されるべき案である。
しかし、私兵たちに拒否権はなかった。
カチャリ。鉄靴の音が鳴る。それが侵攻の始まりだった。
「進軍開始!」
先頭の兵士が声を上げると、鉄靴の音は何重にも響き、野盗と化した兵士たちが村に押し入る。それから間も無く、村の方から悲鳴や怒号が轟いた。
「くくっ……くっ、くくっ!」
彼方から響く悲鳴に耳を澄ませ、ゴレムスはこれまで保っていた仏頂面を崩し、醜く笑った。人々の悲劇を心の底から喜んでいるような、暴力的な笑みだ。
そこでツヴァイはゴレムスという男の本性を悟った。この男は綺麗で冷静な振る舞いの裏に残虐性を隠しているが、その実は人面獣心の怪物であると。
裏の世界では時に、自ら望んで悪事に手を染める者と会うことがある。彼らは生きるため、食事にありつくため、家族のため、そういった理由を持たずに己の欲望のために他者を蹴落とす。ゴレムスの歪んだ笑みは、そういった根からの悪人と同質のものだ。ツヴァイの目にはそう映った。
愉しげに笑うゴレムスに向かって、一つの人影が近づいた。
「一体っ! どういうつもりですか、ゴレムスさん!!」
銀のツインテールを振り乱し、ゴレムスに詰め寄るのはマリシャだ。彼女の人形めいた美しい顔は、怒り一色に染まっていた。
「どういうつもりかと聞かれたら、私は伯爵様の任務を完璧に遂行するつもりと答えますよ?」
鬼気迫るマリシャの非難を受けて尚、ゴレムスは顔色ひとつ変えず、とぼけるように肩をすくめる。
「帳簿を盗んだ聖女様は、それはそれは慈愛に満ちた方だとお聞きしています。きっと村人が襲われていたら、彼女は見捨てられないでしょうね。村人を人質に取られたら、彼女はどうなってしまうでしょうか? これは合理的な判断ですよマリシャ。私は伯爵様のために全力を尽くしているんです」
ゴレムスは聞き分けのない子に言い聞かせるように、ゆっくりと話す。
ユーリカに対しての足止めや人質。そのための作戦だとゴレムスは言う。しかしゴレムスの露悪的に歪んだ顔は、そういった狙いとは別に村の侵攻を楽しんでいることを物語っていた。
「だからって村の人々を襲うなんて……」
「はぁ」
未だ非難の目を向けるマリシャに、ゴレムスはわざとらしくため息を吐く。
「そんなに命が大切なら、早く帳簿を取り返すことです。貴女が聖女様を殺して帳簿を持ってくれば、この襲撃も終わりになる」
その長身を屈めて、ゴレムスはマリシャの顔を覗き込んだ。そして大きな手でマリシャの頭を撫でてみせる。
「できますよね? だって貴女は『役立たず』なんかじゃないんだから」
「っ……!?」
ゴレムスの言葉を受けて、マリシャの肩は大きくはねる。そして動揺したかのように、大きな瞳を震わせた。
「『役立たず』に居場所はありません。また凍える夜を星空の元で過ごしたいですか?」
「嫌、です。役立たずになるのは……もう嫌ですぅ」
「そうですか」
マリシャの小さな背中は、どんどんと萎縮して縮まっていく。何かに怯えるように、先程まで怒りの矛先を向けていたゴレムスへと縋り出す。その姿は惨憺にして、一種の狂気さえ感じさせた。
「それなら、頑張らないといけませんね。マリシャ」
「はい。……はい」
ゴレムスがひときわ優しい声色でそう言うと、マリシャは人形のようにこくこくと頷く。
まるで洗脳だ。ツヴァイは目の前の光景に顔をしかめる。もしも自分がアルビオやルカのように大きな力を持っていたら、この場に割って入って全てを解決できたかもしれない。しかし悲しいかな、ツヴァイは凡庸で意気地のない男だった。
「聖女様を倒して、帳簿を奪取します」
そしてゴレムスの意図のままに、マリシャはカイラへと走り出す。糸に繋がれた操り人形のように。
「あっ……」
ツヴァイは僅かに左手を前に伸ばし、その少女を呼び止めようとして静止する。呼び止める勇気も、少女に掛ける言葉も、ツヴァイは持ち合わせていなかった。
その間にも走り出したマリシャの背中はみるみる小さくなっていく。銀のツインテールを揺らし、少女の背中は慟哭響く村の中へと消えていった。
「役者だねぇ。君には詐欺師の才能があるんじゃないかな、ゴレムス?」
マリシャが場を去るのと同時に、二つの人影がゴレムスの背後に現れる。
一人は白いコック帽を身につけた猿顔の巨漢。もう一人は貴族風の綺麗な身なりをして、端正な顔に意地の悪い笑みを貼り付けている青年だ。
ビッグコルクとキュラン。ブルネン宅襲撃時に私兵を率いていた二人である。
「襲撃が始まったワケだし、僕らも楽しんでいいんだよねー?」
貴族風の格好をしたキュランが、軽薄さを全面に出してゴレムスに尋ねる。
「待機とは言わせんぞ。良い食材を素人に捌かせるわけにはいかない」
コック風の身なりで、右手に持った巨大な出刃包丁を握ったビッグコルクが、キュランに同調する。
「血気盛んな方々だ。もちろんいいですよ。何せそれが我々の仕事ですからね」
「あはーはぁっ! その言葉を待ってました! 仕事……そう、仕事だもんね。全く最高の仕事だよ!」
「ええ、私も同感です。伯爵様の名の元、権力に守られて振るう暴力は気持ちいいものです」
悲鳴が響く村を前に、男たちは邪悪な笑みを交わし合う。心の底から、眼前の悲劇を楽しむように。
「さて、それじゃあ早速、僕も仕事に行こうかな」
キュランはすまし顔で指を鳴らすと、彼の背後から屈強な兵士が五人現れる。高価な鉄製のプレートアーマーを着込んだその男たちは、伯爵の私兵とは明らかに違った。
「行くぞスコット騎士団。ショータイムの時間だ」
スコット騎士団と呼ばれた五人は、キュランの名を受けて恭しく頭を下げる。ただ一人を除いて。
「しかしキュラン様、罪無き者を害すなど我々には……」
キュランに異を唱えるのは、五人の中で中央に立つ男だ。白髪混じりの黒髪を後ろに流し、口元に立派な髭を貯えた初老の騎士である。
初老の騎士は頬に薄らと汗を流しながら、苦悶の表情を浮かべてキュランを静止する。
「相変わらず意気地なしだなベーグル。いいよ、殺しは僕がやる。お前らは最強の盾として僕を守っていればいいんだ」
キュランが面倒くさそうに一蹴すると、ベーグルと呼ばれた初老の騎士は口を閉じる。その顔には深い後悔や諦めが、皺のように刻まれていた。
ベーグルのことなど気にも留めずに、キュランは口笛を吹いてカイラの村へと歩き出す。屈強な騎士たちを引き連れて歩く様は、まるで貴族が鹿狩りに出る時のようである。
しかし十歩ほど歩いたところで、キュランの歩みが不意に止まる。何か忘れ物を思い出したように。そして無邪気な笑みを浮かべて、ツヴァイの方を振り返った。
「……そうだ、お前も来いよ奴隷商人」
「えっ……」
突然自分に向けられた矢印に、ツヴァイは驚きの声をあげる。そんな反応すらも楽しむように、キュランはツヴァイに笑いかけた。
「もし良い女がいたら奴隷にしたい。お前が調教しろ」
その場の全員の視線がツヴァイに向けられていた。注目を浴びていることに気がついたツヴァイは、背中に冷たいものを感じながら逡巡する。
ここで動向を拒否すればどうなるのか、それを想像すれば答えはすぐに出た。
「へいっ! 喜んで!」
ツヴァイは今日一番の快活な声を出す。そして満面の笑みを作ると、キュランの方へと走り出した。




