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8.セレスタ

 いくつもの涙の粒がぽたぽたとテーブルに落ちた。さらにはかみしめていたはずの唇の間から嗚咽が漏れそうになる。

「セリィ」

 ヴィクトが慌てたように立ち上がる音が聞こえた。

「その、君を泣かせるつもりはなかったんだ」

 戸惑いに満ちた声と、いつもと同じように優しく頭を撫でる手。逆の手がらしくなく荒い仕草でセレスタの体を抱き寄せる。

 これまでになく近づいた距離、ヴィクトの厚い胸板を感じた瞬間に驚きでセレスタの涙は引っ込んだ。

 そのことに気付いた様子もなく、ヴィクトはぎゅうぎゅうとセレスタを抱き寄せ、慰めるように頭を撫で続けている。

「僕はずっと君と一緒にいたいと思っているから、きちんとした形をとりたいと考えて。だから、そう話そうと」

「……ど……どう、いう……こと?」

 なんとかぐいと顔を上げると、当然ながらヴィクトの顔が至近距離にあった。泣き顔を見られたと思えば恥ずかしく、セレスタは視線をうつむける。

 赤の他人だなんてついさっき口にした人と思えないくらい暖かいまなざしが、そこにあった気がした。

「僕らが他人でなくなる方法は、一つだけだよね」

「ひとつだけ……」

「本当の家族になればいいのさ」

 それが唯一の答えだと言わんばかりの、自信に満ちた言葉だった。

「ほんとうの、かぞく」

 なのにセレスタには彼の真意がまったく理解できなかった。なにかよくわからないことを聞いた気がした。

 だのにヴィクトは自信たっぷりに「そう」とうなずく。

「今更、正式に義兄妹の縁組みをするわけではないよ。兄妹はずっと一緒にいられないんだからね」

「――じゃあ、どうするの?」

 問いかけると、未だセレスタを抱き寄せたままだったヴィクトの腕がすっと離れた。さらに彼は一歩退き、床に跪いてしまう。

 ぎょっとするセレスタをヴィクトは見上げ、セレスタの手をそっと持ち上げた。

「ヴィー?」

 眼鏡の奥の瞳にはいつもの優しさはなく、怖いくらいに真剣だった。後ずさりたいのにできなかったのは、単に手が取られていたからだ。

「セレスタ・ハイライト嬢」

 戸惑うセレスタの本名を口にして、ヴィクトは彼女の手の甲に恭しく口付けた。予想外の行動に反射的に引きそうになった手を、彼は離そうとしない。

「ヴィクト・マードラーの名の下に生涯君を愛し守ると誓う。だから、君の人生を私に預けてくれるか?」

 ヴィクトは伏せていた顔を上げ、先ほどと変わらず真剣なままの青い瞳が鋭くセレスタに突き刺さった。

 かつて聞いたことがない堅い口振りで告げられた言葉に、セレスタはまったく現実味を感じ取れなかった。

「……うそ」

 突然、たちの悪い寸劇に巻き込まれたと言われた方が信じられそうなくらいだった。

 だって、今、彼はなんと言った?

「もう嘘はなしにするとさっき言ったじゃないか」

 セレスタの呟きにヴィクトは苦笑して、いつもの調子を取り戻す。彼女の手を離さないまますっと立ち上がり、さらりともう一度唇を落とすところだけが普段と違う行動だった。

 手の拘束は強くはないのに、セレスタを離すまいという意志を感じる。

 そこに至ってようやくようやくされたことへの理解が追いついて、自分の顔に朱が走ったことをセレスタは自覚する。

 この短時間で気持ちが上がったり下がったりを繰り返している。もしかしたら途中から白昼夢を見ているんじゃないかと疑わしいくらいの目まぐるしさだ。

「夢でも見てるんじゃないかしら。おにーちゃんが……こんなこと」

 セレスタは思わず口にする。

 彼女の知るヴィクトは、いつでも妹を優しく見守る兄そのものだった。なのに今、別の姿を見せられた気がする。

 ――彼の隣に立ちたいという願いが夢を見せているのかしら?

 そう考えればすとんと胸に落ちるものがあった。

「僕は、君の兄じゃないよ」

 どこまでが現実で、どこまでが夢なのだろうと考えはじめたセレスタを、ヴィクトの声が現実に立ち戻らせる。

「これまではなんとか兄の真似くらいしていたけど、これからはそうはいかない」

「なんで?」

 再び泣きたい気分になりながら、セレスタはどうにか問い返した。

「僕も男だからさ。何度も言っただろう? 君を守ることが僕の幸せで、君と共にあることで僕は癒される。

 だからこそ大事に守ってきて、魅力的な女性になろうとしている女の子を、みすみす他の男に持って行かれたくはない」

「え」

 ぽかんと口を開けるセレスタに目を細めて、ヴィクトは彼女の手をつかんだのとは逆の手を伸ばしてきた。少しかさついた指先が頬を撫でる。

「セリィ、僕は悪い男だからね――君が世間を知り、他の誰かに目を移してしまう前に、君のことを囲い込んでしまいたい」

 ちっとも現実味はないけれど、今、自分は彼に口説かれている。セレスタはようやく悟った。

「今はまだ兄を慕うような心地でも構わないよ。僕と一緒にいられないことが泣くほど嫌なのなら、求婚を受け入れて欲しい」

 セレスタの理解が追いつくのを待たず、ヴィクトは一足飛びに結論を求めてくる。

 それだけ望まれているなんて本当だとは思えない。でも、嘘は言わないと言った彼の言葉は、信用がおけるとセレスタは感じた。

 本当のことを話せば嫌われるかもしれないと何も告げることのできなかった自分とは違う。ヴィクトは恐れずに真実を口にしてくれた勇気ある人だ。

 そう確信を得たセレスタは、こくりとうなずいた。

 胸が詰まっていてすぐに何かを言葉にすることはできなかった。

「よかった」

 ヴィクトはほっとしたようにもらすと、セレスタを再び引き寄せる。

「セリィ、君を誰よりも大事にするよ」

 一瞬の抱擁、優しいささやき、満足げな瞳の輝き。

 セレスタは間近にヴィクトを見つめ、自分の選択が間違っていないと感じて再びうなずいた。

 先ほどの堅い言葉よりも、よっぽど彼らしくて安心した。

「大好きだよ、ヴィー」

 他に何か言うべきことはたくさんあるのだろうけど何も思いつかなくて、セレスタはあふれんばかりの気持ちを伝えるためにとにかく彼にぎゅっと抱きついた。

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