知らない過去
叶湖と、そのあとの自分の食事分の食器を洗っていた黒依が、ふ、視線をあげると、カウンターの上の瓶が目に入った。叶湖が始めに飲んだ薬が入っていたものである。
黒依はなんとはなしに、その瓶を指でつまみ上げて眺め見る。
叶湖の言葉どおりであれば、五感の1つである触感を消さんとするような薬である。おそらく、合法的に手にできるようなものではないのだろう。それを、いつものことのように飲み干した叶湖の姿を思い浮かべる。
なんと、生き辛い人なのだろう。
人間が生きている内に感じる、全ての痛みを排除することなど、到底不可能である。
暗殺者をしていた自分ほどに痛みを感じる人間も少ないだろうが、しかし、ただの生理現象ですら、時期を見誤っただけで泣きわめくことになるのだ。
今日は黒依が居たから、彼女を抱えあげて薬棚へ移動するのもスムーズだった。自分の力だけで、這うように棚を目指し、力尽きるようにその場に蹲ってしまった叶湖を思い出す。
黒依がいなければ、どうしていたのだろう。これまでの彼女は、どうしてきたのだろう。
そうまで考えたところで、黒依は、部屋のものと、もう1つ別の鍵を手にとって、気がつけば外に出ていた。
この先に冬が待っていると告げるような、冷たい風が頬を撫でる。
首輪が外れて、身体的に自由になったことは疑いようもない事実であるのに、隣に叶湖がいないことに、息苦しささえ感じる。身体の代わりに、心が捕えられたようだった。
黒依は自分で自分の心を誤魔化すことはしなかった。分かっているのだ。この一瞬の間にすら、彼女が傍にいないことがこんなにも寂しいのだ、と。
冷たい風のなか、1度だけ彼女と歩いた道を辿って、ある建物の前につく。
黒依は、持ち出したもう1本の鍵を使って、その中へ入って行った。
カラン、
涼しげな音を立ててドアを開けた男は、カウンターの内側に、見慣れた店主がいないことに気付いて目を細めた。
「お前だけ? ポチ」
「待っていたんです、空也さんを」
黒依の真剣な瞳に溜息をついて、空也はもう1度店の扉をあけると、外側にかかっていた『closed』の札を外して戻ってきた。
「俺に用があるからって、開店詐欺は止めてくれよ。腹減ってるのに」
「すみません。……どうしても聞きたいことがあったんです」
「俺に? っていうか、なんで叶湖の同伴なく1人で出歩いてるんだ。アイツは?」
瞳を鋭くして黒依を射抜く空也の前に、黒依はこつ、と小さな音をたてて小瓶を置いた。
「なんだ……、って、あぁ、アイツまた飲んだのか」
その瓶を見て、空也は深い溜息をつくと、ようやく黒依の話を聞く気になったのか、いつものカウンター席に腰かけた。
「最初に言っておく。話は聞いてやる……が、それだけだ。叶湖のことについて、お前が知らずに俺が知っていることは山とあるが、それをお前に話す気はない。アイツはとりわけ情報を重く見てる。自分の知らないところで、許可なく自分の話をされるのを、好んでいない」
空也の真剣なまなざしに、黒依は、はっ、と気付いて目を見開く。
「そう、ですよね。そうでした……。情報を扱う方だと知っていたのに……」
空也に指摘されたことに初めて気がついて、黒依は眉をよせる。そんな黒依に空也は言葉を続けた。
「次に、俺が扱ってる商品の話だ。この瓶に入ってた薬を叶湖に売ったのは、お前の想像どおり俺で間違いない。が、この先は、俺が扱う商品……ようするに、俺のビジネスの話になる。秘密にするような話でもないが、他人のビジネスの話をロハで聞こうっつーのは、虫がいいと思わないか? ただの雑談じゃねぇ、って分かるよな?」
「……そのとおり、です」
空也の言葉に何の反論もできずに黒依はうつむく。
叶湖について知らないことが多すぎる現状に耐え切れず、気がつけばマンションを飛び出していたが、つまるところ、その行動が意味するのは、彼女の話を第三者から伝え聞くということに他ならない。……自分のことを叶湖が勝手に調べたことも知ってはいるが、だからといって、同じことをやり返すというのは正道ではないと感じた。
同時に、空也の言うことも尤もで、それで生計をたてている人間相手に、無償で何かを願うのは、虫がいい話だとも分かっている。商品の話だろうがなんだろうが、天下の往来で商売している相手ではないのだ。後ろ暗い人間であればあるほど、そんなビジネスの話をよく知らない人間に話せるわけがない。
「すみません……空也さんの言うとおり、です」
「ま、俺が釘をさしたってことで、叶湖にはフォローしておいてやるよ。いい勉強になったな」
素直に謝罪した黒依に、空也は軽く息をついた。カウンターに肘をおき、その手に顎を乗せてニヤリ、と黒依を見て笑う。
「に、しても。おしゃれなネックレスはつけたままだが、やっと1人歩きが許されたわけか。アイツの傍はどうだ、飼い犬くん?」
空也の視線の先には、くっきりと残る首輪の跡がある。
「……分かった上で聞くんですか? ……最高です」
「好きか? アイツが」
「……はい」
空也の問いかけに黒依が頷く。
「そうか……」
その答えに、空也は溜息とともに深く頷く。その表情が僅かに曇り、しかし、次の瞬間には、どこかふっきれたような表情になる。
「アイツを守れよ、番犬くん。この店に来てる連中の中には、もっと酷いやつもいるが、アイツはアイツで結構危ない橋を渡ることもある。手ぇ離すなよ。それから、アイツが望むように、ちゃんと壊れて、狂ってやれ。……まぁ、もう壊されたあとらしいが」
「空也さんは……叶湖さんとどういう関係なんですか?」
「商人と客。或いは、喫茶店のマスターと客、だよ」
「そうですか。……分かりました」
空也の言葉に黒依が静かに頷いた。




