17日目
翌日は朝からしとしとと雨が降っていた。
「気が滅入りますね。夜から明け方にかけては、さらに酷くなるみたいですよ」
雨が降ると湿気で髪がまとまらなくなる叶湖は、不愉快そうに髪をひとまとめにしながら黒依のために朝食を準備する。
ちなみに叶湖は小食で、特に朝などは珈琲さえあればいいと思う人間である。
顔を洗ってきた黒依に卵粥を手渡して、自分は珈琲を片手にソファへかける。
なんともなしにテレビの電源をいれると、ニュース番組が雨雲の様子を伝えていた
「今日は1日家に?」
「そうですね。買い物は昨日しましたし、わざわざ雨の日に出かけることもないでしょう」
「叶湖さん……いつもの、痛みがきません」
「前の発症から、そんなに時間経ってました?」
「もう、丸1日くらい……」
とぼけて見せる叶湖に黒依はしっかりとした視線で見返す。
「昨日の薬……解毒剤だけ、ですか」
「さぁ、どうでしょうね?」
にこりと笑った叶湖に、くしゃり、と黒依が顔を歪める。
「もう、いいんですか。僕を、いじめなくて。……それが目的だったのに、どうして……?」
「まだ捨てませんから、安心なさい。私の心の内を、アナタに話したって、どうしようもないでしょう?」
叶湖の言葉に黒依は顔を曇らせたままである。
「捨てられるのは、嫌……でも、放っておかれるのも、嫌、です」
首でも締まるのではないかというくらい、首輪の鎖をぴん、と張って、ソファにいる叶湖に縋りつこうと手を伸ばしてくる。
「まったく……」
叶湖は珈琲をローテーブルに置くと、ソファから立ち上がり、肘掛を周りこんで黒依の傍にしゃがみこんだ。
「まだ不安定なままですか」
落ち着いたと思ったのに、とぼやきながら、ついに涙がこぼれ始めた黒依の頬をすっと撫でる。
「叶湖さん……、泣いて、構っていただけるなら、いくらでも泣きます」
「毎日泣かれてたら、こっちが疲れます」
言葉は冷たいが、手はあやすように黒依の頭を撫でている。
「叶湖さん」
頭だけでなく、身体ごと叶湖に擦り寄る黒依に苦笑して、叶湖はしばらくそのままでいた。
「飴と鞭は交互に与える派なんです。緩急つけないと堕とせないでしょう? アナタは黙って、私にされるがままになってればいいんですよ」
「は、い……分かりました」
「よろしい」
朝食が済むと、叶湖は洗いものや掃除をしたり、自室に籠って仕事に手をつけたりする。
昼をすぎて、日が傾き始めると、だんだんと雨脚が激しくなっているのが分かった。
ごろごろと、空が雷鳴の音を響かせている。
夕食やシャワーを済ませて、1日を終えようかとする頃になると、防音設備などなかったように、外の雨音が家の中まで響き、時折暗闇を割って、雷鳴が轟く。
叶湖がふと黒依の様子を見れば、真っ青な顔をして掛け布団の中で震えていた。
そんな黒依に嘆息して、叶湖は布団ごと、黒依を包み込むように抱きしめた。
「っ」
抱きしめられたことに、びくりと体を震わせて、黒依の瞳が叶湖を捉える。
「……アナタが妹さんと攫われたのは、こんな雨の日でしたっけ?」
びくり、と布団の中の黒依が身体を大きく揺らした。
叶湖に向けられたままの黒依の瞳に恐怖が過る。
「もう随分も前のことでしょうに、何が怖いんです? アナタが逃げ出してきた組織ですか? それとも、組織に騙され無実の人間を殺してきた自分? 妹さんが疾うに亡くなっていたにも関わらず、のうのうと自分だけ生き延びたこと? あの世でアナタを恨んでいるかもしれない、アナタの手にかかった死人の魂ですか? それとも彼岸でアナタを待っている妹さん?」
「っ、やめ、……やめてくださいっ!」
黒依が叫び声をあげが、それでも叶湖は言葉を止めない。
「卑怯ですねぇ。そんなに私の言葉が聞きたくないなら、私を殴ってでも止めればいいじゃないですか。手が自由な今なら簡単でしょう? それをせず、やめて、と言いながらも私の言葉を聞き続けるのは、自分のためじゃないんですか? 私の言葉で許された気になっています? アナタを責めるのは、あくまで私で、アナタの口先だけの制止を聞かずに喋り続ける私1人に、責任を押し付ける気ですか?」
叶湖が黒依の身体を布団の上から撫でながら囁く。その声色は優しく、その言葉は、まるで真綿の絞殺のようである。
「それとも、私に構ってもらって喜んでいます? 私に構ってほしいのは、1人が嫌だからですよね? だから、私のどんな行為も受け入れている。それもまた、アナタが望んだんじゃない。私が勝手にアナタにしたこと、と思ってるんですか? 冗談。私に傷つけられて、なお、私を望んでるのはアナタ自身でしょう? 今まで殺した人間も、アナタが見殺しにした妹さんも、全て忘れた気になってでも、私の傍に居たいんですか? それって、酷いことですよね? 黒依」
叶湖が言葉で責め立て続ける。黒依が叶湖を望むように仕向けたのは叶湖自身であるにも関わらず、今に至っては、それを黒依の悪行だと言わんばかりに追い込んでいく。
「あっ……あぁ、僕は……僕はっ!」
ボロボロと叶湖の腕の中で泣きわめく黒依に、叶湖はうっすらと笑みを浮かべる。
「やっぱり死にたくなりました? 私を置いて、私を選ばず、彼岸の人間に会いに行きたい?」
「ふぅっ……僕、は」
ぐらぐらと、黒依の瞳が揺れる。
黒依がその目に絶望の闇を灯すのは久しぶりであった。
叶湖の好きな瞳の色である。
「……僕は、なんです? 言わないなら、やっぱり私の言葉が正しいんですよね。私はアナタの傍には不要ですよね」
「嫌っ! 待って、離さないで下さい……叶湖さっ」
「嫌ですよ。私、自分の腕から逃げて行くペットをわざわざ引っ掴んで傍に繋いでおくほど、暇じゃないんですよねぇ」
叶湖と黒依のこれまでを知っている人間ならば口を揃えて言うに違いない、どの口がそれを言うのか、と。
そもそも死にたがりの黒依をひっ捕まえて磔にしてまで、その精神を追い込んできた叶湖が、何を今さら、である。叶湖も自覚しながら、それでも、黒依を責める。
そんな叶湖の悪行すら、今となっては自分で望んでいたのだと、黒依に思いこませる。
「いやだっ……、傍に、傍に居て、離さないでください。……死にません。アナタの傍にずっといます。アナタ以外、目に映しません。……アナタのモノになりますからぁっ」
嗚咽を漏らしながら縋りつく黒依に、叶湖は口の端だけで笑顔を浮かべた。
堕ちた。
「いい子ですね。ご褒美に慰めてあげます」
「っ、」
黒依が驚きの声を出すか出さないか、という内に、叶湖は黒依の身体を横に倒し、布団の中に潜り込んで、黒依と並んで自分も横になる。
「叶湖さっ!?」
焦って声をあげる黒依の頭を撫でながら、叶湖はニッコリと笑顔を浮かべた。
「泣きたいなら、気が済むまで泣いてなさい。雨が、アナタの怖いものを全部流してくれるかもしれません。眠くなるまで、私が寝かしつけてあげますから」
叶湖の言葉に、黒依は涙を止められないまま、その腕を叶湖の腰にまわす。
黒依の顔から流れた涙が、その顔が押し付けられた叶湖の胸元を濡らす。
「私にしては大サービスなんですから、感謝してくださいね」
「は、い」
叶湖を抱き込んで大人しくなった黒依は、それから僅かな時間で眠りに落ちて行った。
そんな黒依を見ながら、叶湖は内心でため息をつく。
寝付かせるだけだと言ったにも関わらず、黒依の腕はしっかりと叶湖の身体を抱き込んでいる。これは抜けだすのは無理だな、と早々に悟って、覚悟を決めた叶湖が自分も寝るかと目を瞑った。
フローリングの上ではあるが、黒依のために毛布を敷きこんだ上なので、そうそう身体は痛めないだろう……と信じたい。
雨がやむまで、起きなければいい。そんなことを考えながら、叶湖もまた、眠りの中に落ちていった。叶湖が眠りについた後で、彼女を抱きしめる腕が一層強くなったことを、彼女は知らない。
他人の気配に敏感で、夜、なにかと眠りの浅かった黒依が、叶湖を抱き込んだまま、深い深い眠りに落ちたことなど、叶湖には思いもつかなかった。
黒依が堕ちました。
次話からサブタイトルが変わります。




