叶湖と痛み
次の朝は快晴だった。
目覚めた叶湖が、いつもとは違う目の前の風景に目を瞬かせていると、ぎゅ、と身体を拘束していた力が強くなった。
「すみません。床の上なんかで眠らせてしまって……」
目線をあげると、黒依が申し訳なさそうに眉を寄せていた。
「いつ起きたんです」
「しばらく前です」
「それで、ずっと私を眺めていたと? 悪趣味ですね」
「……動いたら、起してしまうと思ったので」
叶湖は黒依の言葉に苦笑して、やんわりと自分に纏わりつく腕を押し返す。
「いい、天気ですね。……起きましょうか」
「はい」
叶湖の言葉に、黒依がまぶしそうに目を細めて、カーテンの隙間から漏れる朝日を見つめた。
昼になって、私室から出て洗面所へ向かった叶湖は、どこか不機嫌であった。
「叶湖さん……?」
標準装備の笑顔は浮かんでいるが、どこか雰囲気が刺々しい叶湖に、黒依は床から腰を浮かせて様子を伺う。が、その問いかけに返すこともなく、叶湖の背中は洗面所へと消えていった。
しばらく様子を見ていた黒依だが、叶湖がいっこうに洗面所から戻ってこないのを不思議に思い、かちゃり、と首輪の音をたてながら立ち上がる。
「! 叶湖さん?!」
洗面所へ向かった黒依が見たのは、洗面台の縁に手をかけて掴まりながらも、その下で蹲っている叶湖であった。
黒依が慌てて叶湖に駆け寄ると、その頬から涙がぼろぼろと零れ落ちているのに気付いた。
「ふっ……っふえぇぇぇ……」
「どうされたんですかっ?」
いきなりのことに混乱しながら、叶湖の背を擦っていた黒依は、僅かに叶湖から漂う匂いに気付いた。
「……血……? 怪我は見当りませんし……月のモノ、ですか?」
叶湖の顔を覗きこみながら黒依が尋ねると、小さく叶湖が頷く。
「……失礼します」
黒依はそれだけ言うと、叶湖を軽々と持ち上げて自分の寝床へ運びこみ、その身体を布団でくるんだ。
「とりあえず、身体、温めましょう?」
そう言いながら黒依は叶湖の腰当たりを撫でるが、叶湖の涙は収まらない。
どこかへ向かおうとしているのか、布団から抜けだして床を這うように進もうとした叶湖が、しかし、痛みに呻いてその場で崩れ落ちた。
「ふっ、うあぁぁぁん。ふえぇぇぇん」
そんな叶湖を抱えあげ、もう1度寝床へ戻ってきた黒依だが、大きな声で泣きわめく叶湖の頬をますます涙が伝う。
「どうしましょう……どうしたら……。叶湖さん、お腹、痛いんですよね?」
「ふぅ……んっ」
黒依の言葉に、またも、叶湖が小さく頷く。
「さっき、薬を取りに行こうとしたんですか?」
「んー」
黒依の言葉に叶湖が指差したのは、リビングの奥、キッチンの方向であった。
もちろん、黒依は自分が何度も打たれた注射の薬液が、そちらの方面から持って来られたことを知っている。同じ棚に入っているのか、と思いながら、そこまでの距離を目測して顔を歪めた。
「鎖の、長さが……」
「……ごめんなさい、また、着けますから」
黒依は小さく謝ると、叶湖の服を漁り、首輪の鍵を取り出した。
後ろ手になったのをものともせず、器用に首輪の鍵を外し、身軽になってキッチンの方へ向かおうとする黒依の服の裾を、きゅ、と叶湖が掴む。
「すみません、薬、取るだけです。どこかに行ったりしませんから」
叶湖の手を自分の手で包み込みながら、黒依が告げると、叶湖はふるふると首を振った。
「ふぇっ、私、も……ぅぅうっ」
「私も? 叶湖さんをお連れしたらいいんですか?」
叶湖の小さな言葉をしっかりと黒依が聞きとって、小さく頷いた叶湖を抱き上げる。
叶湖が先ほど指さした方へ向かうと、なるほど、叶湖が自分を連れていけと言うわけだ。薬棚を見つけることは簡単であったが、その棚に並ぶ瓶にはラベルが貼ってあるものの、そのラベルは文字ではなく、いくつかの記号の並びで描かれていた。
当然、黒依はそんな暗号が解けるわけもないし、毒薬が入っていることを知っている棚から、目に付いたというだけで薬を取り出すのはもっての外である。
「どれですか?」
叶湖にも薬品棚の奥まで見通せるように、抱えあげ直した黒依が尋ねると、ふらり、と叶湖の腕が動いて、1本の瓶を取り出すと、黒依が何か言う間もなく、その蓋を開けて液体を呷る。
「うぅん……」
空になった瓶が叶湖の手から滑り落ちるのを、黒依が器用に受け止めて、キッチンカウンターの上に置き直す。
「部屋で休みましょう、叶湖さん」
いくらか泣き声がおさまってきた叶湖にそう言って、叶湖の私室の方へ歩き始めた黒依を、再び、叶湖がその服を掴んで押しとどめた。
「どうかしました?」
「部屋には、入らないで……」
呟いた叶湖の頭が僅かに揺れ始める。泣いてるからではなく、叶湖の意識が朦朧とし始めているのが黒依には分かった。
「分かりました。叶湖さんの部屋には入りません」
「んっ」
小さく頷いて、目を瞑ってしまった叶湖を揺らないように、ゆっくりとソファに横たえる。申し訳ないと思いながらも、普段、自分が使っている布団を、その上にかけた。
洗濯されたばかりの布巾を取ってきて、濡らしたそれで涙の跡が残る叶湖の顔を優しく拭う。汗に濡れる叶湖の前髪をサイドに流してやりながら、落ち着きを見せた叶湖の容体に、ほっ、と息をついた。
まだ、首輪はつけていない。つけてしまえば、ソファの前に周りこんで叶湖の様子を伺えなくなってしまうから、と自分に言い聞かせて、黒依は静かに、叶湖の傍に腰をおろした。
黒依が、叶湖の泣きわめく姿を見たのは、これで2度目だった。
1度目は、黒依の意識が戻ったその日に、叶湖の首と腕を締めた時だった。
今になって思えば、その時も、普段の性格から伺える叶湖の人物像からは想像もできない泣き方だった。
ただ、この時まで、そのことを深く考えることはなかった。黒依は、ともすれば絞殺しかねない勢いで叶湖を襲ったのだ。荒事とは無縁の女性であれば、尋常ではありえない恐怖が沸き起こしても仕方がないと思っていた。
だが、今日は違う。もちろん、黒依には経験しようがないことであるが、とりわけ症状の重い女性であっても、叶湖のように泣きわめくほどの痛みを感じるとは聞いたことがない。
そんなことをつらつらと考えるうち、叶湖が初めて泣いた時に呟いた言葉を思い出した。
痛いのが怖い……そう、言っていたのではなかったか。
そう考えれば、先ほどの叶湖の様子にも納得がいく。
もちろん、真相は叶湖に尋ねなければ分からないが、痛みが怖いと泣くのであれば、当然、その涙のトリガーは痛みにあるのだろう。
ぐっすりと眠る叶湖の姿に、目覚めた時には痛みが消えているといい、そう思いながら、黒依はその傍に寄り添った。




