-4-
「鈴鹿。おまえ、永劫くんの部屋で何話してたんだ?」
「んふ。ひ・み・つ!」
明宜の視線が痛い。
いつも眠たそうな目をしているというのに、こういうときだけ鋭いのだ。
慣れたものだけど。
うふふと笑って、永劫の部屋から去った。
気味が悪そうな視線を背中に感じて、夕日が差してきた町のなか、散歩をするためにこの家を出る。
「がんばってねぇ」
玄関で呟くと、鈴鹿は夕方の町に繰り出した。
「あ」
無言で入ってきた明宜は、どこか不機嫌そうだった。
いささか、ぼんやりとしていた所為か、入ってきた明宜に反応したのは数秒たってからだ。
よっこいしょ、と遠慮なく声を出しながら、永劫の隣に座り込む。
正直、今明宜の顔を見ることができなかった。
だから、畳のうえに置いてあった本を手持ちぶさたに取り上げて、ぱらぱらと見下ろす。
「なーに読んでんのー?」
「これですか? 夏目漱石のこころです」
「こころ。こころかぁ。名作だよね」
「……あんた、読んだことないでしょう」
「なぜばれた……」
こころを名作だと思うのはいい。
しかし、声色が軽すぎた。こころ――先生と、私。恋は罪悪だと言った、先生。
わかっていますか――。
その言葉の意味が分かってしまう事に、今更戸惑う。
(ほんとうに、そうだ。恋など、と。)
(するものじゃ、ない。)
「ねぇ。永劫くん」
「なんです」
肩と肩がぶつかり、思わず距離を取る。
それを見つめていた明宜は、すこしだけ悲しそうに眉根を下げた。
(ちがう。)
(そんな顔を、してほしいわけじゃないんだ。)
「俺のこと、嫌いなのはいいけどさ。けど、君を見殺しにするわけにはいかないんだ。この命にかけて」
「……違う!!」
うつむいたまま叫ぶ。
違う。
違う。
違う違う。
「――違う。あんたのことは――嫌いと思えない。……思いたく、ない」
「……そっか。よかった」
安堵する明宜を、いっそのこと嫌いになれたらいいのに。
だが、嫌いには決してなれないという事を知っている。――好きになってしまったから。
「それに、あんたに命をかけてほしくない。あんたの命は、あんたのものだから」
「――永劫くん」
「俺のために、傷つかないでくれ。お願いだから」
明宜はただ押し黙り、沈黙だけが流れる。
隣に座ったままの明宜を盗み見ると、こちらをじっと見据えていた。
目と目が思い切り合って、思わず目をそらしてしまう。
「でもね、永劫くん。俺は、きみにそれくらいさせてもらう意味があるんだ」
「生きることより大事なことなんてあるのかよ!」
「――なが、」
「俺は、俺のために傷つく人間を見たくないんだよ。……あんたなら、なおさら」
痛い。
苦しい。
「きみだって、どうして、そんなに思いやられるんだい? 他人を」
「違う! 言っただろ。全部は俺のためなんだ。俺が、俺のために」
「永劫くん。聞きなさい」
まるで、斬るようだった。
その衝撃に、目を見開く。
両腕をつかまれ、飴色の目に射すくめられる。
――逃げられない。
鋭く、斬られそうな視線。
今までのぼんやりとした目とは、まったく違う。
大人の表情だった。
(ずるい。ずるい、大人だ。)
「きみは、生きなきゃいけない。章介さんのためにも、ご両親のためにも」
「あんたは、知らないんだ。俺が生きることで、あんたを苦しめるということを」
「俺が苦しむことはいいんだ。きみが生きなきゃいけないのは、きみだけのためじゃないということなんだよ」
そんなこと、知っている。
痛いほどに。
祖父のためにも、もういない両親のためにも生きなくてはいけないという事も分かっている。
苦しい。
喉が痛む。目の奥がひどく熱い。
泣くものか。
泣いてしまったら、明宜を傷つけてしまう。それが怖い。
ぐっと奥歯を噛みしめて、目を伏せる。
それでも、腕の力は弱まらなかった。反対に余計、力が加わっている気がする。
「あんたは……珊瑚さんは、なんでそんなに俺に構うんですか。昔、俺が珊瑚さんに売った恩のためっていうなら、忘れてください。今の俺は憶えていないんですから。そんなの――苦しいだけです」
「永劫、くん」
「珊瑚さんは知らなくていいんです。俺の気持ちなんて。だけど、覚えておいてください。珊瑚さんの命も、鈴鹿さんの命も、――俺の命もおなじなんです。おなじくらい、尊いんです」
目を見開く明宜が見えた。
それから、すっと目を伏せ、くちびるをかすかに開く。
「……きみの命も、俺の命もおなじ、か……。ほんとうに、」
「それ以上言ったら俺、本気で怒りますよ」
「――……」
「命に、尊くないものなんてないんです。でも、それ以上に、俺は」
駄目だ。
言ってはいけない。
奥歯がかちかちと鳴る。怖い。痛い。苦しい。
「あんたにしてみれば、甘いと思うでしょうね。でも、あんたの命を、大事に、……大切にしたいんです」
「……永劫くん」
腕にあてがわれていた両手が、そうっと、両頬に触れられる。
その手の体温がひどく冷たくて、とうとう――目じりから、涙がこぼれてしまった。
そうっと、そのあとを親指で撫でられて、ぐっと奥歯を噛みしめる。
溢れてしまう。
とめどなく。
「――俺、あんたが好きなんです」




