-5-
昼食を作って、入れ替わりにシャワーを浴びる。
「はあ……」
何故か、ため息を吐き出してしまう。ばたばたと落ちてくる生ぬるい湯は、この胸の内のざわざわしたものまでは拭い去ってはくれない。
シャワーのコックをひねって止める。
ぶるぶると頭を振って水を飛ばしてから、風呂場から出た。
シャツを適当に羽織って、チノパンを履く。
ずいぶんさっぱりしたが、胸の奥のざわつきはどうしようもできない。
「……」
ぺた。
――ぺた。ぺた。ぺた。
「……珊瑚さん?」
廊下を裸足で歩く音。
自分ではなければ明宜だ。
だが、いや――しかし……。
明宜は、座敷にいるはずだ。なら、――なら。一体、何だ。
ぞっと背筋が寒くなる。
――ぞくり。
「……」
足が強張る。腕も、首も、頭も。
なにもかもが凍り付いてゆく。
ぺた、ぺたり。
吐息が、首筋にかかる。
「――ひ……っ」
ぺた、
――ぺた。
「――永劫くん!」
叫んだのは、明宜だった。
それから、
――それから――
赤い、赤い、赤い、赤い――。
硝煙のようなものが、廊下に染まった、ように見えた。
そして、
――そして、一陣の風。
白い風が、赤い硝煙を切り裂く。切り裂いて、それから――白い鳥になった。
ぼんやりとする視界のなか、白い背中が見える。
「――珊、瑚――さん……?」
廊下に転がっているのか、立ったままなのか。それさえ分からない。
ただ、宙に浮いているような、浮いていないような。そんなあいまいな感覚だ。
「――……」
呼吸の音が聞こえる。自分は今、どうなっているのだろうか。意識ははっきりしているが、視界がはっきりしない。
まるで、寝起きのようだ。
ただ、紙を焼いた臭いが――このあたりに充満している。
「……ぅ……っ」
呻いて、ゆっくりと起き上った。起き上ったと言うことは、たぶん倒れていたのだろう。
周りはやはり、紙が焼けた臭いがした。
「永劫くん」
「!!」
ほっ、と安堵した顔が目の前にあり、驚いて思い切り顔をあげる。
あげたせいで、
――ごつん、
と、自分の頭と明宜の顎がぶつかった。その拍子で、また頭が落ちる。
「い……ッてええぇっ!」
「あ……すみません」
顎を思い切り頭でぶつけたのだから、それは痛いだろう。
一応、謝る。
――それにしても、近い。
目と鼻の先だ。よくこの男には、見下ろされる。
腕で頭を支えられていた。
――ほんとうに自分は、倒れていたのか。先刻までは意識ははっきりしていたというのに、今はなんだかとても――ぼんやりとする。
「あの」
「うん?」
「ほんとう、大丈夫ですか?顎、すっごく赤くなってますけど」
「いや、大丈夫。それにしても、まいったなぁ――」
腕で体を支えられたまま、明宜は顎をぼりぼりと掻いた。
その表情は、本当に――まいっているような。
「……さっきの、ですか」
「うん。結界を施したはずなんだけど」
「け、結界?」
「きみにあげただろう。お守り。それ自体が結界になるんだけど。そうかぁ――。盲点だったな」
体に力が入らない。
野良神というのは、本当に恐ろしいものだ。
こんな――こんな、恐ろしいものに、明宜は。
「風呂場じゃ、お守りは持っていかないからねぇ」
「そ、そうか……。じゃあ、風呂場にも、お守りをもっていかないといけないのか……。じゃあ、ジップロックにでも入れればいいかな?」
「そうだね。そうしたほうがいいかもしれない。それに、まあ――、本当に、まずいな」
明宜の目の色が変わる。真剣な、色をした。
「きみ」
「は……?」
「きみは、本当に強いものを持っているねぇ。分かっていたけど。だから、かな」
「――なにを言っているんですか?」
「きみがまだ、生きているってこと。本当言うとね、ないんだ」
いまだ明宜の腕と、自分の頭はそのまま。
「ない?」
「うん。きみがこれまで生きてこれたという保証。言ったでしょ、最初に。いつ死んでもおかしくないって」
「は、はぁ……」
「俺の力も、そんなに強いものじゃない。大抵の野良神は相手にできるけど、今きみに憑いている野良神は、なんていうか――その、きみが望んで憑けているって感じがするんだよね」
「え……。それってどういう」
「きみ、思ったことない?」
「なにをです」
「生きていたくない、って」
「!!」
だから、でしょ。
明宜は、するすると視線を下げて、永劫と目を合わせた。
「そ、そんな、こと、は……」
「ない、と言い切れるのかい? 野良神は、普通の人間に憑いてもそれ程、力をふるえない。ある種の人間を除いてはね」
警鐘が聞こえる。
聞いてはいけない。見てはいけない、と。
「死ぬまではいかないんだよ。野良神が憑いた人間は。そもそも、野良神は強い人間には憑けない。持っているからね。でも、きみは違う」
――知っている。
知っていた。
自分は弱いということを。
自分は、本当はあの時――野良神に憑かれそうになったとき、わずかな期待があったことを。
本当に死にたくない人間は、あんなことを思わない。きっと。
――まだ死ねない、なんて。
まだ死ねないということは、今死ねないということだ。
「今」が終わったら?次はもう、ない。
(どうして、俺は。俺は、そんなふうに思うことしかできなくなったのだろう――。)




