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死にたいとか、死にたくないとか。
そういうことは、誰もが、この世界の人間すべてが、思うはずだ。
ただそれは一時のことで――、それだけで野良神に憑かれることはない。
「野良神は、その名の通り野良の神。神社にいるだけじゃない。野良なのだから、居場所がない。居場所がないということは、そこらじゅうにいるという事」
「――……。そ、れは」
「わかるかい?どういう意味か」
廊下に寝そべったまま、口許だけでわらう明宜をただ――見上げた。
そこらじゅうにいる――。
人間だと思っていたものが人間じゃない。
人間じゃないと思っていたものが人間。
猫も
犬も
虫も
「きみの目には、たぶん、違って見えるんだろうねぇ。この世界は。俺が犬に見えるものは猫に見えるし、猫に見えるものは犬に見える」
「俺の、目……? それ、は、野良神に、憑かれたから、で」
「それはちがう」
あっさりと、明宜は否定する。
かぶりを振って、――それから、笑みを消した。
「きみが、君自身の世界を変えた。最初からそうだったのさ」
「そんなはずは……」
「言い切れるのかい?」
息をのむ。
違うとは言い切れなかったからだ。
思い当たることが、多すぎて。
「きみのお父上とご母堂は、一体、誰だった?」
「え……」
誰。
両親。
父親。母親。
わからない。誰だったっけ。
名前も、顔も、思い出せない。
ぐにゃり、と明宜の顔がゆがむ。思い出せない。思い出せない。思い出せない。
「死にたいと、きみは思っていた。生きていたくない、と。それはきみのせいじゃない。きみが本当に思っていたことは、そんなことじゃない」
どういう意味だろうか。自分の想いは、自分だけしか分からない。
それなのに明宜は、なんでそんなに、――辛そうに顔をゆがめるのだろう。
「喰われたんだよ。きみは」
「え……」
「野良神に。記憶も思い出も、なにもかも。すべて」
ゆっくりと瞬きをする。目の前には、やはり明宜がいた。
まぎれもない、珊瑚明宜が。
じゃあ、今、ここにいる自分は何なんだ。記憶も思い出も野良神に喰われているのなら、今、ここにいる自分は、一体誰なのだろう。
「じゃあ、俺は、誰なんだ? じいちゃんやあんたは、一体誰なんだ?」
喉がからからに乾いている。
目さえも乾いて、ひどく痛い。
「永劫くん。俺は珊瑚明宜だし、きみのおじいさんは大神章介さんだ。間違いはない」
そこでようやく、体を起こすことに成功した。
それでもひどくゆっくりとした速度でだが。明宜は辛抱強く待っていてくれて、ようやく廊下に座ることができた永劫を、じっと見下ろした。
「じゃあ、何なんだよ。一体、野良神って何なんだ?」
「野良神は、もともと“喰らうもの”なんだよ。野良神だった以前――本当の神だったころだって、人間の畏怖や敬うという思いや気持ちを喰らっていた。喰うことで、存在を保っていた。神というのは、人間がいて初めて存在できるんだよ。考えてもみれば、古事記や日本書紀に書かれている神々は、もともと人間が書いたものだ。そうだろう? 誰も、それを視たものなんかいない」
「……野良神も、神も、すべて人間が作ったって言うのか?」
「そう」
明宜はゆっくりとうなずいて、飴色の目を永劫の黒紅の目に向け、真摯に――言葉をつづける。
「だからこそ、やっかいなんだ。神ならまだいい。祀られて、押さえつけられているからね。厄介なのは野良神だ。畏怖や敬う思いを糧とした神とは違い、人間そのものを狙っている。意思なんてないに等しいんだ。だから、女子供関係なく襲う。ほとんど本能で動いているからね」
「子供……」
「……大丈夫かい?」
手を差し出されて、ゆっくりと立ち上がる。
ようやく立ち上がることができて、安堵した。
薄い、あめ色の髪の毛。
透けて、きらきらと光っている。外は、まだ明るい。
「頭、痛い」
「……すまない。急にいろいろなことを話しすぎたね」
「――謝るなよ。まだ分からないことあるけど。本当のことなんだろ? だったら、教えてほしい。父さんや母さんの顔が思い出せない……食われた記憶のことも、どうしたら取り返せるのかも」
「……――そうだね。また、いずれ、ね」
明宜は、知っている。
永劫の幼いころのことも、喰われた記憶の事も、父の事も母の事も。
だけど、今聞く勇気はなかった。
それに――なんだかとても、辛そうだったからだ。
「明後日、俺の友人――というか、腐れ縁の男がくるんだ。きっと、力になってくれる」
「ああ、……うん。分かった。なあ、珊瑚さん」
「うん?」
「――冷蔵庫に、なんにもないんだけど」
明宜は破顔して、腹を抱えた。




