プロローグ 1
ピンポーン!
インターホンが鳴り響いたのは、最悪のタイミングだった。
あと数分で、アメリカの雇用統計が発表される。
世界の金融市場において最も重要な経済指標のひとつで、結果によっては金融市場が急変することも多い。
俺自身は市場の予想よりも景気に対して弱気で、株価が下落すると予想している。
ピンポンピンポンピンポーン!
「チッ、うるさいなぁ!」
不埒な訪問者のせいで発表の瞬間を見逃したが、俺の予想通り雇用情勢が悪く、株価が一気に下落を始めた。
「よっしゃー!」
俺は気分が良くなったので、インターホンを確認する。
写ったのは、みすぼらしい老齢の男性だった。
このタワーマンションが建つ都内一等地には相応しくない。
「どちら様ですか?」
「俺だ」
「ですからどちら様ですか?」
「だから俺だ! 親の顔が分からないのか!」
親だって?
俺は父親から虐待を受けていた。
大学進学のため上京して縁を切り、もう何十年も会っていない。
だが先月、地元の役場から扶養照会とかいう手紙が届いて、いきなり金銭を要求された。
俺はわざわざ内容証明郵便を送り、事情を説明して援助の要請を断ったのだ。
そして、現住所などを教えないように釘を差しておいた。
それなのに、まさか役場が俺の現住所を教えたのか……?
あとで絶対に、訴えてやる。
「久し振りだな瑠音、ちょっといいか?」
「お断りします。立ち去らないと警察を呼びますよ?」
「親に向かって何様のつもりだ?」
何様のつもりだって突っかかる、アンタこそ何様なんだよ……。
「もう一度いいます。立ち去らないと警察を呼びますよ」
「親が子供に会って何が悪い!」
俺は110番通報して警察を呼び、対応を任せた。
だが数十分後、再びインターホンが鳴る。
応答すると、画面には二人の制服警官が映っている。
「あのー、お話を伺いたいので降りてきて頂けますか?」
1時間後には欧米の投資家向けの生放送に、リモートで出演する予定がある。
インターホンの音が混入したら世界に迷惑がかかるので、俺は仕方なく降りることにした。
ロビーに下りると数台のパトカーが赤色灯を回し、少なくとも5人の警察官が集結していた。
「こんばんは、通報した加藤です」
「加藤瑠音さんですね? 元赤坂警察署から参りました。こちらの方はお父様でお間違いないですか?」
「わかりません。何十年も会っていないので」「お前は親の顔も分からないのかー!」
老人は顔を真っ赤にして激昂している。
だが本当に分からないのだから、正直にそう言うしかない。
仮に本人だとしても、幼い子供に暴力を振るい、挙句の果てに金の無心に来るような人間だ。
なるべく早くお引き取り願いたい。
「そ、そうですか……」
さすがに警察官も困惑しているが、こればかりは諦めて職務に精励してくれたまえ。
「こちらの方がどなたでも構わないので、不退去罪あたりで連行してください。このあとアメリカのテレビ番組にリモート出演する予定なので、インターホンを鳴らされるだけで威力業務妨害なんですよ」
警察官たちの顔色が変わる。
「バカにしやがって! もう許さねぇ!」
そう叫ぶと老人はカバンから果物ナイフを取り出し、俺に突進してきた。
次の瞬間、焼けるような痛みが俺の腹を襲う。
「痛い……」
警官たちは静止する間もなく、老人のナイフが俺の腹に突き刺さった。
もう立っていることさえままならない。
うつ伏せになればナイフが更に深く刺さってしまうため、一度座り込んでから必死で仰向けに倒れようとする。
警官の一人が背中を押さえてくれたため、ゆっくり仰向けになることに成功した。
だが安堵したのも束の間、ひとりの警察官が信じられない行動に出た。
「おいバカ! 抜くな!」
人体にナイフなどが突き刺さっている場合、適切な治療を受けられる状況になるまで引き抜いてはいけない。
血管を遮断せずに引き抜くと、大量出血を起こす恐れがあるからだ。
専門家ではない俺でさえ知っている常識なのに、慌てた若い警察官がナイフを引き抜いてしまう。
先輩警官の怒号も虚しく、一気に血が吹き出した。
専門的な訓練を受けているはずの警察官が、最もやってはいけない対応をしてしまった。
俺はたまたま持っていたスマートフォンで腹を押さえ、止血を試みる。
だがその程度で止まるはずもない。
異世界モノの小説みたいに魔術が使えたなら、簡単に治せるのになぁ……。
親ガチャに負けずに頑張って成功しても、この世では魔術が使えるようになるわけではない。
こんな夢みたいな空想で最期を迎えるなんて、思ってもみなかった……。




