プロローグ
夕立はもう上がっているのに、空気はまだ濡れていた。アスファルトの匂いが、夜の公園にこもっている。街灯に照らされた水たまりが、頼りなく光を弾いていた。
早く帰るつもりだった。
仕事帰りの疲れを言い訳に、寄り道をする気はなかった。それなのに、足が止まった。
ブランコが揺れている。風はほとんどない。
誰かが、さっきまで乗っていたような、そんな揺れ方だった。
鎖の軋む音が、湿った空気に溶ける。
(ん?)
そこに、少女がいた。
白い服。病院で見かけるような、簡素な上下。濡れた髪は亜麻色で、やけに長い。
(高校生くらいか?)
夜の公園にいるには、あまりに不自然だった。
「……あ」
視線が合う。けれど逃げる素振りはない。怯えもしない。ただ、じっとこちらを見る。嫌な予感がした。関わるべきではない、と頭が告げる。
(気付かないふりをしよう)
夜の公園、若い少女、行き場がなさそうな様子……まともな話になる確率は少ない。それでも、目を逸らせなかった。泣いていないからだ。
泣いていれば、まだ分かりやすい。困っている人間の顔をしていれば、対処の仕方もある。
だが彼女は、静かだった。諦めた顔でもない。開き直った顔でもない。ただ、落ち着いている。
「……あの」
声をかけられて、ようやく現実に引き戻された。
高くも低くもない、淡々とした声。
「泊まる場所がないんです」
助けてほしい、とは言わなかった。事実だけを差し出すような言い方だった。
思わず辺りを見回す。人気はない。冗談では済まない状況だ、と本能が警告する。
「家は」
短く問う。
「ありますよ」
即答だった。
「でも、今は帰れないんです」
説明はない。嘘をついているようにも見えない。余計に不気味だった。
帰れない理由がある。でもそれを語らない。普通はもっと取り繕う。泣き真似をするか、作り話を並べるか。彼女はどちらもしない。ただ、揺れるブランコに手をかけたまま、こちらを見ている。
逃げ場を探している目ではない。まるで、決めてきたかのような目だった。
背筋がひやりとする。何に巻き込まれるのか分からない。警察沙汰かもしれない。面倒事かもしれない。それでも――
「……知り合いは」
「いません」
被せるように返ってきた。
一瞬、躊躇があった気がしたが、気のせいかもしれない。沈黙が落ちる。
遠くで車の走る音。水たまりを踏む自転車のタイヤの音。時間だけが、妙に長い。
帰れば済む。無視すればいい。それが正解だ。なのに、足が動かない。
彼女の目が、何かを待っているからだ。
助けではない。同情でもない。選択を――そんな目だった。
「……雨で濡れたんだろ。そのままじゃ風邪ひくぞ」
言ってから、取り返しがつかないことだと悟る。
彼女はほんのわずかに目を細めた。笑った、のだと思う。派手な喜びはない。
安堵の色も薄い。それでも、確かに笑った。
「ありがとうございます」
その言葉が、夜の湿った空気の中で、やけに澄んで聞こえた。
雲がゆっくりと流れていく。見上げると、いつの間にか空は開けていた。星が、ひどく近い。
不吉なほどに、澄んだ夜だった。そのときはまだ、この出会いが、ひと夏の終わりまで続くとは思っていなかった。




