1話
ルミナリア王国の東に位置するグラント領——。
小麦畑に囲まれた、小さな領地。
穏やかで勤勉な領民は百人にも満たないけれど、だからこそ皆が家族のように支え合いながら暮らしている。
私、キルシェ・グラントは、この地を治めるグラント男爵家の長女だ。
一応は貴族ではあるが、先祖代々グラント家は最低限の税しか徴収していない。
そのため、他の貴族家のような華やかさとは程遠い暮らしだった。
それに加え——十年前、王国を襲った大災害の折、領主である父は国から賜った支援金のほとんどを領民のために使い、さらに人々の生活を立て直すために借金まで背負うことになった。
——要するに、“男爵”とは名ばかりの貧乏貴族なのである。
私は足元に置いたトランクを持ち上げると、良く言えば歴史を感じさせる——正しく言えば、ぼろ屋敷な男爵家を仰ぎ見た。
「……屋敷と言うには、小さすぎるかしら」
小さく呟き、苦笑を浮かべる。
「「お姉様!」」
重なる二つの声に視線を向ければ、こちらへ駆け寄ってくる双子の弟と妹の姿があった。
弟のミレルと妹のミレナ。
二人の頭を撫でると、嬉しそうに目を細める。
「お姉様、王都に着いたらすぐにお手紙くださいね」
ミレルはスカートの裾をぎゅっと握り、寂しそうに俯いた。
「お姉様! 王都ではどんなドレスが流行っているか、ちゃんと見てきてね!」
ミレルとは対照的に、ミレナは目を輝かせている。
「うん、すぐに二人へ手紙を書くね」
そう答えながら、私は二人の頭をもう一度そっと撫でていると——
「母さんには挨拶したのかい?」
声に振り向けば、そこに立っていたのは父であるグラント男爵だった。
知らない人が見たら、男爵だとは気づかないだろう。
泥だらけの作業着姿のまま、穏やかな目でこちらを見ている。
社交とは程遠い父は、領民と共に小麦畑に出ていることがほとんどで、常にその格好だった。
(……作業着しか着ない貴族なんて、この国で他にいるかしら)
内心でくすりと、小さく笑みがこぼれる。
「お母様には、お花と一緒に挨拶してきたよ」
そう微笑めば、父もわずかに目元を緩め、静かに頷いた。
私の母——グラント男爵夫人は、十年前の大災害の際に蔓延した疫病で亡くなっている。
私は十二歳で、双子たちはまだ二歳の時だった。
母だけを愛し続ける父は再婚しなかった。
けれど、荒れた領地の再興に追われながらも、領民たちに支えられ、双子は心優しく育ってくれた。
私の足に纏わりつく二人は、まだどこか幼さを残しているけれど、その姿は確かに成長していた。
感慨深さと、そして安堵が胸に広がる。
——しかし。
今年、二人は十二歳を迎えた。
数年後には、ミレルはアカデミーへ。
ミレナには、社交界デビューが控えている。
つまり——お金が、かかるのだ。
ミレルは聡明で、学ぶことが大好きだ。
ミレナは、素敵な殿方との出会いを夢見ている。
その未来を、お金がないからと諦めさせることなんてできない。
——いや、そんなことはしたくない。
私は懐にしまい込んでいた一通の手紙を取り出した。
『キルシェ・グラント殿
このたびの選考の結果、貴女を王宮書記官として採用することが決定いたしました。
つきましては、期日までに王宮書記局へ出仕されますようお願い申し上げます。』
高鳴る胸を、ぐっと押さえる。
グラント領でできる仕事は限られている。
双子たちの未来のため、そして父の老後のためにも、もっとお給金のいい仕事を探していた。
そんなときに見つけたのが、王宮の書記官の募集だった。
駄目元で応募してみたけれど、半月ほど前、採用の手紙が届いた。
何かの間違いじゃないかと、家族みんなで何度も読み返したその手紙は、すっかりしわくちゃになっている。
私はそれを丁寧に畳み、再び懐へとしまい、トランクを握り直す。
ちょうどその時、馬車が到着した。
「そろそろ行くね」
笑顔でそう言うと、双子はそろって寂しそうな顔になる。
「……いつ帰ってくるの?」
「……明日? 明後日?」
「んー、明後日だと、まだ王都にも着いてないかな」
苦笑いで答えると、二人はぎゅっと足にしがみついてきた。
「行っちゃヤダ」
「ミレル、わがまま言っちゃだめでしょ」
今にも泣き出しそうなミレルをたしなめるミレナの目にも、うっすら涙がにじんでいる。
「長期休みには帰ってくるから」
トランクを置いて二人を抱きしめると、とうとう二人は泣き出してしまった。
慰めるように二人の背中を撫でていると、父は苦笑いを浮かべた。
「ミレル、ミレナ、おいで」
父に呼ばれ、二人は名残惜しそうに私から離れると、父のもとへ駆けていく。
父は二人の頭を優しく撫でながら、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「キルシェ、すまないな。父さんが不甲斐ないばかりに、君には苦労をかけて」
「何言ってるの。私はお父様のこと、ずっと尊敬してるよ」
それは私の本心。
自分たちの贅沢よりも領民を優先するグラント家の教えも、
領民と一緒に泥だらけになって働く父の姿も、
古びているけれど温かいこの家も——
このグラント領のすべてが、大好きだった。
——それに。
「ほんとはね、ちょっとワクワクしてるの」
父にだけ聞こえるように、小さく囁く。
生まれてから二十二年間、領地の外へ出たことはほとんどない。
ましてや、デビュタントすら経験していない私にとって、王都はまったくの未知の世界だ。
不安もあるけれど、それ以上に——楽しみだった。
そんな私を見て、父は穏やかに微笑む。
「何かあったら、いつでも帰っておいで」
「うん、ありがとう」
私はトランクを持ち上げ、待っている馬車へと向かう。
そして——
「いってきます!」
大きく手を振ると、父はいつも通りの穏やかな笑顔で、
双子は涙で顔をくしゃくしゃにしながら、それでも精一杯手を振り返してくれた。
その光景を胸に焼き付けて——私は、馬車へと乗り込んだ。




