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逃げた魚は国家機密

「素晴らしい……実に素晴らしい静寂だ」

影山幸太は、防波堤に腰掛け、どこまでも広がる青い海を見つめていた。

今日は待ちに待った非番である。暗殺ギルドのトップから


「結果的に成功してるからヨシ!」


という雑なノリでSランクに認定されて以来、彼の周囲ではなぜか人が勝手に事故死する怪現象が多発していた。おかげで警察(主に滝口刑事)にはマークされ、通報率は100%を維持している。

だが、今日の幸太は違う。お気に入りのバケツ、1200円で買った初心者用釣竿、そしてコンビニの塩結び。どこからどう見ても、ただの影の薄い無害な青年だ。


「誰も死なない、誰も通報しない。ただ魚と対話するだけの、最高の休日だ……」


幸太が安らかな笑みを浮かべていたその頃。

彼のわずか五メートル隣に、一人の男が立っていた。

男の名はパク。隣国の特殊工作部隊に所属する、冷酷無比なエリートスパイである。

パクは今、極秘裏に盗み出した国家機密データ


(防衛省の次世代暗殺ドローン計画)


が入ったUSBメモリを、日本の協力者に手渡すための待機場所として、この寂れた防波堤を選んでいた。

パクは鋭い眼光で周囲を警戒する。


(フッ……完璧なカモフラージュだ。この釣り人風の男(幸太)も、まさか俺が国家の運命を握るスパイだとは夢にも思うまい。それにしても、隣の男……気配がなさすぎるな。まるでそこに『誰もいない』かのようだ。素人にしては上出来の隠密性だが、プロの俺の敵ではない)


パクが内心でマウントをとっていた、その時。


「よし、そろそろ投げてみよう」


幸太が意気揚々と釣竿を構えた。

これまで一度も魚を釣ったことがない幸太。当然、キャスティング(竿を振ってルアーを飛ばす動作)の技術は皆無である。


「えいっ」


力任せに振られた竿。

本来なら前方へ美しく飛んでいくはずのルアー(針付きの疑似餌)は、幸太の尋常ならざる運動音痴のせいで、なぜか真後ろへと鋭く射出された。

ピシッ。


「あ、あれ?」


手応えを感じた幸太が振り返る。

そこには、フード付きのウインドブレーカーを着たパクが突っ立っていた。そして、幸太のルアーの鋭いフックは、パクのフードの紐にガッチリと、絶妙な角度でフッキングしていた。

パクは目を見開いた。


(なっ……!? 後方へのノールック射出!? バカな、殺気すら感じなかった……! 偶然か? いや、この俺の警戒網をすり抜けて服に針を引っ掛けるなど、並の技術ではない! こいつ、何者だ……!?)


パクの額から冷や汗が流れる。

一方の幸太は、大慌てで頭を下げた。


「ひ、ひえっ! すみません! ごめんなさい! 針、引っ掛けちゃいましたよね!? 今すぐ外しますから! 動かないでください!」


幸太は焦りのあまり、釣竿をガタガタと震わせながらパクへと近づいていく。

だが、その「怯えきった、しかし異常に存在感の薄い足取り」は、プロのスパイであるパクの目には


『一切の隙がない、冷酷な暗殺者のアプローチ』


にしか見えなかった。


(くっ……! すぐ謝ることでこちらの油断を誘い、間合いを詰める気か! この極薄の存在感……間違いない、こいつは日本の裏組織が放った『伝説の刺客』だ! 正体がバレた以上、消すしかない……!)


パクは懐の拳銃(サイレンサー付き)に手を伸ばそうとした。


「あの、本当にすみません! 怒らないでくださいぃぃ!」


幸太がパニックになり、勢いよくお辞儀をした。

その瞬間、幸太の持っていた釣竿の先端が、奇跡的な角度でしなり――パクのウインドブレーカーのポケットを強打した。

ベキッ。

ポケットの中で、国家機密のUSBメモリが真っ二つに砕ける乾いた音が響く。

パクは戦慄した。


(ば、バカな……! 懐のデータをピンポイントで破壊しただと!? 拳銃を抜く動きを完全に先読みし、最小限の動作で無力化された……! 怪物か……こいつは人間ではない、歩く天災だ!!)


圧倒的な実力差(勘違い)を悟ったパクは、極限の恐怖に支配された。


(逃げなければ殺される! 海へ飛び込んで逃走するしかない!)


パクは防波堤の縁へ向かって全力で足を踏み出した。

しかし、彼のフードの紐は、まだ幸太の釣竿と糸で繋がったままである。


「あ、危ないですから急に動かないで――」


幸太が糸を緩めようとリールに手をかけた瞬間、リールが中でグチャグチャに絡まり(バックラッシュ)、ガチリとロックされた。

ピンと張る釣り糸。

思い切り足を踏み出したパクは、フードを後ろから強烈に引っ張られる形になり、完全にバランスを崩した。


「ぶふぇっ!?」


漫画のように綺麗な仰向けの姿勢のまま、パクは防波堤から垂直に落下していく。

しかも運の悪いことに、そこは海ではなく、テトラポットの隙間に溜まった「海上保安庁の巡視艇」の甲板の上だった。

ドスゥゥゥン!!


「うわっと!? なんだ格好だ! 上から男が落ちてきたぞ!」


「待て、こいつの顔……国際手配されている隣国のスパイ『パク』じゃないか!?」


「なぜこんなところに!? 拳銃を持ってるぞ、現行犯で逮捕だ!」


たまたま防波堤の影で密漁の取り締まりをしていた海上保安官たちが、降ってきた大物に大騒ぎを始める。

甲板の上で、背中を強打して白目を剥いているパク。その懐からは、真っ二つに割れたUSBメモリと、偽造パスポートが転がり落ちていた。

防波堤の上で、幸太は釣竿を握りしめたまま、泡を食ってガタガタと震えていた。


「どうしようどうしよう、人を海保の船に落としちゃった……! 傷害罪? 殺人未遂!? 違うんです、僕はただアジを釣りたかっただけなんですぅぅ!」


慌ててバケツと塩結びを回収し、一目散にその場から逃げ出す幸太。

その数分後。

現場から少し離れた自販機の陰から、スマホを耳に当てたギルド会長が、深い、深いため息をついていた。


「……あぁ、滝口くんかね? うん、今ニュースを見たよ。

隣国の密入国スパイ組織のボスが、江の島付近の防波堤で確保されたらしいね。……あぁ、知ってるとも。

うちの影山が、非番用の1200円の釣竿一本で、国家機密の流出を阻止した上に組織を壊滅させたよ。

ルアーで釣ったらしい。……いや、私に『どういうことだ』と聞かれても困る。

もう何もしないでくれって言ったのにね。……うん、胃薬かい? 私はもう、液体タイプの強いやつに変えたよ。じゃあ、お互い強く生きよう」


会長は静かに通話を切ると、空を見上げた。


「流石、影山……」


一方、全力で自宅アパートまで走り帰った幸太は、布団に潜り込んでガタガタと震えていた。


「もう絶対に釣りなんて行かない……。次は、次こそは、絶対に誰も巻き込まない、安全なバイトでもして静かに過ごそう……」


彼が次に選んだ「安全なバイト」が、裏社会を揺るがす大惨事の引き金になるとは、この時の幸太はまだ知る由もなかった。


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