23 最終話
私の中で、以前の彼と、今の彼が、全然別の人ではなくて、重なり合う。と言うか、一人の同じ人になった。
彼は変わったけど、以前の彼と別人な訳ではないのだ、と。
言うならば、それは一直線上にあるような。あの頃の彼が歩んだ先に、今の彼があるのだと。決して別人ではない。彼は変わったけど、でも、きっと彼は、彼なのだと思う。
私はきっと、いつだって彼が好きで、どんな彼でも好きで、それは変えられないように。彼はどんなに変わっても、それは彼でしかなくて変わることはない。
彼は変わった。でも、それはもしかしたら歩み寄ってくれたと言うことなのかもしれない。彼が自分の生きやすさを選ぶなら、あの頃の方がきっと楽しく生きて行けただろう。でも、彼は、一人で楽しく歩くことより、私に歩調を合わせて手をつないで歩く方が良いって言ってくれてるって事じゃないかな、って、そう思えた。
以前、私は彼の歩き方について行けず、つないだ手を振りまわされていろんな所にぶつかったり無理矢理引っ張られて転んだり、そんな歩き方だったんだろうと思う。
私は、彼の歩き方について行けなかっただけで、彼のことを嫌いになったわけではなかったのかもしれない。
もしかしたらこの先、彼が私の歩みに合わせるのが嫌になって、自分勝手に歩くこともあるかもしれない。でも、ちゃんと私が痛いよ、早いよって言ったら、気がついてくれるんじゃないかなって。また、私に歩み寄ってくれるんじゃないかなって。今の彼を見ていると、そう信じられそうな気がした。
でもって、私も、がんばりたい。彼が私に合わせすぎて疲れないように。私も彼の歩みに合わせられるようになれたらと思う。
ちょっと強引なところも「はいはい」って笑って流したりだとか、ちょっといきすぎたらダメだよってたしなめたりとか。そういう苦手だった彼も受け入れていけるようになれたらいいと思う。受け入れていけるように私も成長しよう。彼が、この五年でがんばってくれたように。そして、私の好きな彼が彼らしくあるために。
一人でどんなに努力してもきっとダメだから。彼だけの努力では、きっとうまくはいかないから。あんなに彼ががんばってくれていたのに、私がかたくなだったらどうしようもならなかったように。
きっと、二人で歩いていきたいのなら、どちらもが歩み寄らないといけない。片方だけがんばっても、きっと無理なんだと思う。それがきっと、二人で手をつないで歩いていくって事じゃないかと思う。
彼が私に歩み寄ってくれたように、私も彼に歩み寄ろう。
私を抱きしめる彼を、私もそっと抱きしめ返す。
「だから、動くなって」
苦笑いする声が頭の上からして、私はクスリと小さく笑う。
もう一度、二人で歩こう。
私は噛み締めるように、心の中でつぶやく。
孝介さんと一緒に、もう一度。
忘れられない恋だった。最低の恋だった。思い出したら今も苦しい。でも、それが、いつか、私たちには必要なことだったと、思えたらいいなと思う。
通りの向こうで人の話し声が大きく響いた。
私は我に返った。恥ずかしくなって彼の腕の中から逃げると、不満げに彼が私を見た。
「そういえば、なんで、結婚してるなんて思われてたの? ていうか、本当に結婚してないのね?」
取り繕うように言った私に、彼は諦めたように私に伸ばした手を下ろすと、小さく息をつき、彼は困ったように笑った。
「本当に結婚してない。ずっと指輪をしてたから、会社の女の子が勝手に間違えたんだよ」
「普通、そんなので間違える?」
彼女がいると思うのならともかく、仮にもシルバーリングで、プラチナではない。シンプルだし、ぱっと見は分からないにしろ。
納得が行かない私に、彼が、渋々、といった様子で付け加えた。
「彼女いるか聞かれて、彼女はいないけど、一生大切にしたい人がいるって思わせぶりに答えたら、そうなったみたいだな」
よほど言いたくなかったらしく、彼は目をそらす。そして私は、愕然とした。
「ええぇ……、何それ……別れて五年も経って、居場所も分からないのに……さすがにそれは、ちょっと気持ち悪い、かも……」
思わずついて出た言葉に、彼が必死の様子で言葉をかぶせてきた。
「気持ち悪いって言うな! 仕方ないだろ! 付き合ってくれとか言われてもその気にならなかったんだから。だいたい、指輪つけてるのに言い寄ってくるような女は嫌だ」
慌てて言い訳をする彼を見ながら、私は複雑な気分になる。言っていることは至極もっともなことだけれど、とても浮気を繰り返していた男の言葉とは思えない。
「……よく言う………」
口の中でぼそっとつぶやいただけだったけど、彼の耳にも届いたらしい。
「懲りたんだよ! これでもちっとは成長したんだ、もう、そこは、勘弁してくれ……」
弱り切った様子で言い訳をする彼を、私は静かに見つめる。思うところがありすぎて、何とも言葉にならなかった。
「……ああ、もう!! 俺が悪かった!」
私の視線にいたたまれない様子で彼が叫んだ。
その様子がおかしくて「逆ギレしないでよ」と笑うと、彼が苦く笑って、困ったように首の辺りをかいた。
そして、息を整えると、彼は話を元に戻す。これ以上藪をつつかれたくなかったのだろう。目線が明後日を向いていた。
「まあ、それでその子の勘違いからそんな噂が広まったんだろうな。同じ会社なんだから、調べたら独身ってすぐ分かるのにな。まあ、こっちに転勤してまだ半年も経ってないし。そのうち気付いただろうけど。とりあえず今のところ俺も勘違いされてた方が都合良かったから否定しなかったし」
「都合良かった?」
「女よけ。俺、一応、もてるから」
彼が、以前を彷彿させるような笑みをにやりと浮かべた。
「ふーん」
少し、ほんの少しだけ、ズキりと胸が痛んで、私はなんでもないふりをして彼を見る。
「……他の子と付き合ったりしてないから!」
慌てて言った彼に、私はまた吹き出す。私がどう思っているかを気にする彼の姿は、ちょっと気持ちいい。五年前にはなかったことだ。
「うそつき」
私は、ほんの少しだけ苦い気持ちを隠して、笑って言った。そこは信用していなかった。指輪は外さなかったかもしれないけど、そういうのを気にしない子もいるのを知っているから。でも、そういうのも含めて、ちょっと苦しいけど、もう良いやって思える。彼が、今は間違いなく私だけを選んでくれたと、今は信じられるから。信じようと思うから。
「嘘じゃな……」
言いかけた彼が、口をつぐんだ。それを見て、私はまた笑う。嘘は、ちょっと下手になったらしい、なんて意地悪く考えながら。
「その、別れた直後に、ちょっと、その、まあ、荒れてて、いろいろあったけど、それ以降は、本当に誰とも付き合ってないから」
彼がいかにも冷や汗かいています、みたいな動揺っぷりをさらけ出しながら言う。
いろいろ、ね。
ずいぶんごまかした言い方をされたけど、手当たり次第荒れていたのだろうと思う。そう考えるとむっとした反面、そんなに私と別れたのが辛かったんだ、と気付いて、今度はうれしくなる。
そんな自分の心境を顧みて、とても不思議な気持ちになった。
「留衣以外、付き合いたいと思えなかったんだよ」そんな事を言い訳がましく、けれどはっきり言うのは恥ずかしいのか、ぼそぼそとつぶやく彼が、好きで好きでたまらないと思うのだ。さっきまで拒絶していたのが嘘みたいに、素直にそう思える。
それが心地よくてふふっと笑うと、彼がそれに気付いてほっとしたように笑みを返してくる。
私は彼の腕にしがみつくようにして腕を組んだ。
その感触に、ああ、私はまた彼の隣に帰ってきたのだ、と、ふと実感する。
見上げると、少し驚いた顔をしていた彼が、とてもうれしそうに破顔した。そして、もう片方の手で、私の頭をぐしゃぐしゃっと撫でる。
懐かしくて、好きだった感触だった。
そして、彼の顔が近づいてきて、私の耳元でささやいた。
「留衣さん、俺と、付き合ってもらえますか?」
目の前に、少し緊張気味に私を見つめる彼の顔。
「……はい」
私は、震える声でうなずくと、彼が、とても幸せそうに笑った。
忘れられない、恋をした。
一度は終わった恋だった。
それは、形を変えて、もう一度、動き出す。
おわり。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。