覚えているのは、わたしだけじゃない
目を覚ますと、黒い通路は消えていなかった。
拠点が、消えたシードを覚え始めていた。
コヨリが目を覚ますと、白い椅子の前に黒い扉ができていた。
いや、扉というほど立派ではない。死因図鑑室の奥に残っていた黒い通路が、拠点の壁へ根を張り、棚のような、入口のような形に変わっている。縁は黒く、内側は白い。消えたものを入れるための棚なのに、そこだけは消えなかった。
「ログル」
「はい」
「残ってる」
「はい。拠点施設として安定化しています」
「わたしだけの見間違いじゃない?」
「違います。ぼくにも見えています」
「ネムは?」
「見える」
「ベルは?」
「書類棚としては不安定ですが、存在しています」
「魔王さんは?」
「余にも見える。胃にもくる」
「胃は関係ある?」
ゼルドは真面目な顔で紅茶を飲んでいる。ベルは新しい棚の寸法を測り、ネムは黒い札へ仮番号を振っている。リュシアが遠くから温かい飲み物を運び、ミネルが説明書を書きかけて、コヨリに「短く」とにらまれていた。
コヨリは立ち上がり、黒い棚へ近づいた。棚には、いくつかの小さな箱が収まっている。
【墓標ログ分類台】
【残影棚】
【未帰還ターン保管箱】
【破棄ログ調査中箱】
どれも完全ではない。中身は少ない。名前も空欄が多い。それでも、前はなかった。死因図鑑室はコヨリの死に方を並べる場所だった。思い出ログ棚は、出会った人を忘れないための場所だった。今度の棚は、そのどちらでもない。
消えたシードを、なかったことにしない場所だ。
「ログル。これ、拠点の正体に近い?」
「はい。拠点は、リセットされない待機部屋ではありません。記録を根にして、世界の種へ育つ領域です」
「世界の種」
「消えたシードをすべて戻す力ではありません。でも、消された記録の一部を、次の攻略へつなげることはできます」
「万能じゃない」
「はい」
「でも、ゼロじゃない」
「はい」
その言い方が、今は一番信じられる。
コヨリは残影棚の一段目を見た。焦げたパンの匂いだけが入った紙袋。受付印の写し。木剣の横に立てた「渡されなかった」の札。怖がっていい、と半分焦げた紙。名前の空欄。未帰還ターンの糸。どれも小さく、頼りない。けれど、全部が拠点の白い壁に影を落としている。
「覚えてるの、わたしだけじゃなくなったんだ」
「はい」
「ログルも?」
「覚えています」
「ネムも?」
「番号振ったから」
「ベルも?」
「保留書類として管理しています」
「魔王さんも?」
「余は、魔王役墓標の山を忘れられぬ」
「それは胃に悪いね」
コヨリは少し笑った。笑ったら、胸の奥がきゅっと痛んだ。嬉しいのに、泣きそうになる。何かを取り戻したわけではない。死んだ人が戻ったわけでも、壊れた世界が直ったわけでもない。ただ、消されなかった。それだけなのに、たぶん、その「それだけ」を何百回も欲しかった。
黒い棚の中央に、まだ空いている段がある。そこへ、ログルの宝石から文字が浮かんだ。
【世界種保存 Lv.1:確定】
【墓標ログ読解 Lv.2:更新】
【残影識別 Lv.1:安定】
コヨリは深く息を吸った。
「Lv.1かあ」
「上位スキルですが、できることは限定的です」
「説明して」
「保存できるのは、名前の空欄、死因の一部、未完了の一手、残影の輪郭、破棄ログの札などです。本人復活、世界復元、死亡回避はできません」
「できないことが多い」
「だから、使えます」
「強すぎると、神様がまた変な仕様にしそうだしね」
「それもあります」
その時、白い窓が開いた。アドミニスだ。前より少し遠い位置にいる。気軽に椅子へ腰かけるような軽さはない。
「勇者ちゃん。きみ、また面倒なものを作ったね」
「作ったのは、神様が捨てたものの置き場」
「言い方」
「事実」
「うん。事実だね」
アドミニスは黒い棚を見た。顔に浮かんだ表情は、怒りではない。警戒と、困惑と、少しだけ安堵が混ざっているように見えた。
「その棚が増えすぎると、シード生成に干渉する」
「じゃあ、ちゃんと説明して」
「説明したら、きみは止まる?」
「止まらない」
「だよね」
コヨリは窓の前へ立った。背は小さい。神様の窓は高い。それでも、もう見上げるだけではない。足元には拠点のマス目があり、背後には黒い棚がある。ログルが肩に乗り、ネムが番号札を持ち、ベルが書類を構え、ゼルドが腕を組む。
ひとりではない。
「神様。わたし、七百回以上死んだ」
「知ってる」
「もう八百五十に近い」
「......うん」
「千回目、近いんでしょ」
「近いよ」
窓の光が少し揺れた。アドミニスは笑わない。
「千回目に何が起きるの」
「まだ確定していない」
「未確定って便利な言葉だね」
「本当に未確定なんだ。きみが、予定と違うものを増やしすぎた」
「褒めてる?」
「困ってる」
「じゃあ褒め言葉」
ログルの宝石が、勝手に光った。いつもの死因ログではない。もっと深い、管理画面に近い表示。
【千回死亡条件:未確定】
【死亡対象:勇者コヨリ】
【上書き候補:神様仕様】
【必要要素:世界種保存/未完了ターン視認/削除前兆感知/名前・役割分離】
拠点が、静まり返る。
コヨリは表示を読んだ。怖くないわけではない。千回死ぬ、という言葉は、数字が大きすぎてギャグみたいだった。でも、もうギャグだけでは済まないところへ来ている。
「ログル」
「はい」
「千回目で、わたしが死ぬ予定?」
「表示上は、そうです」
「でも、上書き候補がある」
「はい。神様仕様を死亡対象にできる可能性があります」
「神様を殺すって意味?」
「神様本人ではなく、死亡判定仕様です」
「仕様なら、殺していい?」
「攻略対象です」
「よし」
アドミニスが額を押さえた。
「勇者ちゃん、仕様を殺すって言い方、物騒だよ」
「初見殺しは犯罪ってずっと言ってる」
「犯罪では」
「犯罪!」
コヨリは黒い棚へ向き直り、空いている段へ手を置いた。冷たいと思ったのに、ほんの少し温かい。焦げたパンの匂い、ピヨラの怖い声、アリアの受付印、ゼルドの役割札、名前の空欄。全部がそこにある。
「覚えているのは、わたしだけじゃない」
「はい」
「じゃあ、千回目も、わたしだけで受けない」
「はい」
コヨリは反省会テーブルの一番目立つところに、新しい紙を貼った。
【千回目の死亡は、わたしの終わりにしない】
ネムがその下に小さく書く。
【受付保留】
ベルが印を押す。
【異議申立準備中】
ゼルドが腕を組む。
【魔王側、証人として待機】
ログルは、最後に宝石の光で一行を足した。
【相棒、記録継続】
コヨリはそれを見て、泣きそうな顔で笑った。
「ログル、それちょっとずるい」
「事実です」
「じゃあ、事実ならしょうがないね」
黒い棚が静かに閉じる。閉じても、消えない。拠点の壁に、新しい部屋の名前が浮かんだ。
【消えたシードの墓場】
コヨリはその文字へ、そっと手を当てた。
「次は、千回目の条件を見に行く」
「はい」
「神様ァ! 仕様書、今度こそ出して!」
「出せる範囲で」
「全部!」
「困るなあ」
「困れええええええええええ!」
拠点に、久しぶりに大きなツッコミが響いた。ここなら大声を出しても、墓標は動かない。仲間たちが一斉に笑ったので、コヨリも少しだけ胸を張った。
八百五十回近く死んでも、まだ終わりではない。
むしろ、ようやく神様の仕様へ手が届き始めていた。
【登場人物紹介】
コヨリ:消えたシードを拠点に保存し、千回目の死亡を自分の終わりにしないと決める。
ログル:記録対象としてではなく、相棒として記録を続ける解析神獣。
ネム:死亡受付を保留にする死神。番号を振ることが、消さない抵抗になる。
ゼルド/ベル:魔王側の証人と事務方として、神様仕様への異議申立に備える。
アドミニス:警戒しつつも、コヨリの作った棚を否定しきれない主神。
【今回の勇者ステータス】
死亡回数:842回 → 850回
クラス:帰還者候補/死因学者系統
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
【獲得済み主要スキル】
【死因学習 Lv.3】【足元確認 Lv.5】【未識別警戒 Lv.5】【ミミック警戒 Lv.2】
【総合盤面確認 Lv.2】【帰還門感知 Lv.3】【ログ管理 Lv.2】【一フレームの神様 Lv.2】
【神様操作前兆 Lv.1】【滅亡前兆視認 Lv.1】【滅亡原因分類 Lv.2】【消えたシード保存 Lv.1】
【世界の死因学習 Lv.1】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【世界種保存 Lv.1】
更新:【墓標ログ読解 Lv.1】→【墓標ログ読解 Lv.2】
安定化:【残影識別 Lv.1】
【新規拠点施設】
【消えたシードの墓場】
【墓標ログ分類台】
【残影棚】
【未帰還ターン保管箱】
【破棄ログ調査中箱】
【次章への接続】
千回死亡条件が未確定化。死亡対象を【勇者コヨリ】から【神様仕様】へ上書きできる可能性が見えた。
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