ミーナの焼けなかったパン
墓場の窯から、焦げたパンの匂いがした。
それは失敗作ではなく、誰にも渡せなかった食事だった。
墓場の奥で、パンの匂いがした。
それだけで、コヨリは足を止めた。黒い通路と墓標ばかりの場所で、温かい匂いは反則だ。小麦、焦げ、かすかな甘さ。食料不足シードで、ミーナが渡してくれたパンを思い出す。腹が減ってちゃ勇者もできないよ、と笑った声まで鼻の奥から戻ってくる。
「ログル。食べ物?」
「食べ物の記録です。食べないでください」
「早い。まだ手も出してない」
「勇者様は匂いで近づきます」
「犬みたいに言わないで」
区画は小さなパン屋の形をしていた。窓は煤で黒く、棚には焼けなかったパンが並んでいる。窯は奥で赤く光っているが、火の揺れ方がおかしい。呼吸している。つまり、窯ミミックだ。
コヨリは手持ちを確認した。満腹度は墓場用に表示されている。普通の腹とは違う。記録を読むたびに少しずつ減る、記憶の空腹みたいなものだ。数値は三十二。多いようで、こういう時ほどあっという間に消える。
「墓場で満腹度って何」
「食べられなかった記録に触れるための負荷です」
「死んだあとまで空腹管理する神様、だいぶ嫌」
「神様に確認しますか」
「いい。仕様ですって言われたら窯に投げる」
棚の一番下に、焦げた丸パンがあった。黒い。食べ物としてはぎりぎり失格。でも、そこから一番強くミーナの気配がする。本人ではない。パン屋の役割でもない。誰かに渡したかった手つきだけが、焦げた皮の下に残っている。
ログルは慎重に言った。
「食べると、食べたことになります」
「当たり前では?」
「記録上の所有者が、食べられなかったまま消えます」
「......じゃあ、食べない」
「匂いだけなら写せます」
「匂いを保存するの、難しくない?」
「思い出ログ棚なら可能です」
コヨリは紙片を一枚出し、パンへ近づけた。触れずに、匂いだけを吸わせる。紙の端が少し茶色に染まり、焦げた甘さが移った。世界が一手進み、窯ミミックの扉がぎぎ、と開く。
「噛みにきた!」
「窯ですから」
「窯は噛まないよ!」
床の赤いマスが一気に増える。小麦袋が破れ、腐った粉が風のない店内へ広がった。吸えば混乱、踏めば満腹度減少、投げれば爆発。食べ物系の罠は、優しい顔をして殺意が細かい。
コヨリは咳をこらえ、青いマスへ移動した。隣の棚から、別のパンがころりと落ちる。丸くて白い。明らかにおいしそうだ。だが、ログルの宝石は真っ赤に光っていた。
「白いパン、危険?」
「【空腹誘いパン】です。見ていると食べたくなります」
「今もう食べたい」
「見ないでください」
「見ないで食べたい」
「もっと危険です」
窯の横に、ミーナらしき残影が立っていた。丸い背中、たくましい腕、誰かへ食べ物を渡す時の、ためらいのない動き。顔はぼやけている。コヨリを見ているわけではない。ただ、空の袋を抱え、何度も棚へ手を伸ばしている。
「渡せなかったんだ」
「はい。このシードでは小麦が腐り、窯が魔物化し、配る相手も記録されていません」
「ひどい」
「ひどいです」
ログルがそう言ったので、コヨリは少し驚いた。いつもの「仕様です」ではなかった。ログルも、この店をただの事故として見ていない。
コヨリは紙片に書いた。
【焼けなかった。渡したかった】
それを焦げパンの隣へ置く。窯ミミックが一手で近づく。火口が開き、熱い息が髪を揺らした。コヨリは小石袋改から一粒を取り出し、窯の歯へ投げる。小石はかん、と鳴って跳ね返り、床の腐った小麦袋へ当たった。
「やば」
「爆発します」
「わたしが悪いやつ!」
袋が破裂し、粉じんが店内を白く染めた。爆発というより、巨大なくしゃみだった。コヨリは机の下へ飛び込み、窯の火が一瞬だけ弱まるのを見る。
チャンスだ。
火が弱い間に、匂いを写した紙片を白銀の帰還ピンで固定する。食べ物を持ち帰るのではなく、渡したかった記憶を保存する。ピンが光り、焦げた匂いが思い出ログ棚のほうへ細い糸を伸ばした。
「ログル、いま保存できた?」
「匂いと手つきだけです。パンそのものは無理です」
「十分。お腹は減るけど」
「墓場満腹度、残り六です」
「急に現実的!」
帰還巻物を読むには一手。窯ミミックは次の一手で噛む。床には粉じん。足元には赤いマス。コヨリは迷わず巻物を開いた。だが、空腹誘いパンが視界の端でころりと動く。
お腹が鳴った。
音は、行動判定だった。
「今の、わたしの意思じゃない!」
「胃の行動です」
「胃を別キャラ扱いしないで!」
世界が進む。窯ミミックが首を伸ばし、巻物の端を噛んだ。火が紙へ移り、帰還文字が焦げて読めなくなる。焦げたパンの匂いと、焦げた巻物の匂いが混ざった。最悪のベーカリーである。
【死亡ログ】
【死因:空腹音でターンが進み、窯に巻物を焼かれた】
【評価:墓場でも腹は鳴ります】
白い椅子で目を覚ますと、反省会テーブルの上に小さな紙袋が置かれていた。中身はない。匂いだけがする。焦げているのに、なぜか少し温かい。
「パン、持って帰れてない」
「はい」
「でも、匂いはある」
「思い出ログ棚に登録されました」
ログルの宝石に表示が出る。
【思い出食材識別 Lv.1】
コヨリは紙袋を両手で包み、しばらく黙った。ミーナ本人ではない。パンもない。けれど、誰かに食べさせたかった気持ちは、たしかに拠点へ来た。
「次にミーナに会ったら、焦がさないパンを食べたい」
「その時は、先に鑑定します」
「失礼だけど正しい」
ネムが死亡票へ、ゆっくり書き足す。
【備考:空腹音も行動】
「そこ、太字にしないで」
「重要」
「重要だけど恥ずかしい!」
リュシアが、反省会テーブルに温かいミルクを置いてくれた。もちろん、コヨリ用なので酒ではない。湯気に焦げパンの匂いが少し混ざり、墓場の記録なのに、台所みたいな空気が生まれた。
「ちび勇者ちゃん、食べられないものを無理に食べないのも、ちゃんと優しさだよ」
「でも、お腹すいた」
「それは現実の問題ね。はい、飲みな」
「現実、ありがたい」
コヨリは両手でカップを包み、少しずつ飲んだ。思い出ログ棚の紙袋は空っぽだ。でも、空っぽだからこそ、次にミーナ本人や別配役のミーナに会った時、ちゃんと何かを受け取れる気がした。焦げた匂いを、焦げたまま終わらせない。そのためにも、今はまず腹を満たす。勇者は空腹だと判断を間違える。
紙袋を棚へ置いたあと、コヨリは厨房へ行った。小麦粉と塩と水を出し、ミーナのパンには遠く及ばない小さな生地をこねる。料理人クラスではない今の手つきは不器用で、丸めた生地は少しゆがんだ。
「ログル。これ、供え物になる?」
「供え物というより、練習です」
「練習でいい。次に渡せるように」
「焼きますか」
「焼く。焦がさない。たぶん」
「たぶん」
「言い直す。ログルが見てて」
窯ではなく拠点厨房の安全な火で焼いたパンは、固くて小さかった。味も普通だ。でも、コヨリはそれを半分食べ、半分を思い出ログ棚の近くへ置いた。食べることと残すこと。その両方が、今回は必要な気がした。
焼いた小さなパンは、決しておいしいとは言い切れなかった。それでもコヨリは、次の探索前に半分を食べると決めた。空腹で優しさを間違えないための、拠点料理第一号である。
【登場人物紹介】
コヨリ:食べたい気持ちをこらえ、匂いだけを保存した。腹の音には負けた。
ログル:食べ物の記録と食べ物そのものを分ける相棒。
ミーナの残影:本人ではなく、誰かへパンを渡したかった手つきの記録。
【今回の勇者ステータス】
死亡回数:735回 → 744回
クラス:帰還者候補/死因学者系統
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
【獲得済み主要スキル】
【死因学習 Lv.3】【足元確認 Lv.5】【未識別警戒 Lv.5】【ミミック警戒 Lv.2】
【総合盤面確認 Lv.2】【帰還門感知 Lv.3】【ログ管理 Lv.2】【一フレームの神様 Lv.2】
【神様操作前兆 Lv.1】【滅亡前兆視認 Lv.1】【滅亡原因分類 Lv.2】【消えたシード保存 Lv.1】
【世界の死因学習 Lv.1】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【思い出食材識別 Lv.1】
【ローグライクあるあるネタ】
満腹度切れ、腐った食料、食料を拾いたくなる欲を、墓場の焼けなかったパンへ変換。
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