保存壺に入らなかった名前
割れた保存壺の底に、名前の砂が残っていた。
それはアイテムではなく、誰かがいた証拠だった。
黒い通路の三つ目の区画は、最初から音がしていた。
からん、ころん。壺の破片が、風もないのに転がる。床一面に割れた保存壺が散らばり、底に灰色の砂がたまっている。普通の砂ではない。粒の一つ一つが、小さな文字になりかけては崩れていた。
「ログル。これ、拾っていい?」
「おすすめしません。所有者が不明です」
「所有者不明の砂を拾うと?」
「名前の横取りになります」
「砂にまで所有権があるの、難しすぎない?」
「ベル様なら契約書を三枚増やします」
そのベルは、今回ちゃんと来ていた。黒いスーツ風の魔族衣装に、いつもの眼鏡。墓場の湿った空気の中でも、書類だけはぴんとしている。
「勇者様。名前は、物品ではありません」
「分かってる。壺に詰めて持って帰るの禁止」
「はい。特に、この区画では、善意の保管が横領になります」
「善意で罪名つくの怖い」
コヨリは保存壺を一つだけ持ってきていた。だが、腰の紐から外さない。壺は便利だ。便利すぎる。便利なものは、墓場ではだいたい罠になる。入れれば守れると思った瞬間、入れたものの名前が消えるかもしれない。
壺の山の奥で、小さな残影が座っていた。顔はぼやけている。髪の色も、服の形も、見るたびに少しずつ違う。ただ、膝を抱えた姿勢だけは変わらない。
「女の子?」
「残影です。本人ではありません」
「分かってる」
「勇者様」
「分かってるってば」
強めに返したあと、コヨリは唇をかんだ。分かっている、という言葉は、自分に向けて言っていた。残影を本人として抱きしめたら、記録が崩れる。名前のない子へ、勝手にミーナやアリアの名前を当てはめてもいけない。それは優しさではなく、別の誰かを上から貼る行為だ。
ベルが一枚の紙を差し出す。
【仮保存票】
【本人名:不明】
【役割:未登録】
【消去:保留】
「名前を書けないのに、票にしていいの?」
「空欄であることを記録します」
「空欄を残す......」
「はい。空欄を埋めるより、空欄を奪わないことが必要な場合があります」
難しい。けれど、分かる気がした。
ログルの宝石が床に細い線を引く。灰色の砂は踏むと一手で散る。散った砂は近くの壺割り小僧に吸われ、別の墓標へ運ばれてしまう。つまり、名前がさらに迷子になる。
「初手は?」
「壺を直さないでください」
「直したらだめなの?」
「器だけ作ると、中身が勝手に入りたがります」
「怖い。空き容量みたいに人名を吸わないで」
コヨリは壺の破片を避け、青いマスへ一歩進んだ。世界が動く。奥の壺割り小僧が、槌を引きずって一マス寄る。小鬼の顔には、職人みたいな誇りがあった。壺を割ることに生きがいを見出すな。いや、墓場だから生きてはいないのか。余計に嫌だ。
次の一手で、コヨリは白銀の帰還ピンを床へ刺した。刺す場所は、残影の近くではなく、砂が流れ落ちる溝の手前。ピンに結んだ紙は、ベルの文面を少しだけコヨリ風にしてある。
【この砂は、まだ誰のものか分からない。だから持っていかない】
灰色の砂が止まった。
残影の子が顔を上げる。目は見えない。それでも、こちらを見た気配だけがあった。
「......名前、呼べない」
「呼べないことを、記録できました」
「ログル。これ、助けたって言える?」
「今は言えません。でも、消されにくくなりました」
「そっか。じゃあ、今はそれで我慢する」
その時、壺割り小僧が槌を振った。狙いはコヨリではない。帰還ピンの紙だ。紙が破れれば、砂はまた流れる。攻撃すれば一手。避けても一手。残影に指示を出しても一手。コヨリはアイテム欄を頭の中で開き、持ってきた道具を数えた。
小石袋改。白紙巻物の切れ端。眠り玉。保存壺。帰還巻物。
保存壺は使わない。これは決めた。なら、眠り玉だ。
「ログル、投げた先」
「二マス先の壺割り小僧。外すと砂溝へ落ちます」
「外したら?」
「眠った名前砂が流れます」
「絶対外せないやつ!」
コヨリは息を止め、眠り玉を投げた。玉は一マス、二マスと跳ね、小鬼の足元で割れる。白い煙が広がり、壺割り小僧が槌を抱えたまま動きを止めた。
「当たった!」
「はい。叫ばないでください」
「心の中で胴上げしてる!」
だが、壺の破片は眠らない。コヨリが踏まなかった赤いマスの隣で、破片がくるりと回転し、床を滑る刃になった。墓場は一手の結果を、遅れて請求する。壺割り小僧を眠らせた瞬間、足元の破片が別の罠として起きたのだ。
コヨリは帰還巻物へ手を伸ばす。読む前に、残影の子が小さく口を動かした。
音はない。ただ、砂が一粒だけ浮かび、文字になりかける。
「ログル、あれ」
「見てはいけません。今はまだ読めません」
「でも、名前かも」
「読めません」
「......分かった」
分かった。今度は、本当に分かった。コヨリはその一粒を見ず、帰還巻物を開いた。声を出そうとする。その直前、破片の刃が靴底をさらう。滑った体が半回転し、巻物が上下逆さまになる。
「文字が! 逆!」
「勇者様、読み直しは一手です」
「壺の破片んんんんんんん!」
【死亡ログ】
【死因:名前を守ったあと、壺の破片で滑った】
【評価:保存したいのは命も同じです】
白い椅子に戻ったコヨリは、頭を抱えて丸まった。ベルは反省会テーブルに仮保存票を置き、ネムは死亡票へ【壺破片】を追加している。
「壺、便利なのに怖い」
「便利な道具ほど、扱いを間違えると被害が大きくなります」
「ログル、それ人生の教訓みたいに言わないで」
「墓場では特に事実です」
仮保存票の空欄は、空欄のまま残っていた。そこが大事だった。コヨリは空欄を指でなぞり、小さく頷く。
「名前をつけるんじゃなくて、名前が戻る場所を作る」
「はい」
「それなら、わたしにもできるかも」
新しいスキル札が、死因図鑑室の横へ差し込まれる。
【消えた名前を呼ぶ Lv.1】
【名前灰採取 Lv.1】
コヨリは札を見て、すぐに補足を書き足した。
【勝手に名付けない】
「これ、大事」
「とても大事です」
「あと、壺の破片を踏まない」
「それも同じくらい大事です」
ベルは空欄の仮保存票を、透明な薄い板に挟んで棚へ入れた。名前がない紙は、風が吹くとすぐ飛びそうで、見ているだけで心細い。コヨリはその前に、勝手に花を置こうとして、手を止めた。
「花ならいい?」
「意味を決めすぎなければ」
「じゃあ、ただの目印」
「それなら許容範囲です」
コヨリは白い小石を一つ、票の前に置いた。名前ではない。慰めでもない。ただ、ここに空欄があると分かるための石だ。名前が戻った時に、間違えず見つけられるように。
「空欄って、何もないわけじゃないんだね」
「はい。何かが失われた形です」
「じゃあ、形だけでも守る」
その夜、コヨリは空欄の票を何度も見に行った。名前がない紙を見るだけなのに、なぜか落ち着かない。空欄は「何も書くな」と言っているようにも、「忘れないで」と言っているようにも見える。
「ログル。名前が戻る時って、どう分かるの」
「音が戻るか、文字の輪郭が出ます」
「じゃあ、聞こえるようにしておかないと」
「はい。だから棚の前を騒がしくしすぎないでください」
「わたし、騒がしい扱い?」
「かなり」
「否定がない!」
コヨリは空欄票の前に小さな鐘を置いた。鳴らさない鐘だ。名前が戻った時だけ鳴るように、ログルが弱い記録属性を通してくれた。便利な罠ではない。静かな約束みたいな道具だった。
【登場人物紹介】
コヨリ:名前を助けたいが、勝手に呼んではいけないと学ぶ。
ログル:保存と横取りの境目を冷静に止める相棒。
ベル:契約と存在証明の違いを整理する有能秘書。神様より事務が強い。
【今回の勇者ステータス】
死亡回数:717回 → 726回
クラス:帰還者候補/死因学者系統
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
【獲得済み主要スキル】
【死因学習 Lv.3】【足元確認 Lv.5】【未識別警戒 Lv.5】【ミミック警戒 Lv.2】
【総合盤面確認 Lv.2】【帰還門感知 Lv.3】【ログ管理 Lv.2】【一フレームの神様 Lv.2】
【神様操作前兆 Lv.1】【滅亡前兆視認 Lv.1】【滅亡原因分類 Lv.2】【消えたシード保存 Lv.1】
【世界の死因学習 Lv.1】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【消えた名前を呼ぶ Lv.1】【名前灰採取 Lv.1】
【ローグライクあるあるネタ】
保存壺に入れる前に死ぬ事故、壺割り事故、所有者不明アイテム問題を名前の保存失敗へ変換。
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