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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第15章-分水嶺
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91/93

第15-5話 採決

時刻: 10月28日 午前11時00分

場所: ジュネーブ・国際会議場

採決の日だ。

会議場は、二週間前より静かだった。

多くのことが、すでに非公式に決まっていた。

マリアの外交作業が実を結んでいた。

9月の全体会議から6週間、個別交渉と妥協条件の調整が続いた。

残った争点は、細部だった。

細部の争点を残している、ということは、大筋が固まっているということだ。

私はこの6週間も記録し続けた。

マリアが各国の代表と会っていた日々。

交渉の内容の大半は非公開だったが、入退室の回数と、会議後のマリアの表情の変化は記録した。

表情は書けない。

しかし、表情が変わったかどうかは書いた。

会議の2時間前から、ロビーにいた。

マリアが通ると、昨日まで強硬に反対していた小国の代表が、小さく、しかし明確に会釈を返した。

その一瞬の視線の交差に、私はこの6週間のマリアの夜を重ねて見た。

非公開の会議室で何度も引いた妥協案が、各国の利益というパズルのピースを最後の一押しで嵌めていった痕跡が、今朝のロビーにある。

かつての緊張した沈黙は、今は合意への事務的な熱気に変わっていた。

マリアはその代表の会釈に、ごく小さく頷いた。それだけだった。

6週間分の仕事への返答が、その一秒に収まっていた。

席が埋まっていく様子も観察した。

支持の側が早く来て着席する傾向があるか、反対の側は遅く来るか、そういうことを観察したかった。

結論は、差がなかった。ど

の立場の代表も、似たような時間に着席した。

会議場の温度が、普段より少し低かった。

空調の設定が変わっているのか、人の密度の問題なのかは判断できなかった。

「修正案の採決を行います」

議長が宣言した。

「金星テラフォーミング計画・第一段階実施案、修正第三版。賛成の代表は起立してください」

洋子は、壇の隣の席に座っていた。

浩は、後方の席にいた。

私は、記録者席で記録端末を持った。

この瞬間を待っていた期間が、6年分ある。氷雨が降り始めた日から数えれば。

その問いが今日、167ヶ国の採決という形に結晶した。

私はその考えを記録端末には書かなかった。

記録者として、今日の事実だけを書く。

起立が始まった。


時刻: 午前11時20分

場所: 国際会議場

起立は、前列から始まった。

最前列にいるのは大国の代表が多い。

彼らが立ち上がると、後方が続いた。

ドミノのように、ではない。

それぞれが自分のタイミングで立った。

一人、わずかに遅れて立ち上がった代表がいた。

しかし波として見れば、前から後ろへの動きがあった。

「賛成、127。反対、24。棄権、16」

「可決です」

会場に、拍手が起きた。

大きな拍手ではなかった。

静かに、しかし確実に広がる拍手だった。

全員が立ち上がったわけではない。

しかし、立ち上がって拍手している代表が、場の重心を変えた。

私は採決の結果が読み上げられる直前、9月のロビーで洋子に「言葉は覚えておく」と言った代表を目で探した。

見つかった。

後方の席にいた。

「反対、24」という数字の中に、その代表もいた。

反対の意思表示のため座り続けていた彼は、一瞬だけ目を上げた。

視線が合った。

彼は無表情だった。

しかし、その目は以前ロビーで洋子の話を聞いていた時と同じ、重い光を湛えていた。

彼は反対した。

しかしその反対は、拒絶ではなく、彼なりの責任の表明のように私には見えた。

膝の上の彼の手が、膝の上で最後まで静止していた。

洋子は、拍手を受けながら立ち上がった。

表情は、いつもと変わらなかった。

後方の席で、浩も立ち上がった。

私は記録端末で撮影しながら、二人を見た。

二人の間には、会議場の中央通路を挟んで、十数メートルの距離があった。

しかし、その距離の中で、二人がほぼ同じタイミングで立ち上がったことを、私は記録した。

タイミングは偶然かもしれない。私には判断できない。

会場の拍手が続いていた。

反対票を入れた24の国々の代表も、その場に座っていた。

拍手をしていない者もいた。

私は、起立の始まった瞬間から数え終わるまでの時間を計測していた。

1分47秒だった。

1分47秒で、世界が変わった、と書いた。

そして、その一行を消した。

世界が変わったかどうかを判断するのは、記録者の仕事ではない。

1分47秒で起立が完了した、という事実を書いた。

マリアは壇上から降りなかった。

立ったまま、拍手を受けていた。

洋子もマリアも、似たような立ち方をしていた。

背筋が変わらない立ち方だ。

二人が並んでいる場面を、私は撮影した。

浩は後方の席にいたため、壇上の二人とは距離があった。

私はその距離を写真に収めた。

前方の洋子とマリア、後方の浩。

三人の間にある距離と、しかし三人が同じ結論に向かって立ち上がったという事実。

その両方が一枚の写真の中にある。

距離と同一性が同じ画角に収まっていた。

それが今日の記録として残る一枚だ。


時刻: 午後2時00分

場所: IGDE本部・記者会見室

可決の直後、記者会見が開かれた。

マリア、洋子、浩の三人が壇上に並んだ。

「金星テラフォーミング計画・第一段階が、正式に国際合意されました」

マリアが発表した。

「第一弾の氷塊投入は2年後を予定しています。金星への到達はさらにその2年後。そこから段階的な大気変化が始まります」

記者から質問が飛んだ。

「成果を見るのは何世代後ですか」

「完全な成果は、三百年から五百年後です。しかし、百年以内に観測可能な変化が現れます。大気圧の低下、温度の変化。それを記録する世代が、次の段階の判断をします」

「ケフィリアンへのメッセージとして、この計画をどう位置づけていますか」

マリアは洋子を見た。洋子が答えた。

「彼らは、形の違うピースが重なり合わずに平面を埋め尽くすことができる、と教えてくれた。今日の可決は、百六十七ヶ国が、それぞれの形のまま、同じ問いに答えた事実です。それ自体がメッセージです」

質問は30分続いた。

洋子とマリアが交互に答えた。

浩は補足を3度行った。

技術・政治・倫理の三方向から質問が来た。

どの質問にも、準備された回答が使われた。

準備にない質問が来たのは、後半だった。

「この計画への投資が、現在の政治家の任期内にどのような可視的成果をもたらすか、位置づけを教えてほしい」

洋子の眉間が、わずかに動いた。

彼女は手元の資料を閉じた。

普段より少しだけ大きな音を立てて。

「その問いは、三百年後の海に、何ミリの深さも与えません」

洋子の声は低く、鋭かった。

感情的な爆発ではなく、不純物を切り捨てるような絶対的な論理の鋭利さだった。

彼女は質問者の目を見据えたまま続けた。

「今日ここで合意されたのは、名前も顔も知らないまだ見ぬ未来の人間へ向けた意志の表明です。任期の中に収まる成果を求めるなら、この計画はその問いに答えません。三百年後に誰かが金星の雨を見るために、今日、レバーを固定した。それが今日の事実です」

会場が少し静かになった。

その静けさを、私は時間として計測した。

11秒ほどだった。

私はこの11秒を書いた。

別の記者が、角度を変えた。

「計画が失敗した場合、誰が責任を取るのか」

洋子は一拍置いた後、答えた。

「失敗の定義による。百年後の観測で連鎖反応が成立しなかった場合は、当時の意思決定機関が次の判断をします。今日の私たちが持てるのは、始めることの責任だけです」

記者会見の終わりに、マリアが一言付け加えた。

「この計画は、どの一国の意志でもなく、167ヶ国の選択です。この事実が、今日の最も重要な記録になります」

私はその言葉を、記録端末の最上部に別枠で書いた。


時刻: 記者会見後

場所: IGDE本部・控え室

会見が終わった後、三人は控え室に入った。

洋子がソファに腰を下ろすのと同時に、マリアがコーヒーメーカーに向かった。

それが習慣のように自然だった。

コーヒーの香りが広がった。

マリアが椅子に深く腰掛け、大きく息を吐いた。

その瞬間だけ、世界を動かした外交官の顔が消えた。

ただの、疲労をほぐす人間の呼吸があった。

浩がコーヒーカップを渡しながら、マリアの隣に腰を下ろした。

マリアがそれを何も言わず自然に受け取った。

6週間、別々の場所で仕事をしていた二人が、控え室のソファで隣に座った。

それだけのことだったが、私はそれを書き留めた。

洋子がマリアを見た。

「本当にありがとう。6週間、どれほど大変だったか」

「あなたたちが計算を完成させてくれたから、私は数字を持って交渉できた。お互い様よ」

マリアは一口コーヒーを飲んだ。

「今日のロビーで、あの小国の代表が会釈してくれた時、やっと終わったと思った」

「私も見ていました」

私が言った。

「あの会釈を、6週間待っていた」

「記録してた?」

「しました」

マリアは少し笑った。

「ありがとう」と言った。

浩がコーヒーカップを置く音とほぼ同時に、ごく自然な口調で言った。

「美咲、今日も立った?」

マリアが少し笑った。

「今朝、10秒。出がけに見せてくれた」

「10秒か」

「そろそろ歩くかもしれない」

洋子がその言葉に耳を傾けていた。

自分の子のことのように。

三百年後の金星の海よりも、もっと切実な10秒の時間が、控え室に流れた。

洋子が、自分のコーヒーカップを両手で持ったまま、浩に言った。

「記者会見の後半、あの質問が来た時、あなたは顔色一つ変えなかったね」

「どの質問だ?」

「任期内の成果を問う、あれ」

浩は少し間を置いた。

「答えるべき問いではないと思った。洋子が答えるだろうと思った」

「頼りにされすぎている気がする」

「頼りになるから頼りにする」

また少しだけ間を置いて、一言。

「……それでいいと思ってる」

マリアが二人のやり取りを、コーヒーカップ越しに見ていた。

「あの後の数秒の静けさ、記録した?」

私に向けて聞いた。

「しました。11秒と書きました」

「体感は30秒くらいあった」

浩が「私には5秒くらいだった」と言った。

洋子が「私には計測する余裕がなかった」と言った。

三人が、それぞれ違う時間を生きていた、ということだ。

私はその事実を書いた。

しばらく沈黙があった。

コーヒーの湯気だけが動いていた。

「月曜日、次の協議を入れましょう」

洋子が言った。今度は業務の声だったが、さっきより少し柔らかかった。

「午前10時でいい?」

「いい」

浩が頷いた。

「マリアは?」

「入れる。外せない会議が午後にあるから、10時がいい」

「では月曜日」

「月曜日」

三人が控え室を出た後、私はしばらくそこに立っていた。

採決から3時間ほどが経っていた。

廊下は静かだった。

会議場の中では、まだ関係者が動いていた。

しかし主役の三人はすでにそれぞれの仕事に戻っていた。

廊下に残った私は、しばらくその場に立ったまま、端末に記録を打ち込んだ。

今日の採決の時刻。

可決の数字。

記者会見の時間。

控え室でのやり取りの時刻。

そして美咲が10秒立ったこと。

これらが並んで今日という日の輪郭を作っている。

輪郭を書くことが、記録者の仕事だ。

輪郭の内側に何があるかを書く仕事は、別の誰かに渡してもいいと、今日初めて思った。

この本を書いている私が、その誰かになるかもしれないが。


時刻: 夕方

場所: IGDE本部・洋子のオフィス

洋子は、イブラヒムから祝電を受けていた。

「神は宇宙を、退屈な同じパターンの繰り返しでは創られませんでした。今日、あなた方がジュネーブで示したのは、まさにその聖なる幾何学です。違う形のまま隣り合い、決して重なり合わずに永遠を埋め尽くす。167の異なるピースが、誰の影も踏むことなく未来を埋め尽くしました。この美しいタイリングこそ、私たちの祈りへの最も理知的な返答です。金星に雨が降る日、神もその水溜りに映る模様を見て微笑まれることでしょう」

洋子は、その文を二度読んだ。

私はオフィスの端から、洋子が端末を見ている様子を記録していた。

二度読んだ後、洋子の肩から少し力が抜けたように見えた。

見えた、と書くのは珍しい。

しかし書いた。

洋子は、返電を書いた。

「あなたがタイリングの言葉を選んでくれたことに、深く感謝します。今日、167のピースは確かに互いの影を踏まずに並びました。金星の水溜りに映る模様を、いつか一緒に見られることを願っています」

私は返電の内容を記録しながら、洋子がイブラヒムの「神も微笑まれる」という末尾の言葉に対して、「一緒に見られることを願っています」と返したことを書き留めた。

神の微笑みを、人間の並び立つ願いで受けた。

その言葉の選び方を、私は書けない。

しかし起きた事実として書いた。

イブラヒムとの関係は、6年間続いていた。

ザカリアによるテロが激しかった時期も、イブラヒムは科学の側で動いた。

その功績を、洋子は正確に覚えていた。

返電を送り終えた洋子が、少し背もたれに体を預けた。

今日初めて、重力に従った姿勢だった。

「他にも来てた? 祝電」

私が聞いた。

「20件以上。返せないから、今日はイブラヒムだけ」

「そうか」

「でも、あの人の文章は格が違う」

洋子は端末を置いた。

「毎回、驚かせてくれる。科学の言葉と神の言葉を同じ文の中で使って、どちらも安売りしない」

「水溜りに映る模様、というのがよかった」

「そこ。三百年後の話を、そこまで小さく畳んでくれるのが彼らしい。茶目っ気があって、しかも正確だ」

「詩人だね」

「詩人で、外交官で、神学者。あの人の文章を読むたびに、自分の言葉を考え直したくなる」

「君の言葉は正確だ」

「イブラヒムは正確さと楽しさを両立させてる。それが難しい」

洋子はそう言って、少し笑った。

記録者として、洋子が笑う場面を見ることは少ない。

今日の疲れが、笑いに変わる体力を残していた、ということだ。

メッセージを送り終えた後、洋子は窓を見た。

夕暮れのジュネーブ。

アルプスの輪郭が遠く見えた。

今日はよく晴れていた。

「分水嶺を越えた」

洋子は、独り言のように言った。

私は隣にいた。

「そうだね」

「始まったな、と思う?」

「思う」

「私も」

洋子は窓から離れた。

デスクに戻って、翌日の作業リストを開いた。

私は洋子の隣で、今日の記録を整理していた。

しばらく二人とも静かだった。

作業の続く時間だった。

洋子が手を止めずに言った。

「イブラヒムはね、ああいう文章を楽しんで書いてると思う」

「うん、そう読める」

「羨ましいな、と思う。楽しんでいることが文章に出てくる人って、あんまりいない」

「君もそういう文章を書く時がある」

「いつ?」

「浩の軌道図の説明をする時。楽しそうだよ、あの時の文章」

洋子は少し間を置いた。

「そう?」

「そう」

洋子はまた作業に戻った。

私も記録を続けた。

オフィスの中で、二人が並んで仕事をしている時間が続いた。

洋子の手が端末の上を動く音が、静かな部屋に小さく聞こえていた。

私も端末を動かしていた。

同じ音が二重になっていた。

この時間を、私は記録すべきか迷った。

採決の日の夜のオフィスで、二人が黙って仕事をしていた、という事実。

残すべきかどうか。

残した。

なぜかは、今も書かなかった。

書けなかったのかもしれない。


時刻: 深夜

場所: 洋子の自宅

帰宅すると、太一は起きていた。

生後10ヶ月。夜中に目が覚めることが増えていた。

私が太一を抱いていた。

洋子が帰ってくると、太一は洋子の方向を見た。

目が合った。

「ただいま」

洋子が言った。

太一は声を出した。

言葉ではない。

しかし、洋子の声に応答する音だった。

「今日、国際会議で可決されたよ」

洋子が太一に言った。

太一は返事をしなかった。当然だ。しかし、洋子の顔を見ていた。

「金星テラフォーミング計画。あなたが大人になる頃には、金星が少し変わっている。多分、ね」

太一は、何かを掴もうとして空中に手を伸ばした。

「三百年後には、もっと変わっている」

私は、太一を洋子に渡した。

洋子は受け取って、しばらく見ていた。

「さて、寝かせなければ」

洋子は立ち上がった。

私はその場に残って、記録端末を開いた。

今日の記録を最後まで書くためだ。

今日起きたことを、すべて書くことはできない。

国際会議の採決。

記者会見。

控え室での会話。

美咲が10秒立ったこと。

イブラヒムへの返電。

「分水嶺を越えた」という洋子の独り言。

帰宅後の場面。

私が書いたのは、事実だ。

感情は書いていない。

書こうかとも考えはしたが、、事実の輪郭に比べてどれも小さすぎると感じて、やめた。

太一が洋子に渡された瞬間に、太一が何かを言おうとするように口を開いたことを、私は書いた。

声にはならなかった。

しかし、口が開いた。

それだけを書いた。

隣の部屋で、洋子が太一に声をかけているのが聞こえた。

歌ではなく、話しかけていた。

「今日ね、すごく大事なことが決まったのよ」と言っていた。

続きは聞こえなかった。

太一の泣き声が重なったからだ。

私は記録端末にその言葉を書いた後、少し考えた。

太一に向けた言葉を記録に残すべきかどうか。

結局、残した。

洋子が太一に向けて言った言葉も、事実だからだ。

10月28日の記録として、今日は終わる。

採決から帰宅まで、私はほぼ一日中記録を続けた。

その中で最も長く残る記録は何か、今の私には分からない。

今日の記録の最初は、マリアに会釈した小国の代表の一瞬だった。

最後は、太一の口がわずかに開いた一瞬だ。

その二つの間に、127対24対16という数字が挟まっている。

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