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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第9章-ブレイクスルー
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54/63

第9-7話 120,000キロメートル

時刻: 2月10日 午前10時

場所: 太平洋上の人工島、中央管制室

「高度: 119,200km」

スクリーンの数字が、管制室の全員の目を集めていた。目標の120,000キロメートルまで、残り800キロメートル。

「建設速度、安定しています。1日あたり200キロメートル。予定通り、2月14日に完成します」

「ケーブルの強度、全セクション正常。マスドライバーの設置も、最終調整段階に入りました」

田中が読み上げる数値を、浩は確認せずに聞いていた。

既に頭に入っているからだ。

9ヶ月間、この数字を追い続けてきた。

800という数字の意味を、体で理解している。

「あと4日だ」

浩が言った。

管制室に向けて言ったのか、隣に立つ洋子に向けて言ったのか、あるいは自分に向けて言ったのか、

私には判別できなかった。

残り4日という数字の質が、「残り20日」とは違った。

20日あれば何かが起きた時に対処できる。

4日は違う。この4日間に起きたことは、ほぼ取り返しがつかない。

成功するか失敗するかが確定する時間だ。

9ヶ月間の建設の中で、今が最も細い橋の上にいる。

その感覚を、管制室にいる全員が共有していた。

言葉にはならなかったが。

マリアがオンラインで参加していた。

ジュネーブからの回線だ。

「完成式典の準備が整いつつある。各国の首脳と国連事務総長が参加する。世界が見ている」

私もカメラを準備していた。

この4日間で記録すべきことが起きるとすれば、全て収める必要がある。

カメラのバッテリーを確認した。

メモリを確認した。

バックアップの機材を確認した。

準備することが、記録者としての私の最後の仕事の始まりだった。


時刻: 2月11日 午後2時

場所: 太平洋上の人工島、中央管制室


最後の試練は、翌日の午後に来た。

田中が報告した。

「太陽活動の活発化を確認。2月14日にX級フレアが地球を直撃する可能性があります。規模の想定はX8からX12」

浩は動じなかった。

「予定通り、全12基の誘導放電システムをスタンバイさせろ」

「はい。ステラーカーボンIIの導電特性を利用した、地球規模の避雷針運用ですね」

「そうだ」

太陽フレアは、設計段階から織り込んでいた想定リスクだ。

ステラーカーボンIIの結晶格子が均一帯電する特性を利用し、ケーブル全体を導電体として機能させることで、高エネルギー粒子を地上に安全に逃がす——理論上は、完成している。

ただし、と浩は言った。

「局所的な実証実験は通っている。しかし、全12基を同期させて地球規模の電磁シールドとして動かすのは、今回が最初だ」

洋子が続けた。

「失敗すれば、完成間際のケーブルは高エネルギー粒子の直撃を受けます。ステラーカーボンIIの分子構造が崩壊する可能性がある」

管制室が静かになった。

「理論は正しい。しかし、12万キロ×12基という規模で同期させることの恐怖は、理論では消えない。それだけだ」

浩が言った。

「やる。実装を始めてくれ。我々が作ったのは、ただの階段じゃない。地球を守るための膜でもあるはずだ」

「はい」

6時間の作業は、静かだった。

洋子が計算し、田中のチームが実装し、AIアトラスが電流分布を最適化した。

浩は管制室を離れなかった。私も離れなかった。

午後4時に、実装の第一段階が完了した。

ケーブルの地上側10,000キロメートルに電流を流し、帯電状態を確認する試験だ。

数値は洋子の計算通りだった。

田中が「問題ありません」と言った。

洋子は数値を確認した後、「続けてください」と言った。

それだけだった。

午後6時、全長への帯電が完了した。

120,000キロメートルのケーブルが、その構造全体で電磁バリアを形成している状態になった。

それを確認した時、浩がモニターを一分間見続けた。

私はその一分間を記録した。

浩が何かを考えていたことは分かった。

何を考えていたかは分からない。

分からないことを書かない、という方針は、この場面でも守る。

太陽フレアが到達したのは、午後8時17分だった。

管制室のモニターが一斉にフレアの磁気嵐を示した。

ケーブルのセンサーが高強度の電磁波を検出した。

しかし、構造に変化はなかった。

「ケーブル、全セクション正常。損傷なし」

田中が言った。

管制室がほっとした雰囲気に包まれた。

いろんな声が重なった。

しかし浩は立ったままだった。

データを見ていた。

全セクションの数値が正常値を示していることを、一つずつ確認していた。

確認が終わってから、浩は洋子を見た。

「ケーブルが自分でシールドになった」

「ステラーカーボンIIの特性として想定していましたが、実証は初めてです」

「成功だ」

「はい」

それだけだった。

作業員たちの歓声が続いている中、二人の言葉は短かった。

私はその短さを記録した。

短さには理由がある。

管制室を出たのは、日付が変わった後だった。

廊下に出ると、人工島の夜気が来た。海の匂いがした。

太陽フレアが通過した後の夜だということが、外に出ると分かった。

何も変わっていない。

ケーブルも、海も、星も、変わっていない。

しかし何かが変わった。

ケーブルが自ら電磁バリアになることを実証した。

それは9ヶ月前には存在しなかった事実だ。

事実が一つ増えた。記録者として、それを書いた。


時刻: 2月13日 午後8時

場所: 太平洋上の人工島、展望デッキ

完成前夜だった。

四人は展望デッキに出ていた。

意識して集まったわけではなかった。

浩が「少し外に出ないか」と言い、それだけで全員がそこに来た。

夜の太平洋が静かだった。

波の音が低く、一定に来ていた。

上空には星がある。

どこかに、今もケーブルが伸びている。

明日の午前中に、その先端が120,000キロメートルに到達する。

「あと14時間か」

浩が言った。数字として言った。

「ええ」

洋子が答えた。

私は何も言わなかった。マリアも何も言わなかった。

風が来た。太平洋の夜の風は、湿っていて少し温かい。

その風の中で四人が立っていた。

それを私は記録したいと思った。

しかし記録するための言葉が見当たらなかった。

写真では足りない。

映像では足りない。

書いても足りない。

そういう瞬間がある。

それでも書く。

それが記録者の仕事だ。

「あの時、来なければ良かったと思ったことはあるか」

浩が私に聞いた。

「ない」

と私は言った。

「俺も、始めなければ良かったと思ったことはない」

「後悔は?」

「別のことだ。選ばなかった選択肢を時々考える。しかし後悔ではない」

「佐藤のことは」

浩が少し間を置いた。

「考えた。何が違えば、ああはならなかったか。答えは出ていない。ザカリアのことも同じだ。同じ出発点から、なぜ違う方向に行ったのか。量子力学的な説明をしたことがあるが、それでも答えにはならない。答えにならないことが分かったことが、唯一の答えだ」

「違いは何ですか」

と洋子が言った。

「後悔は、選んだことを否定する。俺がするのは、選ばなかった可能性の把握だ。数値で言えば残差分析に近い。何を見落としたか。次は何を選ぶか。そのための確認だ」

マリアが少し笑った。

「浩さんは、いつでも次のことを考えている」

「そうしなければならない場面が続いたからかもしれない」

「明日も?」

「完成した瞬間から、次の問題が始まる。月面基地の解析。地球の復興支援。国際法の整備。ケーブルの管理体制。全部、明日から本番になる」

マリアが頷いた。「私のリストも同じようなものよ」

「洋子さんは」

「アタカマ砂漠の観測設備を、完成後に稼働させる予定です。ケフィリアンの設計図の解析と並行して、宇宙観測を再開します。月面基地の未解読の部屋も、完成後すぐに優先して取り組む」

「その部屋が開いた時、何が出てくると思うか」

「分かりません。だから行く」

「俺も同じだ。月面に何があるか分からない。火星に何があるか分からない。4億年前にケフィリアンが地球=月系を使って何をしようとしていたか、まだ分からない。分からないことが、次の仕事を決める」

「先輩は」

「書く。これを書き終えてから、次を考える」

「次は何を書く」

「この記録が終わってから分かることが、次の記録になる」

浩が頷いた。それだけだった。

四人でしばらく海を見た。

「乾杯しよう」

浩がグラスを持ち上げた。ワインだった。

「何に」

「橋を架けようとした全員に」

「乾杯」

グラスが合わさった。音が風に散った。


時刻: 2月14日 午前8時

場所: 太平洋上の人工島、中央広場

50万人が広場に集まっていた。

世界50カ国から来た人間が、同じ場所に立っていた。

国籍が違う。

言語が違う。

宗教が違う。

しかしこの朝、全員が同じ方向を向いていた。

上空のスクリーンには、宇宙空間の映像が映っている。

高度119,950キロメートル。

作業員たちが最終接続に向けた作業を続けている。

オンラインには50億人が接続していた。

推定視聴者数だ。

難民キャンプ、水没した都市の高台、山岳の村、砂漠の街。

衛星回線が届く全ての場所で、誰かがこの映像を見ていた。

壇上に浩と洋子が立っていた。

マリアも隣にいた。

「皆さん。本日、人類史上最大のプロジェクトが完成します。軌道エレベータ。全長120,000キロメートル。地球と宇宙を繋ぐ道。それが、あと数時間で完成します」

浩の声は、拡声器を通しても芯が変わらなかった。この2年間で聞き続けてきた声だった。

「現在、最終作業中です。あと50キロメートル」

スクリーンに数字が映し出された。50キロメートル。それが減っていく。

私はカメラを回し続けた。

広場の全員の顔を撮った。

壇上の三人を撮った。

スクリーンの数字を撮った。

何もかもを記録した。

記録しながら、

この場所に自分がいることを意識した。

記録者として、この場所にいる。

それが私の仕事だ。

50億人がオンラインで見ている。

その50億人の一人一人が、今この瞬間に何かを感じているはずだ。

50億通りの感情が同時に存在している。

私が記録できるのはその一部だ。

自分が見ていること、聞いていること、いる場所で起きていること。

その外側にあることは、後から集めて書く。


「10キロメートル」


「5キロメートル」


「1キロメートル」


広場が静かになった。

50万人が息を飲んでいた。

私もカメラを持ったまま、息を止めていた。


時刻: 2月14日 午前10時

場所: 宇宙空間、高度120,000キロメートル → 中央広場

「最終接続、完了」

宇宙空間の作業員の声が、管制室から広場のスクリーンに流れた。

「軌道エレベータ、120,000キロメートル——完成」

その瞬間。

広場が動いた。

50万人が同時に何かをした。

声を出した者もいた。

泣いた者もいた。

隣の人間を掴んだ者もいた。

私は記録しながら、どれを記録すべきか判断できなかった。

全部を撮った。

全部を書こうとした。しかし全部は書けない。

壇上では、浩と洋子が互いを見ていた。

言葉はなかった。

言葉は必要なかった。

2年間を共にした二人の間に、この瞬間の言葉は存在しなかった。

マリアが浩の隣に立った。

洋子の隣にも来た。

三人が向き合った。

私はカメラを回しながら、三人の横顔を記録した。

歓喜の声が広場を満たす中、三人の表情は硬かった。

浩はスクリーンの数字を見ていた。

洋子はデータのタブレットに目を落としていた。

マリアは広場の群衆ではなく、その向こうを見ていた。

彼らにとって、この12万キロの完成は、ゴールのテープを切ることではない。

氷雨として降り積もった海水を、一滴残らず宇宙へ送り返すための、気の遠くなるような作業の開始合図に過ぎない。

重すぎるシャベルを、ようやく手に入れた。それだけだ。

その横顔を、私は書き留めた。

世界中で、何かが起きていた。

バングラデシュの難民キャンプ。12月に泣いていた老人が、今日も同じテントの前にいた。

しかし今日は泣いていなかった。

空を見上げていた。

その目に何が映っていたかは、カメラに残せない。

アンデスの村。

村長が広場に集めた人々が、静かに空を見上げていた。

12月の拍手とは違う種類の静寂だった。

東京。

水没した旧市街が見える高台の仮設住宅。

誰かが手帳を開いていた。

「あと4ヶ月」「あと2ヶ月」「完成」と書き続けてきた手帳だ。

最後に何を書いたかは、後から確認した。

「戻れる」。それだけだった。

カイロのイブラヒム・アル=ファディルが声明を出した。

「完成を祝う。しかし、これは始まりに過ぎない。エレベータが正義を保証しない。正義は、使う者が作るものだ」

9ヶ月前と比べて、言葉の重心が変わっていた。

ザカリアが去った後、イブラヒムは別の方向を向き始めていた。

それらの全部を、私は後から記録に加えた。

直接見ていない場所は、証言と映像から書いた。

それも記録の一部だ。

記録者として、自分がいた場所だけを書くのが正確とは限らない。

いなかった場所を書くことも、記録の一部になる。


時刻: 2月14日 午後2時 → 夜

場所: 中央広場 → 人工島、小さな部屋

完成式典が開かれた。

国連事務総長が壇上に立った。

「本日、人類は新しい段階に入りました。

それは120,000キロメートルという高さの問題ではありません。

文明とは何か。

それは力を持つことではなく、その力をどう使うかを選び続ける営みだと、私は考えます。

私たちは今日、協力という道によって未来に到達できることを示しました。

それは時間がかかり、誤解も生み、忍耐を必要とする道でした。

しかし、その過程そのものが、私たちの自己理解を変えました。

技術は文明を保証しません。

文明を保証するのは、選択です。

対立より対話を、排除より共存を選び続けること。

この塔は、その選択の形であり、問いかけでもあります。」

マリアが続いた。

「この成功は、特定の誰かのものではありません。

理想論ではなく、事実です。

この計画の過程で、私たちは何度も対立しました。

予算、安全保障、管理権限。

参加を見送った国もありました。

それでも交渉は続けられました。席を立たなかった。

だからこれは、人類が共同で持つ成果です。

そして、管理も共同で持ちます。

この塔は力の集中装置にもなり得る。

物流を握ることは、影響力を持つことと同義です。

その危うさを理解したうえで、透明性を制度として組み込みます。

成功だけでなく、失敗の責任も共有します。

理想を語るのではなく、仕組みとして守る。

それが、この塔の原則です。」

最後に、浩と洋子が壇上に立った。

浩が話した。

「50万人の仲間と、世界中で支えてくれた人々に感謝します。

本日、120,000キロメートルの軌道エレベータが完成しました。

設計上の性能は、すべて実証されています。

構造強度、放電制御、軌道安定性——いずれも想定範囲内です。

しかし、これは成果というより、条件が整ったということです。

この塔は目的ではありません。

地球の復興を加速させるための輸送インフラであり、

月面と地球圏を恒常的に結ぶ実験基盤です。

明日から始まるのは運用です。

運用は建設より難しい。

失敗は統計的に必ず起きる。

だから私たちは、修正可能な設計にしました。

今日ここにあるのは、完成した奇跡ではなく、

改善を前提にした構造物です。

次の課題に取りかかります。」

洋子がマイクを受け取った。

少し間があった。会場の熱狂が、その沈黙の中で少し収まった。

「私たちは今日、ようやくスタートラインに立ちました」

声は静かだった。拡声器を通しても、熱狂を煽る種類の声ではなかった。

「この塔は、私たちを救う魔法の杖ではありません」

会場の風と声が凪いでいった。

「氷雨を宇宙へ排出し、失われた地表を取り戻すための、過酷な労働のための道具です。

明日から始まるのは、喜びではなく、数世代にわたる苦闘です。

難民の帰還。農地の再生。水没した都市の復旧。

そのどれもが、この塔を使って初めてできることであり、この塔があっても容易ではないことです」

広場がしんと静まり返った。

「でも、私たちにはその道具が、ようやく手に入りました。ケフィリアンは記録を残しました。滅びた文明の記録者が、4億年後の私たちに言葉を届けました」

「『よい人生を』。タラス船長が、滅びゆく文明の最後に残した言葉です。

私はこの言葉を、楽に生きることへの祝福だとは思っていません。少なくとも、私はそのようには受け取りませんでした。

どんなに困難でも、意志を持って生き抜くという覚悟の言葉だと思っています。

私はその覚悟を受け取ってここまで来ました。今日ここに立っている理由の一つです。

そして未来へ、渡します。皆さん——よい人生を」

広場が動いた。拍手ではなかった。最初は沈黙だった。それから、少しずつ声が来た。

その夜、四人は人工島の小さな部屋に集まった。

式典の会場から離れた、静かな場所だ。

外では、まだ何かが続いていた。

音楽か、演説か、それとも50万人の声か。

ここまでは届いていた。しかし遠かった。

グラスに飲み物を入れた。

「やったな」

浩が言った。

「ああ」と私は言った。

「おめでとう」とマリアが言った。

洋子は何も言わなかった。

しかし頷いた。

「これで終わりじゃない」

と浩が言った。

「分かっている」

と私は言った。

「それも書く」

四人でグラスを合わせた。

音だけが部屋に残った。

しばらく、誰も話さなかった。

外の音が遠くなっていった。

私はグラスを持ったまま、今日一日に起きたことを頭の中で確認した。

太陽フレアを乗り越えた11日の夜から数えて3日。

完成の瞬間。

式典。

演説。

「よい人生を」という洋子の言葉が会場を満たした瞬間。

それらが順番に並んだ。

記録者として、並べることができる。

しかし並べただけでは足りない。

何が足りないかは分からない。

足りないことが分かっていることが、記録を続ける理由かもしれない。


——


記録者として、最後にこれだけ書く。

この2年間に起きたことを、私はできる限り誠実に書いた。書けなかったことがある。書かなかったことがある。それも含めて、これが記録だ。

以前に私は書いた。

「この記録を読む者へ。私たちは橋を架けようとした。渡り切ることができたのか、あるいは途中で墜ちたのか。その答えは、すでにあなたの時代が知っているはずだ」

今日、橋は完成した。渡り終えたかどうかは、まだ分からない。橋が完成することと、渡り終えることは別のことだ。それも記録しておく。

タラス船長は「よい人生を」と書いた。

4億年後に、私たちがそれを受け取った。今日、洋子がその言葉を50万人に向けて返した。言葉が4億年を渡った。それを私は見ていた。記録した。

記録者として、2年間の記録を終える。書けなかったことがある。書かなかったことがある。それも含めて、これが記録だ。

人類は、120,000キロメートルの橋を架けた。それは書ける。

橋を渡ることが、次の記録になる。

それ以上のことは、それぞれが自分の言葉で書けばいい。

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