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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第9章-ブレイクスルー
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53/62

第9-6話 ラストスパート

時刻: 1月15日 午前10時

場所: 太平洋上の人工島、中央管制室

月から戻って5日が経っていた。

帰還後、洋子はすぐに解析作業を再開した。

ケフィリアン基地内部の記録データが膨大で、整理だけで数日かかる。

現地の解析チームが全力で取り組んでいるが、量子メモリーの断片だけでも昨年のL4点の宇宙船の数倍の規模があった。

あの解読に半年以上かかったことを考えれば、今回は終わりが見えない。

私は私で、月面で撮影した映像と写真の整理を続けていた。

しかし今日の午前、私はそれらを一時中断して、管制室に来ていた。

メインスクリーンに数字が映っていた。

「高度: 115,083km」

目標まで4,917キロメートル。

「建設速度、現在1日あたり480キロメートル。この速度を維持すれば——」

「10日ちょっと」

浩が遮った。

言葉は短かった。

管制室の空気は、9ヶ月前とは異なる種類の緊張に満ちていた。

プロジェクト開始時の緊張は、失敗への恐怖が主体だった。

今日の緊張は違う。

成功が見えている状態でのそれだ。

見え始めたゴールに向かって走る時、足元の石に躓かないかという恐怖が生まれる。

見えないゴールより、見えるゴールの方が、ある種の緊張は強い。

「最後まで気を抜けません」

洋子が言った。浩の隣に立っていた。

この2年間で何度繰り返された言葉か。

しかしその都度、同じ重さを持って発せられている。

洋子の言葉は、習慣的な安全発言ではなかった。毎回の確認だった。

洋子がそこまで言う理由は、月面帰還後に一段増した気がした。

基地の内部を見た後、洋子は「あの基地は、ケフィリアンにとって最終段階の場所だった」と言っていた。

最終段階で何かが起きた。

システムの故障でも、計算違いでもない。

ただ、彼らの文明が積み上げてきた「継続性」という鎖が、母星からの暴力によって物理的に引き千切られたのだ。

私たちも今、最終段階にいる。

洋子の「気を抜けません」は、そういう重さを帯びていた。

「もちろんだ」

浩が言った。「あと2週間弱。全力でいく」


時刻: 1月15日 午後2時

場所: 私の執務室

午後、私は執務室に戻った。

机の上には二種類の記録が重なっていた。

今日の建設進捗ログと、月面で撮影した未整理の映像ファイルの一覧だ。

どちらも処理が必要だった。

しかし私はしばらく、どちらにも手をつけなかった。

「氷雨の黙示録」という仮題を、私は先月から持ち続けている。

しかしこの10日間で、その記録の射程が変わった。

最初この記録は、氷雨から始まる人類の生存の記録だった。

浩がケフィリアンのメッセージを解読し、洋子がステラーカーボンIIを開発し、軌道エレベータを建設し、世界を変えようとしている——その記録だ。

しかし月面の基地に入った瞬間、話が変わった。

これは今の話だけではない。

4億年前から続く話だ。

ケフィリアンが地球=月系を使って何かを試み、失敗し、記録を残し、その記録が今の私たちに届いた。

氷雨は終わりではなく、4億年の通信の一部だった。

そういう記録を書こうとしていたわけではなかったが、そういう記録になりつつある。

手元の端末に並ぶ文字を眺めていた。

以前こだわっていた「形式」の問い——クロニクルか、証言録か——は、今の私にはもはや些末なことに思える。

月面の基地に入った後、問いの種類が変わった。

重要なのは、この記録が誰に届くかではなく、届いたときに彼らが私たちを「何」として認識するかだ。

4億年前のタラス船長が残した記録を読んだ時、私たちは彼らを何と見たか。

滅びた文明の記録者。知恵はあったが間に合わなかった者。

記録を残す時間だけは持てた者。

そう見た。

では、未来の誰かは、この12万キロの塔を建てようとした私たちを、何と見るのか。

神の如き先駆者と見るのか。

星を汚した愚者と見るのか。

あるいは、ケフィリアンと同じ道を辿ろうとして、かろうじて別の選択をした者として見るのか。

「……私たちは、橋を架けているだけなんだな」

声に出して言った。誰もいない部屋に言葉が落ちた。

過去を記す者から、未来に問いを投げる者へ。

私の視点は、延伸されるケーブルと共に、少しずつ地上から離れつつあった。

タラス船長が4億年後の私たちに届けたように、私の記録も、どこかの時代の誰かに届くかもしれない。

届いた先で、彼らが私たちをどう審判するかは、私の管轄外だ。

しかし、審判に堪えうる記録を残すことは、私の管轄内にある。

洋子が部屋に顔を出した。

「まだ悩んでいますか」

「悩み方が変わった」

「月面の前と後で、ですか」

「そうだ。射程が変わった。4億年前まで遡る記録を、どう書けばいいのか」

洋子は少し考えてから言った。「書く範囲を決める必要があるんですか」

「普通の記録は、始まりと終わりがある」

「この記録は、普通じゃないということかもしれません。それに——」洋子が続けた。

「タラス船長の記録も、始まりと終わりを彼が決めたわけじゃないと思います。起きたことを残しただけで、その先まで届くかどうかは分からなかった。あなたの記録も、同じかもしれない」

洋子はそれだけ言って、仕事に戻った。

点滅しているカーソルが見えた。

点滅していた。

タラス船長の記録と自分の記録を、洋子に並べられた。

その比較が正確かどうかは分からない。

しかし正確かどうかより、そういう視点があることが記録に値する、と思った。

タラス船長は、自分の記録が4億年後に読まれるとは思っていなかったはずだ。

では、なぜ書いたのか。

審判されるためではない。

それは確かだ。では何のために。その答えを私はまだ持っていない。

しかし今日、私は少なくとも一つのことを決めた。

未来の誰かが私たちを愚者と見るとしても、記録は残す。

憐れむ目で見るとしても、記録は残す。

——本当にそう言い切れるのか、と一瞬だけ思った。

だが、その逡巡ごと残すことも、記録者としての誠実さだ、と思う。

それは審判を恐れないからではなく、審判に堪えうるものを残すことが、記録者としての唯一の誠実さだからだ。

しばらくしてから、書いた。

「この記録を読む者へ。私たちは橋を架けようとした。渡り切ることができたのか、あるいは途中で墜ちたのか。その答えは、すでにあなたの時代が知っているはずだ」

机の上にコーヒーが置かれているのを今頃気づいた。

さっき、洋子が来た時、持ってきてくれたのだろう。

もう、冷めてしまっていた。

少し申し訳なく思った。


時刻: 1月20日 午後8時

場所: ニューヨーク、IGDE本部近く

浩は1月19日にニューヨークへ飛んだ。IGDE本部との協議のためだ。

月面基地の発見を受けて、ケフィリアン遺跡調査チームの組織と予算の話が急浮上していた。

軌道エレベータの完成後、次の優先事項として正式に位置づけるための根回しを浩が担った。

同席していなかったので、会議の内容は書けない。

逆に、この夜の通話は、記録として残すべきか迷った。

今朝、浩から届いた技術連絡の末尾に、一文が添えられていた。

『今日も頼む』

それは、これまでの彼にはなかった種類の言葉だった。

そして、会議は1月20日の夕方に終わったと聞いた。

その後、浩はマリアのアパートに寄り、同日の深夜、マリアから音声通話が入った。

浩は、まだそこにいた。

「完成まで持たせてあげて」

マリアの声は、回線越しでも驚くほど静かに響いた。

二人の間に何があったのか。それを推測する言葉を、私は書こうとして消した。

「持たせてあげて」という、あたかも自分たちが一つの生命体であるかのような主語の選択。

その言葉の選び方、声の調子、間の取り方——それらは、記録する理由になるだろう。

だが、記録としては、それだけで十分だった。

それ以上の解釈は、観測者の傲慢でしかない。

翌朝、マリアから別件の連絡が来た。

「ジュネーブの法整備チームが、エレベータ完成後の国際運用規約の草案を仕上げた。承認手続きを来週から始める」

業務連絡だった。

文体は普段通りだった。

私はそれを受け取り、それも記録した。


時刻: 1月25日 午後7時

場所: 太平洋上の人工島、最上階レストラン

浩が1月22日に戻ってきた。

1月25日、四人で食事をした。人工島の最上階にあるレストランだ。窓から海と星空が同時に見える。

「乾杯」

浩がグラスを掲げた。「俺たち四人に」

「乾杯」

グラスが合わさった。

音が散ってから、しばらく誰も話さなかった。

それが気まずい沈黙だとは思わなかった。

四人ともそういう人間だ。話すべき言葉がある時に話す。

それ以外は待てる。

待てる人間が4人集まった夕食は、急がない。急がなくても、話すべきことは全て話せる。

管制室の空気が、マリアの次の一言で張り詰めた。

「月面基地の存在、エレベータ完成から2週間後に全世界へ公表するわ。ケフィリアン基地は単独で世界が騒ぐ規模の発見よ。完成と同時に出すには大きすぎる」

「解析チームにもう1ヶ月必要です」

と洋子が言った。

「初期解読の結果が出てからの方が、発表の内容に厚みが出る」

「それで合わせる」

浩が決めた。

会話が途切れた瞬間、私は窓の外に目をやった。

夜の海に突き刺さるように伸びる一本の黒い影。

照明に照らされた基部から上は、虚空に溶けて見えない。

そこにあるのは、人類の執念と、4億年の沈黙だけだ。

私は冷めきったコーヒーを一口飲み、手帳に走り書きした。

「公表: 完成+14日。解析チーム+1ヶ月猶予」

そういう書き方しかできない決定が、この夕食で次々と出た。

グラスを置く音がした。浩が視線をテーブルに落としたまま言った。

「あの『開かない部屋』の解析を急いでほしい」

「基地の最深部の部屋のことですか」

と洋子が確認した。

「ああ。タラスが言った『真の遺産は最初の挨拶の中に封印した』——封印がL4点の宇宙船の中だけとは言っていない」

「そう思っています。ただ、ロックの形式がL4点のものとも異なっていて。現地チームが解析中ですが、時間がかかりそうです」

「完成後の最優先課題にする」

私は手帳に書き足した。

そこで洋子が続けた。

声のトーンが、ほんの少し変わった。

「もう一つ。壁面発光のエネルギー源の分析が完了しました。外部からの供給はありません。内部エネルギーが、4億年間持続しています」

食事の手が止まった。

「現時点で、我々の物理法則では説明できません」

洋子はそこまで言って、一度だけ言葉を切った。

「少なくとも、私たちが学問として学んだ範囲では」

それから続けた。

「アトラスの推測では、空間そのものからエネルギーを抽出している可能性があります」

私は管制室の壁を流れる空調の音に耳を澄ませた。私たちの文明を支えるあらゆるエネルギーが、あまりにも原始的なものに見えてくる瞬間だった。

「設計図に記述があるか」

「あります。ただし、まだ解読できていない領域の記述です。L4点とはまた別の技術的文脈に属するようで」

「優先度を最高にして続けてくれ」

浩と洋子の会話の速度は、今日も変わらなかった。

言葉が最短経路を通った。

私とマリアはそれを聞いていた。

言葉は交わさなかった。それだけで十分だった。


時刻: 1月25日 午後10時

場所: 太平洋上の人工島、展望デッキ

食事の後、四人は展望デッキに出た。

夜の太平洋が広がっていた。上空には星がある。その星の向こうに、今もケーブルが伸び続けている。暗くて見えないが、データが示している。

「あと20日」

浩が言った。「2月14日に、120,000キロメートルに到達する。完成だ」

「氷雨から、約2年ですね」

洋子が言った。感慨ではなかった。事実の確認だった。

「2年で、何が変わりましたか」と私は聞いた。誰かに向けてではなく、四人全員に向けて。

「変わったことの数え方が難しい」とマリアが言った。

「変わったことを挙げるより、変わらなかったことを挙げる方が速いかもしれない」

誰も何も言わなかった。

私はその言葉を記録に残すべきかどうか考えた。

マリアらしい言葉だと思った。

政治家として言葉の重さを知っている人間が、この場所でそれを言った。それだけで意味がある。

「世界は変わりましたか」

と洋子が言った。

今度は私ではなく、洋子が問いかけた。

「変わりつつある」

マリアは少し笑った。

「役所の書類は相変わらず分厚いけどね」

そして、政治家の表情に戻って続けた。

「でも、変わるのに時間がかかる部分が一番大事なの。難民の帰還。水没地帯の復旧。農地の再生。法整備。数字では速く見えても、人が戻れる環境が整うまでには何年もかかる。エレベータが完成した日に、世界が変わるわけじゃない」

「分かっています」

「分かった上で言っておきたかった」

「なぜですか」

「完成日に、浮かれないために」

浩が頷いた。

「完成はスタートだ。それは2年前から言っている」

そう言いながら、しかし浩は、ほんの一瞬だけ視線を海に落とした。

「言っているから大丈夫だとは限らない。人間は、何かが終わると緩む。完成日は特に気をつけなければならない」

私はその会話を記録した。マリアが「完成日に浮かれないために」と言う。

正しすぎる、その言葉に少し救われた自分がいることは、書いておく。

それがこのプロジェクトの終盤の空気を、最も正確に示していると思ったからだ。

「俺は、記録を書いている」

私が言った。

「まだ誰にも見せていないが、完成したら世に出すつもりだ」

浩が少し振り向いた。

「先輩が書くなら、正確な記録になる」

「正確かどうかは分からない。私の主観が入っている」

「主観の入らない記録は、記録じゃない。ただのデータだ」

それだけだった。浩は余計なことを言わなかった。

「良いんですか」も「君たちの功績を伝えてほしい」も言わなかった。

「正確な記録になる」という信頼だけがあった。

私はその信頼の重さを、今ここで書いておく。

洋子が夜空を見上げた。

「……ケフィリアンも、記録を残しました」

「ああ」

「彼らの記録と、あなたの記録が、この時代に重なっている。あなたの記録が、4億年後に誰かに届くかもしれない。あるいは届かないかもしれない。でも、書くことに意味があるとすれば——それはタラス船長と同じ理由だと思います」

私はその言葉を聞いて、午後に執務室で考えていたことを思い出した。

タラス船長も特定の受取人を想定していなかった、と私は考えていた。

洋子も同じ文脈で考えていた。

同席していない時間に、私と洋子が同じ問いに向かっていた。

それについては書かない。

書かないが、記録しておく。


時刻: 1月26日 午前6時

場所: 中央管制室

翌朝から、ラストスパートが始まった。

「高度: 115,493km。建設速度、安定しています」

管制室に、今日の更新データが入った。6時になると同時に、浩が管制室に現れた。洋子はすでに来ていた。私は5時55分から来ていた。カメラをセットするためだ。

作業員たちは一体となって動いていた。AIアトラスが最適化した工程を、人間の判断が確認しながら進める。9ヶ月間で作り上げたそのサイクルが、今朝も静かに回り始めた。

誰も余計なことを言わなかった。

やるべきことをやる。それだけだった。

ただ一つ、今日から変わったことがある。

管制室の壁に、カウントダウンが表示されていた。

「残り19日」

田中が昨夜設置したものだ。

浩に確認を取ったと聞いた。

浩は「好きにしろ」と言ったそうだ。

カウントダウンが視界に入るのが、モチベーションになるか、プレッシャーになるかは、人による。

管制室の様子を見た限り、どちらでもなかった。

ただの数字だった。数字は事実を示すだけで、感情を決定しない。

だが視界の端に入るたび、胸の奥で何かがわずかに早まるのも事実である。

残り19日。

この20日間、何が起きるか分からない。

デブリが来るかもしれない。

予期しない構造上の問題が生じるかもしれない。

だが今朝は、海も空も今は穏やかだ。

ザカリアが「綻びを待つ」と言っていた言葉を、私はまだ覚えている。

しかしそれを恐れるのではなく、起きた時に対処する準備として、頭の中に置いておく。

浩が管制室の端に立って、今日の作業割り当てを確認していた。

洋子はその隣に来て、タブレットでデータを見ていた。

二人の間には言葉がなかった。

言葉がなくても、情報の共有が成立していた。

私にはその仕組みが分からない。

分からないことは分からないままにしておくことが、この記録の方針だ。

私はカメラを回した。

記録者としての無力を認め、観測事実だけをカメラに収めることも、私の仕事だ。

管制室の全員が、それぞれの仕事をしていた。

記録者として私も、自分の仕事をした。

それだけの朝だった。しかし、それだけの朝が積み重なって、19日後に何かが終わる。

終わるのか始まるのかは、まだ分からない。

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