第9-3話 星空の下で
時刻: 11月26日 午後8時
場所: 無人島の研究所、屋上
ジュネーブ会談から2日が経っていた。
私は洋子と二人で、研究所の屋上にいた。
量子メモリーの最終解析の確認という名目で戻ってきたが、作業は午後のうちに片付いていた。
残ったのは時間と、屋上に出る理由だけだった。
簡素なテーブルと椅子が二脚。
屋上の縁には何もなく、太平洋の夜が全方位から来ていた。
光源は少ない。
人工島の明かりが水平線のあたりで低く光っている。
それだけだ。
この無人島に研究所を作ったのは、電磁ノイズを遠ざけるためだと聞いている。
量子コンピュータの計算精度に、周囲の電磁環境が影響するからだ。
その副産物として、星がよく見える。
科学的な理由で人を遠ざけた場所が、星空を守っていた。
見上げると、星が多かった。
光害のない場所にいることが久しぶりだと気づいた。
東京にいた頃は、星が少なかった。
バーテンダーをしていた時代、店を閉めた後に路地に出ても、空には星がなかった。
街の明かりが星を消していた。
プロジェクトに参加してからは、そもそも空を見る時間がなかった。
夜はじめて、時間があった。
音も風もなく、波も穏やかな太平洋がそこにあった。
「綺麗ですね」
洋子が言った。
「ああ。こんなに星が見えるのは久しぶりだ」
「私、星空が好きなんです。子供の頃から。オリオン座を見つけると、なぜか安心する。位置が変わらないから」
「知っているよ。君が天文学者になったのも、星への憧れからだって」
洋子が少し振り向いた。「覚えていてくださったんですか」
「ああ」
私はそれだけ言った。それだけにした。
二人はしばらく黙っていた。
その沈黙が何種類あるか分類するとすれば、今夜のそれは気まずい側には入らない。
時刻: 午後9時
場所: 同上
夜が深くなった。
星の密度が増した気がした。
目が慣れたのかもしれない。
「洋子さん」と私は言った。
「10年前のこと、覚えてる?」
「もちろんです。あの研究会。観測データの解析」
「あの頃の君は、まだ学生だった。でも、データを見る目が違った。先を読む精度が、私より鋭かった」
「生意気でしたよね、あの頃」
「いや、真っ直ぐだった」
私は星を見たまま言った。
「科学に対して誠実だった。そういう人間は、研究の世界でも、外の世界でも、稀だ」
洋子は何も言わなかった。
しばらく間があってから、私を見た。
「あなたは...昔から、そういう言い方をしますね。直接言わないで、遠回しに」
「そうか」
「そうです」
「そういう言い方しか知らない」
「知っています」
それ以上は言わなかった。言わなくて良かった。
研究不正スキャンダルが起きた時のことを、私は記録から省いていた。
学界を追われた時のことも。
バーテンダーになって、科学から距離を置いた5年間も。
書く必要があれば書くが、書く必要が生じたことがなかった。
そういう話は、今夜も含めて、誰かに話すたびに少しずつ形が変わる。
正確に保存する方法がない。
あの5年間、私はデータを見続けた。
バーのカウンターの向こうで。
何かをしようとしていたのではない。ただ、そういう習慣だけが残っていた。
「でも...あなたは科学を諦めていなかった。私が連絡した時、すぐに来てくれた」
「ああ、そうだ」
「それだけで十分です」
洋子が言った。声が静かだった。
風の音とほぼ同じ強さの声だった。
「量子場理論の論文を書いていた頃のザカリアを、私は思い出します」
洋子がふいに言った。
「同じ世界にいた人間が、あそこまで違う方向に行ってしまった。私たちは、なぜ違ったんでしょう」
私は夜空の闇を見つめた。
「量子力学の重ね合わせのようなものかもしれない、と思う」
「...重ね合わせ?」
「ザカリアも私たちも、最初は同じ確率の雲の中にいた。どちらにも進める可能性があった。でも、ある瞬間の観測——つまり選択によって、波形が崩壊し、一つの現実に収束した。」
「...そう説明すれば、分かったような気になれる。実際には、その『観測』のきっかけが何だったのかは、誰にも分からないが」
「...私たちの波形を、誰かが観測して固定したということですか」
「かもしれない。あるいは、この塔そのものが、私たちを観測し続けているのかもしれない」
洋子は少し沈黙してから言った。
「私にとっては、あなたでした」
私は何も言わなかった。
ザカリアがジュネーブで言っていた言葉を、私はまだ覚えていた。
「影の中から監視し続けてやる」。
彼の波形は、別の方向に収束した。今夜も、どこかで一人でいるはずだ。
その孤独がどういうものか、私には想像できる部分がある。
バーテンダーをしていた5年間、私も止まっていた。
同じように見えて、方向が違った。
ザカリアは憎しみの方向に、私はただ止まる方向に。
止まっていた人間が、連絡一本で動いた。
その事実を、ザカリアは知っている。
彼が「影から監視する」と言った時の目を、私は記録に残していた。
時刻: 午後10時
場所: 同上
二人で星を見ていた。
ケフィリアンの解読が完成したこと。
ザカリアが去ったこと。
プロジェクトがあと5ヶ月で完成すること。
報告すべきことは全て報告した。
今夜は、報告する必要がないことだけが残っていた。
ケフィリアンが見上げた星の中に、この太平洋の上空に今輝いているものが含まれているかどうか。
4億年という時間は、星の寿命を超えることもある。
彼らが夜に見上げた空と、今夜の空は違う空かもしれない。
それでも、光の法則は変わらない。
彼らが残した方程式は、今もこの夜空の中に成立している。
タラス船長も、こういう夜に空を見たことがあったのだろう。
滅びが決まった後で、それでも空を見上げることがあったとすれば、何を考えていたか。
「よい人生を」と書いた時、彼の頭上にも星があったかもしれない。
そういうことを考えた。
「洋子さん」
私は彼女の名前を呼んだ。
「はい」
「俺は──」
何かを言おうとした。
言えなかった。
正確には、言うべき言葉が分からなかった。
10年分の言葉は、一晩では言葉にならなかった。
言葉の外にあるものは、言葉にしようとした瞬間に変形する。
それが分かっていたから、変形させたくなかった。
——本当は、意図しないものに変形するのが怖いのだ。
記録者として、変形したものは記録に値しない——そういうことにした。
そして、変形する前のものは、言葉にできなかった。
洋子は何も言わずに星を見ていた。
私も黙っていた。
バーテンダーをしていた頃、カウンターで沈黙を経験した。
客が飲んで黙っている。その沈黙を破るかどうか、判断する仕事があった。
破る必要のない沈黙には、手を出さなかった。
夜の風が来た。
洋子の髪が動いた。
それを私は見た。
見たことは事実として記録できる。
しばらく経ってから、洋子が言った。
「コーヒーを、淹れてもらえますか」
「ああ」
私は立ち上がった。
研究所の中に入り、コーヒーを淹れた。
ブラック、砂糖なし。それが洋子の好みだ。
コーヒーが落ちる間、小さな研究所のキッチンに一人でいた。
二脚のカップを並べた。
どちらも同じカップだった。
二日前、解読作業の夜に使った同じカップ。
屋上に戻ると、洋子は同じように星を見ていた。
コーヒーを手渡した。
「ありがとうございます」
二人で飲んだ。
天の川は薄い帯ではなく、立体的な霧のように見える。
ケフィリアンはこの星々を航行していた。
4億年前、彼らは宇宙を移動した。
私たちはまだ地球から出られていない。
軌道エレベータが完成すれば、その最初の一歩になる。
洋子が静かに言った。
「完成したら、チリのアタカマ砂漠へ行きましょう。あそこには世界最高の望遠鏡群がある。ケフィリアンの設計図を手がかりに、宇宙の構造を観測する拠点として、最適な場所だと思います」
「研究拠点として、か」
「それから」
洋子が少しいたずらっぽく笑った。
「以前、浩さんに話したことがあるんです。いつかニューヨークの公園で、キッチンカーのアイスを食べたいって。セントラルパークに、チョコチップが美味しい店があって。でも今は水没していて」
「そうなのか」
「だから、エレベータを完成させて、水を宇宙に戻して、もう一度あの公園でアイスを食べたいと思っていたんです。...でもそれより先に、アタカマの乾いた砂の上で、溶けかかったバニラアイスを食べるのも、悪くないと思いませんか」
「砂漠の研究所にキッチンカーを呼ぶのは骨が折れそうだが、不可能じゃないだろうな」
洋子が笑った。
「では、決まりですね」
私は頷いた。
その夜について、私は記録者として書ける範囲は書いた。
時刻: 11月27日 午前7時
場所: 同上
翌朝、私は窓の外を見ていた。
朝日が海面から来ていた。
太平洋の朝日は、光の量が多い。
それは空が広いからだと思う。
東の水平線から全方位に届く光が、何もさえぎるものなく来る。
目が痛かった。
昨夜の屋上から、今朝の窓際まで、時間が続いていた。
洋子がコーヒーを持ってきた。二つ。
「昨日のお返しです」
「ありがとう」
受け取った。同じものを手渡す。
それだけのことが、昨夜と今朝とで違う密度を持っていた。
二人で飲んだ。
海が光っていた。
光の反射の角度が、時間ごとに変わっていく。
それを見ていた。
「浩さんとマリアさんに、連絡しましょうか」
「そうだな」
「何か報告することがありますか」
私は少し考えてから言った。
「ある」
「私にも、あります」
「そうか」
洋子が頷いた。
洋子がオンライン会議の準備を始めた。
私は窓の外を見ていた。
研究所の向こうに、今日も人工島が見えた。
建設は続いている。
昨夜も、今朝も関係なく、ケーブルは伸び続けている。
5ヶ月後の完成を目指して、止まらない。
その事実を、今の自分と重ねるつもりはなかった。
ただ、同じ時間の中にあると思った。
世界はここで止まっていない。
自分たちも止まっていない。それは確かだった。
朝食を二人で食べた。
研究所に備え付けの簡素な食料だった。
会話は少なかった。しかし沈黙も少なかった。
ケーブル延伸の状況を確認した。
昨日から今朝にかけての記録が更新されていた。
380キロメートル超の延伸が続いている。
5ヶ月後の完成に向けて、数字は動いている。
この無人島で私たちが何をしていた夜も、建設は止まらなかった。
それは確認できた。
それだけ書く。
時刻: 午前10時
場所: 同上
オンライン会議が始まった。
浩とマリアが参加していた。
ニューヨークのマリアのアパートからだ。
二人とも映っていた。
二人とも、穏やかな表情をしていた。
それは技術会議の顔ではなかった。
私は画面に映る二人の表情を見た瞬間に、何かを確認した。
「おはよう、先輩、洋子さん」
浩が言った。
ニューヨークの朝が画面の向こうにあった。
マリアのアパートの窓からの光が、二人の後ろに差していた。
浩の顔に、この2年で初めて見るような柔らかさがあった。
マリアも同じだった。
この2週間で、何かが変わったのは、太平洋側だけではなかった。
マリアが私と洋子を見た。何かに気づいたようだった。
マリアが小さく笑った。政治家の顔ではなく、友人の顔だった。
「あら...」
私は正直に答えた。
「...まあ、色々とあった」
浩の顔が変わった。
「先輩、あんた──」
「ああ」
四人で、互いを見た。
何がどうなったかについては、四人とも詳しく言わなかった。
言葉にするより、言葉にしない方が正確だということも、全員が理解していた。
「これからどうする。プロジェクトはあと5ヶ月だ」
浩が言った。
「完成させることが最優先だ。その間は全力で」
「完成したら...」
洋子がそこで止まった。
「一緒に考えましょう」
私が言った。それで終わりにした。
マリアは手にしていたグラスを止め、目を丸くした。
「...洋子。これは、私のスケジュール表にはない項目だわ。統計的にも、かなり低い確率だったはずだけど」
「そうですか?」
「少なくとも、私のモデルには入っていなかった」
マリアは政治家として、計算外の変数を発見した時の顔をしていた。
それは驚きでもあり、素早い再計算でもある顔だ。
浩は頷いた。
「先輩と洋子さんがチームを組むなら、データ解析の精度はさらに上がるはずだ。アトラスの最適化効率が、あと3パーセントは向上するだろう」
私は何も言わなかった。
浩がこういう言い方をする時、それが彼にとっての誠実さだということを、私は知っている。
委託でも依頼でもない。
ただ、新しい事実として受け入れている。
それが浩という人間だ。
洋子が少し笑った。
時刻: 11月30日 午後6時
場所: 太平洋上の人工島、展望デッキ
数日後、四人で展望デッキに集まった。
夕日が太平洋に沈んでいた。
水平線を境に、空の色と海の色が変わっていく。
その境界が少しずつ動いていた。
浩とマリアはジュネーブ経由でジュネーブから合流した。
四人が同じ場所に集まるのは久しぶりだった。
マリアがグラスを持ち上げた。
「乾杯」
グラスが合わさった音が、風に散った。
食事が始まると、すぐに仕事の話になった。
浩が食事の手を止め、業務連絡のように言った。
「洋子さん。データ解析の拠点がアタカマに移っても、月面基地の通信インフラの管理は続けてもらえますか。120,000キロメートルはあくまでスタート地点だ。火星、そしてその先への通信ハブとして、君のアルゴリズムが必要になる」
洋子は当然のように頷いた。
「もちろんです。砂漠の夜は長いですから、計算時間は十分にあります」
「それから、ケフィリアンの設計図の解析は、完成後も続く。むしろ本番はそこからだ」
「分かっています。あの図面の全貌が見えるまでは、止まれません」
マリアがグラスを置いた。
「私はジュネーブに戻って、このエレベーターを『特権』にさせないための新しい国際法を成立させなきゃならない。ザカリアの残党が言う『綻び』を、法と秩序で塞いでみせるわ」
「難しい仕事だ」と私は言った。
「そうね。でも、やらなければ誰かがやる。やる人間が決める方が、まだましだわ」
「ゆっくり休んでいる暇なんて、私たちにはないみたいね」
浩が静かに笑った。
「世界を加速させた責任は、取らなきゃいけない。それだけは確かだ」
四人の仕事が、少し先まで見えていた。
完成の5ヶ月後も、その先も、それぞれの場所でそれぞれの仕事が続く。
「一緒にいる」という言葉は、この四人の間では別の意味を持つ。
同じ場所にいることではない。
同じ方向を向いていることだ。
話は尽きなかった。
しばらくして、浩と洋子が実務の話を始めた。
浩がわずかに視線を動かし、水平線の上、高度3万キロ付近にあるはずの「ステーション3」の座標を指した。
言葉にする前、洋子はすでにタブレットを操作し、その高度における風圧と張力の動的平衡データを表示させている。
浩がその数値を一瞥するだけで、洋子は彼の次の疑問――「新素材の熱膨張が量子計算に与える誤差」――を先回りして、補正プログラムのシミュレーションを開始した。
視線すら交わさない。
ただ、同じ「120,000キロメートル」という名の巨大な構造体を脳内に共有し、二つの演算装置が並列処理を行っているかのようだった。
「...アタカマでも、同じでしょうね」
洋子が、モニターを見つめたまま呟いた。
「砂漠の乾燥した空気は、量子メモリーには最適です。でも、私の体には水分が足りない。だから、ニューヨークのアイスクリーム屋が必要になる。...浩さん、あのキッチンカーをチリまで運ぶコストを、もう計算しましたか?」
「無理な数字ではないな」
浩が、微かに、しかし確信を持って口角を上げた。
「輸送機の手配よりも、そのアイスが砂漠の熱で溶けきる前に、君の口に届けるための『熱遮蔽』を再設計する方が、エンジニアとしては面白い」
二人の間で何かが成立するまでの速度が、他の誰とも違う。
その様子を、私とマリアは同じ角度から見ていた。
「祝福なんて、あの2人にはノイズでしかないわね」
「ええ。彼らにとっての『成功』は、まだ数万キロメートル先にあります。ここで足を止めて情緒に浸る習慣は、彼らのアルゴリズムには組み込まれていないのでしょう」
マリアは小さく溜息をついた。
それは諦めではなく、これから自分が背負う政治という名の「泥仕事」への覚悟に見えた。
「ザカリアが残した『綻び』。彼はそれを呪いとして放ったけれど、私はそれを政治的な『変数』として利用させてもらうわ。彼らが月の向こうへ行こうとするなら、私は地上に残された人たちが、その影で互いを食らい合わないための、新しい支配体系を構築する。...あなたの記録には、私のこの非情な計算も残るの?」
「私はただの観測者です」
私はカメラのレンズキャップを閉めた。
「観測という行為は、対象の状態を確定させます。マリアさん、あなたが『非情』であろうとすることで、人類の生存という解が固定されるなら、私はそれを事実として記すだけです」
「...冷たいわね。でも、だからこそ今の私たちには、あなたの視線が必要ね」
夕日が沈んだ。水平線が暗くなった。
代わりに星が出始めた。
「星ですね」
洋子が言った。
「ああ」
「2日前の屋上と同じですね」
「同じじゃない」と私は言った。
「何が違いますか」
「人数が違う」
マリアが笑った。浩も笑った。
洋子は少し考えてから笑った。
四人で水平線を見た。
それだけで十分だった。
記録としては、それだけを書く。




