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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第9章-ブレイクスルー
50/51

第9-3話 星空の下で

時刻: 11月26日 午後8時

場所: 無人島の研究所、屋上

ジュネーブ会談から2日が経っていた。

私は洋子と二人で、研究所の屋上にいた。

量子メモリーの最終解析の確認という名目で戻ってきたが、作業は午後のうちに片付いていた。

残ったのは時間と、屋上に出る理由だけだった。

簡素なテーブルと椅子が二脚。

屋上の縁には何もなく、太平洋の夜が全方位から来ていた。

光源は少ない。

人工島の明かりが水平線のあたりで低く光っている。

それだけだ。

この無人島に研究所を作ったのは、電磁ノイズを遠ざけるためだと聞いている。

量子コンピュータの計算精度に、周囲の電磁環境が影響するからだ。

その副産物として、星がよく見える。

科学的な理由で人を遠ざけた場所が、星空を守っていた。

見上げると、星が多かった。

光害のない場所にいることが久しぶりだと気づいた。

東京にいた頃は、星が少なかった。

バーテンダーをしていた時代、店を閉めた後に路地に出ても、空には星がなかった。

街の明かりが星を消していた。

プロジェクトに参加してからは、そもそも空を見る時間がなかった。

夜はじめて、時間があった。

音も風もなく、波も穏やかな太平洋がそこにあった。

「綺麗ですね」

洋子が言った。

「ああ。こんなに星が見えるのは久しぶりだ」

「私、星空が好きなんです。子供の頃から。オリオン座を見つけると、なぜか安心する。位置が変わらないから」

「知っているよ。君が天文学者になったのも、星への憧れからだって」

洋子が少し振り向いた。「覚えていてくださったんですか」

「ああ」

私はそれだけ言った。それだけにした。

二人はしばらく黙っていた。

その沈黙が何種類あるか分類するとすれば、今夜のそれは気まずい側には入らない。


時刻: 午後9時

場所: 同上

夜が深くなった。

星の密度が増した気がした。

目が慣れたのかもしれない。

「洋子さん」と私は言った。

「10年前のこと、覚えてる?」

「もちろんです。あの研究会。観測データの解析」

「あの頃の君は、まだ学生だった。でも、データを見る目が違った。先を読む精度が、私より鋭かった」

「生意気でしたよね、あの頃」

「いや、真っ直ぐだった」

私は星を見たまま言った。

「科学に対して誠実だった。そういう人間は、研究の世界でも、外の世界でも、稀だ」

洋子は何も言わなかった。

しばらく間があってから、私を見た。

「あなたは...昔から、そういう言い方をしますね。直接言わないで、遠回しに」

「そうか」

「そうです」

「そういう言い方しか知らない」

「知っています」

それ以上は言わなかった。言わなくて良かった。

研究不正スキャンダルが起きた時のことを、私は記録から省いていた。

学界を追われた時のことも。

バーテンダーになって、科学から距離を置いた5年間も。

書く必要があれば書くが、書く必要が生じたことがなかった。

そういう話は、今夜も含めて、誰かに話すたびに少しずつ形が変わる。

正確に保存する方法がない。

あの5年間、私はデータを見続けた。

バーのカウンターの向こうで。

何かをしようとしていたのではない。ただ、そういう習慣だけが残っていた。

「でも...あなたは科学を諦めていなかった。私が連絡した時、すぐに来てくれた」

「ああ、そうだ」

「それだけで十分です」

洋子が言った。声が静かだった。

風の音とほぼ同じ強さの声だった。

「量子場理論の論文を書いていた頃のザカリアを、私は思い出します」

洋子がふいに言った。

「同じ世界にいた人間が、あそこまで違う方向に行ってしまった。私たちは、なぜ違ったんでしょう」

私は夜空の闇を見つめた。

「量子力学の重ね合わせのようなものかもしれない、と思う」

「...重ね合わせ?」

「ザカリアも私たちも、最初は同じ確率の雲の中にいた。どちらにも進める可能性があった。でも、ある瞬間の観測——つまり選択によって、波形が崩壊し、一つの現実に収束した。」

「...そう説明すれば、分かったような気になれる。実際には、その『観測』のきっかけが何だったのかは、誰にも分からないが」

「...私たちの波形を、誰かが観測して固定したということですか」

「かもしれない。あるいは、この塔そのものが、私たちを観測し続けているのかもしれない」

洋子は少し沈黙してから言った。

「私にとっては、あなたでした」

私は何も言わなかった。

ザカリアがジュネーブで言っていた言葉を、私はまだ覚えていた。

「影の中から監視し続けてやる」。

彼の波形は、別の方向に収束した。今夜も、どこかで一人でいるはずだ。

その孤独がどういうものか、私には想像できる部分がある。

バーテンダーをしていた5年間、私も止まっていた。

同じように見えて、方向が違った。

ザカリアは憎しみの方向に、私はただ止まる方向に。

止まっていた人間が、連絡一本で動いた。

その事実を、ザカリアは知っている。

彼が「影から監視する」と言った時の目を、私は記録に残していた。


時刻: 午後10時

場所: 同上

二人で星を見ていた。

ケフィリアンの解読が完成したこと。

ザカリアが去ったこと。

プロジェクトがあと5ヶ月で完成すること。

報告すべきことは全て報告した。

今夜は、報告する必要がないことだけが残っていた。

ケフィリアンが見上げた星の中に、この太平洋の上空に今輝いているものが含まれているかどうか。

4億年という時間は、星の寿命を超えることもある。

彼らが夜に見上げた空と、今夜の空は違う空かもしれない。

それでも、光の法則は変わらない。

彼らが残した方程式は、今もこの夜空の中に成立している。

タラス船長も、こういう夜に空を見たことがあったのだろう。

滅びが決まった後で、それでも空を見上げることがあったとすれば、何を考えていたか。

「よい人生を」と書いた時、彼の頭上にも星があったかもしれない。

そういうことを考えた。

「洋子さん」

私は彼女の名前を呼んだ。

「はい」

「俺は──」

何かを言おうとした。

言えなかった。

正確には、言うべき言葉が分からなかった。

10年分の言葉は、一晩では言葉にならなかった。

言葉の外にあるものは、言葉にしようとした瞬間に変形する。

それが分かっていたから、変形させたくなかった。

——本当は、意図しないものに変形するのが怖いのだ。

記録者として、変形したものは記録に値しない——そういうことにした。

そして、変形する前のものは、言葉にできなかった。

洋子は何も言わずに星を見ていた。

私も黙っていた。

バーテンダーをしていた頃、カウンターで沈黙を経験した。

客が飲んで黙っている。その沈黙を破るかどうか、判断する仕事があった。

破る必要のない沈黙には、手を出さなかった。

夜の風が来た。

洋子の髪が動いた。

それを私は見た。

見たことは事実として記録できる。

しばらく経ってから、洋子が言った。

「コーヒーを、淹れてもらえますか」

「ああ」

私は立ち上がった。

研究所の中に入り、コーヒーを淹れた。

ブラック、砂糖なし。それが洋子の好みだ。

コーヒーが落ちる間、小さな研究所のキッチンに一人でいた。

二脚のカップを並べた。

どちらも同じカップだった。

二日前、解読作業の夜に使った同じカップ。

屋上に戻ると、洋子は同じように星を見ていた。

コーヒーを手渡した。

「ありがとうございます」

二人で飲んだ。

天の川は薄い帯ではなく、立体的な霧のように見える。

ケフィリアンはこの星々を航行していた。

4億年前、彼らは宇宙を移動した。

私たちはまだ地球から出られていない。

軌道エレベータが完成すれば、その最初の一歩になる。

洋子が静かに言った。

「完成したら、チリのアタカマ砂漠へ行きましょう。あそこには世界最高の望遠鏡群がある。ケフィリアンの設計図を手がかりに、宇宙の構造を観測する拠点として、最適な場所だと思います」

「研究拠点として、か」

「それから」

洋子が少しいたずらっぽく笑った。

「以前、浩さんに話したことがあるんです。いつかニューヨークの公園で、キッチンカーのアイスを食べたいって。セントラルパークに、チョコチップが美味しい店があって。でも今は水没していて」

「そうなのか」

「だから、エレベータを完成させて、水を宇宙に戻して、もう一度あの公園でアイスを食べたいと思っていたんです。...でもそれより先に、アタカマの乾いた砂の上で、溶けかかったバニラアイスを食べるのも、悪くないと思いませんか」

「砂漠の研究所にキッチンカーを呼ぶのは骨が折れそうだが、不可能じゃないだろうな」

洋子が笑った。

「では、決まりですね」

私は頷いた。

その夜について、私は記録者として書ける範囲は書いた。


時刻: 11月27日 午前7時

場所: 同上

翌朝、私は窓の外を見ていた。

朝日が海面から来ていた。

太平洋の朝日は、光の量が多い。

それは空が広いからだと思う。

東の水平線から全方位に届く光が、何もさえぎるものなく来る。

目が痛かった。

昨夜の屋上から、今朝の窓際まで、時間が続いていた。

洋子がコーヒーを持ってきた。二つ。

「昨日のお返しです」

「ありがとう」

受け取った。同じものを手渡す。

それだけのことが、昨夜と今朝とで違う密度を持っていた。

二人で飲んだ。

海が光っていた。

光の反射の角度が、時間ごとに変わっていく。

それを見ていた。

「浩さんとマリアさんに、連絡しましょうか」

「そうだな」

「何か報告することがありますか」

私は少し考えてから言った。

「ある」

「私にも、あります」

「そうか」

洋子が頷いた。

洋子がオンライン会議の準備を始めた。

私は窓の外を見ていた。

研究所の向こうに、今日も人工島が見えた。

建設は続いている。

昨夜も、今朝も関係なく、ケーブルは伸び続けている。

5ヶ月後の完成を目指して、止まらない。

その事実を、今の自分と重ねるつもりはなかった。

ただ、同じ時間の中にあると思った。

世界はここで止まっていない。

自分たちも止まっていない。それは確かだった。

朝食を二人で食べた。

研究所に備え付けの簡素な食料だった。

会話は少なかった。しかし沈黙も少なかった。

ケーブル延伸の状況を確認した。

昨日から今朝にかけての記録が更新されていた。

380キロメートル超の延伸が続いている。

5ヶ月後の完成に向けて、数字は動いている。

この無人島で私たちが何をしていた夜も、建設は止まらなかった。

それは確認できた。

それだけ書く。


時刻: 午前10時

場所: 同上

オンライン会議が始まった。

浩とマリアが参加していた。

ニューヨークのマリアのアパートからだ。

二人とも映っていた。

二人とも、穏やかな表情をしていた。

それは技術会議の顔ではなかった。

私は画面に映る二人の表情を見た瞬間に、何かを確認した。

「おはよう、先輩、洋子さん」

浩が言った。

ニューヨークの朝が画面の向こうにあった。

マリアのアパートの窓からの光が、二人の後ろに差していた。

浩の顔に、この2年で初めて見るような柔らかさがあった。

マリアも同じだった。

この2週間で、何かが変わったのは、太平洋側だけではなかった。

マリアが私と洋子を見た。何かに気づいたようだった。

マリアが小さく笑った。政治家の顔ではなく、友人の顔だった。

「あら...」

私は正直に答えた。

「...まあ、色々とあった」

浩の顔が変わった。

「先輩、あんた──」

「ああ」

四人で、互いを見た。

何がどうなったかについては、四人とも詳しく言わなかった。

言葉にするより、言葉にしない方が正確だということも、全員が理解していた。

「これからどうする。プロジェクトはあと5ヶ月だ」

浩が言った。

「完成させることが最優先だ。その間は全力で」

「完成したら...」

洋子がそこで止まった。

「一緒に考えましょう」

私が言った。それで終わりにした。

マリアは手にしていたグラスを止め、目を丸くした。

「...洋子。これは、私のスケジュール表にはない項目だわ。統計的にも、かなり低い確率だったはずだけど」

「そうですか?」

「少なくとも、私のモデルには入っていなかった」

マリアは政治家として、計算外の変数を発見した時の顔をしていた。

それは驚きでもあり、素早い再計算でもある顔だ。

浩は頷いた。

「先輩と洋子さんがチームを組むなら、データ解析の精度はさらに上がるはずだ。アトラスの最適化効率が、あと3パーセントは向上するだろう」

私は何も言わなかった。

浩がこういう言い方をする時、それが彼にとっての誠実さだということを、私は知っている。

委託でも依頼でもない。

ただ、新しい事実として受け入れている。

それが浩という人間だ。

洋子が少し笑った。


時刻: 11月30日 午後6時

場所: 太平洋上の人工島、展望デッキ

数日後、四人で展望デッキに集まった。

夕日が太平洋に沈んでいた。

水平線を境に、空の色と海の色が変わっていく。

その境界が少しずつ動いていた。

浩とマリアはジュネーブ経由でジュネーブから合流した。

四人が同じ場所に集まるのは久しぶりだった。

マリアがグラスを持ち上げた。

「乾杯」

グラスが合わさった音が、風に散った。

食事が始まると、すぐに仕事の話になった。

浩が食事の手を止め、業務連絡のように言った。

「洋子さん。データ解析の拠点がアタカマに移っても、月面基地の通信インフラの管理は続けてもらえますか。120,000キロメートルはあくまでスタート地点だ。火星、そしてその先への通信ハブとして、君のアルゴリズムが必要になる」

洋子は当然のように頷いた。

「もちろんです。砂漠の夜は長いですから、計算時間は十分にあります」

「それから、ケフィリアンの設計図の解析は、完成後も続く。むしろ本番はそこからだ」

「分かっています。あの図面の全貌が見えるまでは、止まれません」

マリアがグラスを置いた。

「私はジュネーブに戻って、このエレベーターを『特権』にさせないための新しい国際法を成立させなきゃならない。ザカリアの残党が言う『綻び』を、法と秩序で塞いでみせるわ」

「難しい仕事だ」と私は言った。

「そうね。でも、やらなければ誰かがやる。やる人間が決める方が、まだましだわ」

「ゆっくり休んでいる暇なんて、私たちにはないみたいね」

浩が静かに笑った。

「世界を加速させた責任は、取らなきゃいけない。それだけは確かだ」

四人の仕事が、少し先まで見えていた。

完成の5ヶ月後も、その先も、それぞれの場所でそれぞれの仕事が続く。

「一緒にいる」という言葉は、この四人の間では別の意味を持つ。

同じ場所にいることではない。

同じ方向を向いていることだ。

話は尽きなかった。

しばらくして、浩と洋子が実務の話を始めた。

浩がわずかに視線を動かし、水平線の上、高度3万キロ付近にあるはずの「ステーション3」の座標を指した。

言葉にする前、洋子はすでにタブレットを操作し、その高度における風圧と張力の動的平衡データを表示させている。

浩がその数値を一瞥するだけで、洋子は彼の次の疑問――「新素材の熱膨張が量子計算に与える誤差」――を先回りして、補正プログラムのシミュレーションを開始した。

視線すら交わさない。

ただ、同じ「120,000キロメートル」という名の巨大な構造体を脳内に共有し、二つの演算装置が並列処理を行っているかのようだった。

「...アタカマでも、同じでしょうね」

洋子が、モニターを見つめたまま呟いた。

「砂漠の乾燥した空気は、量子メモリーには最適です。でも、私の体には水分が足りない。だから、ニューヨークのアイスクリーム屋が必要になる。...浩さん、あのキッチンカーをチリまで運ぶコストを、もう計算しましたか?」

「無理な数字ではないな」

浩が、微かに、しかし確信を持って口角を上げた。

「輸送機の手配よりも、そのアイスが砂漠の熱で溶けきる前に、君の口に届けるための『熱遮蔽』を再設計する方が、エンジニアとしては面白い」

二人の間で何かが成立するまでの速度が、他の誰とも違う。

その様子を、私とマリアは同じ角度から見ていた。

「祝福なんて、あの2人にはノイズでしかないわね」

「ええ。彼らにとっての『成功』は、まだ数万キロメートル先にあります。ここで足を止めて情緒に浸る習慣は、彼らのアルゴリズムには組み込まれていないのでしょう」

マリアは小さく溜息をついた。

それは諦めではなく、これから自分が背負う政治という名の「泥仕事」への覚悟に見えた。

「ザカリアが残した『綻び』。彼はそれを呪いとして放ったけれど、私はそれを政治的な『変数』として利用させてもらうわ。彼らが月の向こうへ行こうとするなら、私は地上に残された人たちが、その影で互いを食らい合わないための、新しい支配体系を構築する。...あなたの記録には、私のこの非情な計算も残るの?」

「私はただの観測者です」

私はカメラのレンズキャップを閉めた。

「観測という行為は、対象の状態を確定させます。マリアさん、あなたが『非情』であろうとすることで、人類の生存という解が固定されるなら、私はそれを事実として記すだけです」

「...冷たいわね。でも、だからこそ今の私たちには、あなたの視線が必要ね」

夕日が沈んだ。水平線が暗くなった。

代わりに星が出始めた。

「星ですね」

洋子が言った。

「ああ」

「2日前の屋上と同じですね」

「同じじゃない」と私は言った。

「何が違いますか」

「人数が違う」

マリアが笑った。浩も笑った。

洋子は少し考えてから笑った。

四人で水平線を見た。

それだけで十分だった。

記録としては、それだけを書く。

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