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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第9章-ブレイクスルー
49/52

第9-2話 対話の力

時刻: 11月21日 午前10時

場所: 天啓の教団過激派本部、中東

ここから先は、私が直接見ていない。

後日、IGDE情報部が収集した傍受データと、ザカリアの側近だった人物の証言を元に再構成した記録だ。

私は記録者として、見たものと見ていないものを分けて書く義務がある。

これは見ていない。しかし起きたことだ。

だから書く。

タラス船長のメッセージが世界に公開されてから、1日が経っていた。

ザカリア・ベン=ユセフは、執務室で一人だった。

スクリーンには、あの幾何学的な構造図が映っていた。

黄金のレコードから展開された多次元の設計図。

ザカリアはその映像を止めなかった。

図面を、見ていた。

それはザカリアがこれまでの人生で追い求めてきた、大統一理論のさらに先にある物理的真理の断片すら含んでいると予感させるほどのものだった。

素粒子物理学者として15年を費やした方程式の向こう側に、これはある。

自分が一生かかっても届かなかったかもしれない領域が、軌道エレベータを作っている男女の手によって、今開かれようとしている。

「……なぜだ」

自分が率いてきた「神の剣」は、科学を人類の裁きに使うための組織だった。

しかし今、目の前のモニターでは、自分たちが切り捨てた領域から、未知の工学が芽吹いている。

そして、それを見た民衆が、恐怖ではなく「理解できない美しさ」に惹かれ、自分の元を去っていく。

「俺は……」

その問いを、ザカリアは誰にも聞かせなかった。部屋には一人だった。

ザカリアにとっての敗北は、思想の否定ではなかった。

「自分の科学が、彼らの科学に追い越された」という事実だった。

過激派の信者は5000万人にまで減っていた。

イブラヒム・アル=ファディルの「地球信仰」は2億人を超えている。

しかしザカリアが見ていたのは、その数字ではなかった。

スクリーンの図面だった。

カラビ・ヤウ多様体の固有振動を刻んだ素材設計。

高次元を圧縮した工学的構造。

それはザカリアが15年をかけて論文の中で追い続けてきた数式の、遥か先にあるものだった。

自分には触れる機会すら与えられなかった領域が、今この瞬間、世界に開かれようとしている。


時刻: 午後2時

場所: 太平洋上の小島(中立地帯)

これも再構成だ。

ザカリアは、かつて物理学者だった。

奨学金で渡欧し、ベルリン自由大学で素粒子物理学の博士号を取得した。

量子場理論の論文が国際誌に13本掲載されている。

その頃の彼を知る研究者は、口を揃えて「純粋な人間だった」と言う。

研究に対して誠実で、批判には真剣に向き合い、同僚の成果を素直に喜ぶことができた。

そういう人間が、ある時期から別の方向へ曲がっていった。

人間の変化は、外から見ると急激に見えることがある。

しかし実際には、長い年月の堆積の末に起きる。

最初の一歩が一番小さく、最も見えにくい。

洋子や浩と同じ世界にいた人間が、なぜそうなったのか。

最初に知った時、私は少し考えた。

答えは出なかった。

今も出ていない。

人間の分岐点というものは、外から見ると一点のように見えるが、当事者には緩やかな傾斜として続いているものだ。

どこから曲がり始めたか、本人にも分からないことがある。

かつてザカリアが書いた論文を、私は後から読んだ。

量子場の微細な揺らぎが、どのように巨視的な構造を形成するかを論じた内容だった。

才能のある論文だった。その才能が別の方向に使われた15年間を、私は言葉にできない。

氷雨が来た時、ザカリアはベルリンにいた。学会出席のためだ。

発表を終えて宿舎に戻ろうとした時、ニュースが入った。

ダマスカス郊外の洪水。

川沿いの地域が、一夜で水没した。妻と二人の子供は、逃げ遅れた。

記録の上では「氷雨関連死者数200万人超」の内訳に、3つの名前がある。

その数字が何を意味するかは、数字には書いていない。

副官が報告した。「今朝だけで、100万人が離脱しました」

「彼らの意志を尊重する。もう良い」

副官が去った後、執務室に沈黙が戻った。

ザカリアは画面の構造図を見ていた。

光の幾何学模様。

自分が持てなかった鍵によって開かれた、自分が辿り着けなかった扉。

タブレットを取り上げた。

「イブラヒムに……連絡を取れ。いや、堀川に直接だ」

副官は驚いて聞き返した。

「それは……どういう意味で」

「どういう意味にも取れる。向こうの判断に任せろ」

副官が部屋を出た後、ザカリアは再び画面を見た。

それが何を意味するか、ザカリアは最初から分かっていたはずだ。

敗北の宣言として受け取られるかもしれない。

それを承知で打った。

あるいは、別の意図があったのか。

いずれにせよ、ザカリアは動いた。


時刻: 11月22日 午前8時

場所: 太平洋上の人工島、会議室

イブラヒム・アル=ファディルから、午前8時に緊急の連絡が入った。

「ザカリアから、堀川博士に直接メッセージが来た。『話がしたい』──それだけだ」

「ザカリアが……直接の対話を求めてきた?」

浩の声に喜びはなかった。あるのは、警戒心だ。

「タラスのメッセージに感動した……なんて顔じゃないわね」

洋子がモニターの分析データを見ながら言った。

離脱者数の推移。

組織内の権力構造の変化。タ

ラスのメッセージ公開から現在までの、ザカリアの行動記録。

「彼は、焦っているのよ。自分たちが解けなかった最後の鍵を、私たちが手に入れたことに。科学者として、自分だけが宇宙の真理から置いていかれる恐怖に、耐えられなくなったのね」

「……誘い出されたのか、あるいは自ら確認しに来たのか」

浩が言った。

「どちらにせよ、お花畑の対話にはなりそうにない」

「それでも、行く意味はある」

洋子が続けた。

「ザカリアが直接来るということは、彼の中に何かが変わったということだ。変化した場所が、暴力の方向じゃないなら、それは入口になり得る」

「入口が罠かもしれないのに、入るのか」

「罠でないと確認してから入る扉は、もう誰かが先に通っている」

誰も反論しなかった。

私はその言葉を聞いて、最初に何を考えたか。

罠だ、と思った。

NDBで学んだことがある。

交渉の申し入れは、侵入の入口になることがある。

ザカリアはこれまで何度も、対話の姿勢を偽装して攻撃の機会を作ってきた。

しかし同時に、あのメッセージの翌日という時間軸が、計算された演技にしては早すぎるとも感じた。

「でも、これは無視できない。ザカリアを対話のテーブルに引き出せる機会は、もうないかもしれない」

「僕も、会談に参加したい。直接話すべきだ」

「浩、それは危険すぎる」

「分かっています。でも、だからこそ僕が行く」

私はその判断に反論すべきかどうか、一瞬考えた。

正しいかどうかは、まだ分からない。

「私も行きます。浩さん一人では行かせられません」

洋子が言った。マリアは二人を見た。

何かを確認するような間があった。

それから言った。

「分かったわ。でも、セキュリティは最大限に」

浩が私を見た。

「先輩、一緒に来てもらえますか」

「もちろん」と私は言った。

中立地帯としてスイスのジュネーブが選ばれた。

2日後、国連の仲介のもとで会談が設定された。

私はその2日間で現地の軍や警察に協力し、セキュリティ配置を整えた。

元NDBの人脈を使い、建物内外の情報を把握した。

かつての同僚に連絡を取り、現地の警備体制の信頼性を評価した。

人を守る仕事は、最悪の場合を先に想定するところから始まる。

想定した最悪が起きなかった時、それを運と呼ぶのか準備の成果と呼ぶのかは、どちらでも構わない。

起きなかった、それが一番いい。


時刻: 11月24日 午後2時

場所: ジュネーブ、国連欧州本部

私たちは24日の朝にジュネーブ入りした。

空港を出ると、湖から冷気が来た。

レマン湖の水面が鈍く光っていた。

この街で過去に何度か仕事をしたことがある。

NDBの時代だ。

その頃の記憶と今の目的が、同じ街に重なっていた。

移動中から現地の情報を更新し続けた。

会議室の位置、非常口、警備員の配置ポイント。

ザカリアの護衛の数と武装。

可能性は潰せるだけ潰しておく。

それが習慣だ。

国連欧州本部の廊下は、冬の光が横から差していた。

石造りの壁が冷えていた。

高い天井と重い扉が、外の世界と切り離す。

そういう場所で人は腹を割って話すことがある。

あるいは仮面を被り続けることもある。

イブラヒムは既に到着していた。

「堀川博士、桜井博士。お会いできて光栄です」

「イブラヒムさんの勇気に感謝します」

短い言葉だった。しかしイブラヒムの顔には疲労があった。

この2年間で彼が引き受けてきた重さを、私は改めて見た気がした。

そして午後2時、ザカリアが到着した。

武装した護衛4名に囲まれていた。

私はその動きを目で追った。

護衛の視線は外に向いていた。

外部からの攻撃を警戒している。

つまり、この会談を潰しにくる別の勢力を恐れている。

私の最初の判断は、ここで更新された。

会議室に入ると、ザカリアは浩と洋子を見た。

長い沈黙があった。敵意ではなかった。検分するような目だった。

昆虫を顕微鏡で見る時のような、対象への感情を排した視線だった。

「堀川浩……桜井洋子」

ザカリアが言った。

「随分と遠くまで来たものだな。お前たちは」

浩はその視線を受け止めた。

「あなたも来た」

「ああ。見届けるためにな」

イブラヒムが口を開こうとした。

ザカリアが手で制した。

「地球信仰の説法はいい。俺が話したいのは、この二人だ」

「気づくのに、遅すぎることはありません。今からでも、変われます」

洋子が言った。

ザカリアは洋子を見た。

「優しいな。俺が、君を殺そうとしたのに」

「許しは難しいです。でも、理解はできます。あなたも、家族を失った。痛みを知っている」

ザカリアの顔が、わずかに変わった。しかし感情ではなかった。

計算し直すような、数式の前提を確認するような変化だった。


時刻: 午後4時

場所: 同上

会話は2時間続いた。

最初から、それは「対話」の形をしていなかった。

ザカリアは答えるが、問いかけない。

自分の言葉を置くが、相手の言葉を受け取らない。

私はその間、部屋の端に座って記録を取り続けた。

会議の記録と、セキュリティの観察を、同時につけていた。

「家族を失った。あの『氷雨』でな。妻と、二人の子供だ」

ザカリアの口調には、湿り気も震えも一切なかった。

まるで他人の実験データの不備を指摘するかのような、冷ややかな無機質さだった。

私はNDB時代、極限状態に置かれた人間を多く見てきた。

泣きながら証言する者、石のように黙り込む者、笑いながら話す者。

感情の表れ方は様々だが、どれも感情がそこにあることを示している。

ここまで徹底して「自分自身」を突き放して語る男は稀だった。

感情を切り離しているのではない。

感情を別の枠組みに組み込んでしまっている。

数式の変数にしてしまっている。それが恐ろしかった。

「……それを、憎んでいるのか」

浩の指先が、テーブルの縁を強く押していた。

浩の問いに、ザカリアは短く、鼻で笑った。

「憎む? 誰をだ。重力をか? 熱力学第二法則をか? ……愚かな。あれは悲劇ではない。この歪んだ世界が、新しい秩序へ移行する際に生じる不可避な『摩擦』だ。私が信奉する真理が、私の覚悟を試すために用意した、ただの物理的なプロセスに過ぎん」

「失うことで、俺の視界は浄化された。矮小な愛着を捨て、宇宙の残酷なまでの美しさを受け入れる準備ができたのだ。お前たちの『よい人生を』という言葉は、その試練から目を背けているに過ぎない。甘い麻酔だ」

管制室の温度が数度下がったような錯覚を覚えた。

浩は何も言い返さなかった。言い返せなかったのではない。

ザカリアが立っている場所が、もはや言葉の届かない、絶対的な断絶の向こう側であることを理解したのだ。

洋子が浩の隣で、静かに息を吐いた。

吐いたはずの息は、思ったよりも長かった。

それだけだった。洋子は言葉を選んでいたのだと思う。

しかし洋子が選べる言葉は、ザカリアの世界には届かない。

届かないことを、洋子は分かっていた。

しばらく沈黙が続いた。

浩が言った。

「それでも、あなたはここに来た」

ザカリアは浩の目を見て、冷笑を浮かべた。

「勘違いするな。お前たちの平和ごっこに屈したわけではない。私はただ、お前たちが手にしたものが、その身に余る代物であることを確認しに来ただけだ」

「……それでも」

「ああ。どこまで進めるのか、精々この目で見届けてやる。4億年前の遺物にしがみつき、月まで梯子を伸ばそうとする者たちの末路をな。退屈させるなよ」

洋子が言った。

「あなたが見ているのは、私たちの失敗を待つことだけですか」

洋子の言葉を聞いた後、ザカリアの指が無意識に空中で数式をなぞった。

ほんの数秒、静寂が空間を支配した。

「失敗は、必ず来る。お前たちが扱おうとしているものが、どれほど危険か。俺には分かる」

「分かっているから、来たんでしょう」

ザカリアは少し黙った。

その間、彼の視線は洋子の言葉を避けるように、わずかに斜め下を向いていた。

それが図星だったのか、あるいは計算のための沈黙だったのか。

私には判断できなかった。

イブラヒムが口を開こうとした。

しかしザカリアはすでに立ち上がっていた。

イブラヒムは、祈るような手つきでザカリアに手を伸ばそうとした。

だが、ザカリアはその手を、汚物でも見るかのような冷淡な目で見据えた。

「触れるな。……数式を捨てて祈りを選んだお前の手は、今の私には熱雑音でしかない」

イブラヒムは凍りついたように動きを止めた。


時刻: 午後6時

場所: 同上

「俺が死ぬことで罪を購うなど、安い感傷だ」

ザカリアは背を向けた。

「『神の剣』に残るか、お前たちの幻想に縋るか……それは信者たちに決めさせる。あんな連中を引き受けたければ、勝手にしろ」

「タラスの言葉だと? 笑わせるな。私が見ているのは、その裏にある方程式だ。お前たちは、偶然にもその扉の鍵を見つけたに過ぎない。その重みに耐えられず、自壊するのを待ってやる」

彼は扉に向かいながら、一度だけ振り返った。

「覚えておけ。お前たちが作る新しい世界に綻びが見えた時、私の教義は再び力を持つ。それまでは、影の中から監視し続けてやる」

「ザカリア」

浩が呼んだ。

ザカリアは足を止めた。

しかし振り向かなかった。

「あなたは、まだ物理学者だ」

長い沈黙があった。

ザカリアが扉を出る直前、ほんの一瞬だけ、足を止めた。

それは振り返るには足りない時間だったが、完全な無関心とも違っていた。

その一瞬に、私は“未完の問い”のようなものを感じた。

だが、ザカリアは最後まで振り向かなかった。

用意された車両に乗り込み、消えた。

浩はその背中を見送った。

何も言わなかった。

しばらく、扉の閉じた先を見ていた。

会議室に残った人間は、すぐに言葉を発することができなかった。

イブラヒムは目を閉じて、何かを考えていた。

洋子はテーブルの木目を見ていた。

私はペンを持ったまま、何も書けなかった。

ザカリアが残していったものの重さを、全員が感じていた。

脅しではなかった。約束だった。

彼はそれを実行する。それだけの意志がある。

ザカリアは消えていない。

彼はただ、次の「綻び」を待つために、暗闇へと戻っていっただけだ。

その「綻び」を作らないことが、私たちの仕事になった。

その夜、ザカリアが組織の指揮を信者たちの自由意思に委ねるという声明が世界に流れた。

天啓の教団過激派は、指導者を失い、事実上の自壊過程に入った。

「完全終結」と報道したメディアもあった。

しかし私は、その言葉を自分の記録には使わなかった。

終結という言葉は、あまりにも都合がよすぎる。

終わっていない。

ジュネーブからの帰路、浩は何も言わなかった。

私も言わなかった。

沈黙の質が違った。今日の沈黙に安堵はなかった。

疲労と、何か重いものを抱えた人間の沈黙だった。

浩は窓の外を見ていた。アルプスの稜線が夜に溶けていた。

ザカリアが「影の中から監視し続ける」と言った時の声を、私はまだ覚えている。

脅しではなかった。

宣言だった。

彼はそれを実行する。

それだけの意志がある。

記録者として私は、言葉にならないものは書かない。

ただ一つだけ付け加えておく。

ジュネーブを出る時、ザカリアがかつて研究していた量子場理論の権威が、テレビのインタビューでこう言った。

「あの男が過激化した時、私たちは止めるべきだった。研究者として、仲間として。それができなかったことを、私は今も後悔している」

その言葉には、記録に残す価値がある。

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