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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第8章-裏切りの代償
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第8-3話 構造計算の罠

時刻: 9月15日 午前2時

場所: 洋子の研究所、量子コンピュータ室

深夜の量子コンピュータ室に、人間は洋子一人だった。

正確には、一人と呼ぶべきかどうか分からない。

アトラスの処理音が低く唸り、12台の量子プロセッサが並列で稼働している。

それらは沈黙しているが、計算している。

あらゆる瞬間に、膨大なものが動いている。

それでも主観的には、洋子は一人だった。

佐藤が仕込んだ第二のプログラムの除去作業を始めて10日が経っていた。

洋子のチームは日中に稼働し、夜は洋子が一人で続ける。

チームが見落とすものを、洋子の目が拾う。そういう分業になっていた。

外では太平洋の闇が広がっていた。

島は今もマリアの承認書のもとでエアギャップ状態にある。

外部通信は遮断されている。

だから今夜この部屋は、物理的な意味でも世界から切り離されていた。

目が充血していた。画面の光が網膜に刺さる感覚があった。しかし止まらない。

プログラムの特定の領域を精査していた時、洋子の指が止まった。

「ここが...怪しい」

独り言だった。返事がある空間ではなかった。

コードの一部に、不自然な構造がある。

まるで意図的に隠されているかのように、通常の処理フローの奥深くに畳み込まれていた。

それ自体は無害に見える。タイムスタンプも正常だ。

しかし洋子の直感が、そこに引っかかった。

彼女の直感は大抵、直感ではなく高速の演繹だ。

数時間後、洋子の顔が青ざめた。

第二のプログラムは、単なるウイルスではなかった。タイムボムだった。

起動予定日:9月22日。あと7日。

「このプログラムは、論理を壊すためのものではない。ハードウェアそのものを焼くためのもの...」

洋子は独り言のように言った。

「特定のリズムでQビットに過剰なエネルギーを叩き込み続け、冷却系を飽和させる。量子プロセッサは絶対零度近くまで冷やされた超伝導状態を維持することで動いている。その均衡が崩れた瞬間に起きるのが『クエンチ』——超伝導状態の急激な喪失だ。液体ヘリウムが爆発的に気化し膨張して、この研究所ごと量子プロセッサを鉄屑に変える。...ソフトウェアによる物理的な自爆装置ね」

起動すれば、建設中のケーブルは設計上の裏付けなしに宇宙空間へ伸び続けることになる。

「浩さん!」

声に感情はなかった。緊急度だけがあった。


時刻: 午前2時30分

場所: 同上

30分後、浩が研究所に駆けつけた。マリアと私も同行した。

浩は走ってきたはずだったが、研究所のドアを開けた時点で呼吸は整っていた。

洋子のデータを受け取る準備が、移動の間に済んでいた。

洋子がコードを投影して状況を説明した。

クエンチ機構についての説明は、30秒で終わった。

そこから先は沈黙だった。

それで全員、何が起きているかを理解した。

「7日でできるのか?」

洋子は即答しなかった。それが答えだった。

「...このプログラムは極めて複雑です。佐藤一人では作れないレベルの設計です。外部の量子コンピュータ専門家が協力しています。ザカリアの残党の中に、当初私たちが見落としていた技術者がいる」

「必要な人員と権限は全部出します。何が要りますか」

マリアが訊いた。

洋子は少し目を閉じた。頭の中で何かを組み立てているのが、外から見ても分かった。

「低レイヤーのノイズ除去には、MITのチェン。暗号のバイパス処理には...NDBのブラックリストにも入っているはずの人物が必要です。コードネーム『アウル』。それと、ケフィリアン・アーキテクチャの比較研究なら、ハイデルベルクのシュミット。この三人と、彼らが連れてくるチームを呼んで」

マリアが僅かに眉を動かした。「アウルは現在、複数国の当局が監視下に置いていますが」

「マリア、余計な話は不要です」

洋子の声は静かだが、揺らがなかった。

「あなたの権限で、今夜中に彼らをここへ連れてきて。その三人の知性がなければ、私は観客で終わります」

一秒の間があった。

「分かりました」

マリアは即座に答えた。

即座すぎて、返答が速いことすら意識されない速さだった。

浩が洋子の横に立った。

「一人で背負うな。僕も手伝う」

「あなたには別の仕事があります。代替計画の準備です。もし私が失敗したら、建設再開後の計算を最短で再構築できる準備が要ります。並行して走らせなければ」

「失敗しない。君なら、必ずできる」

浩がきっぱりと言った。断言の根拠は示されなかった。

しかし洋子は反論しなかった。

二人の間に、言葉の外の何かがあった。

私はそれを記録しようとして、止めた。

書く言葉を持っていないものを、書こうとするのは誠実ではない。


時刻: 9月17日 午前10時

場所: 同上

チェン、アウル、シュミット、そして彼らが連れてきた七名。計十名が研究所に集結した。

洋子がブリーフィングを行った。

30分で終わった。

質疑は5分だった。

残りの時間は全員が作業に入った。

洋子のチームの特徴は、説明が短いことだ。

共有すべき情報を過不足なく渡した後、各自が自律的に動く。

「...これは、5年前に提唱された『多世界解釈に基づく不干渉コード』の、初めての動的な実装です」

洋子が静かに言った。

「教科書の中でしか存在し得ないと思っていた構造が、今、目の前でシステムを食い破ろうとしている。理論上の解除方法はあります。ですが、それはシミュレーション上でも、成功率が100パーセントにはなりませんでした」

「何パーセントだったかな」シュミットが訊いた。

「ケースによります。良くて87。悪ければ40を切ります」

誰も何も言わなかった。それが返答だった。

作業が始まった。洋子の睡眠時間は、1日2時間以下に削られた。

厳密に言えば、眠ったのか気を失ったのかが判別できない時間が発生していたと、後から本人が語った。

私は時々研究所を訪れた。コーヒーと食料を置いた。

「少し休んでください」

「大丈夫です。あと少しです。核を見つければ、終わります」

洋子は画面を見続けていた。

「あと少し」という言葉は、その後12時間、同じように繰り返された。

記録者として私が観察したことを書く。

人間が限界に達した時、その人間の本質的な傾向が強調される。

論理的な人間はさらに論理的になる。

洋子の場合、48時間を超えたあたりから、会話が最小単位まで圧縮されていった。

問いに対する答えが、必要な情報だけになった。

冗長性がすべて削ぎ落とされた言語。

それが、限界状態の洋子の姿だった。

チームの面々も似た状態にあった。シュミットは誰とも話さなくなった。

チェンは一時間おきに眼鏡を拭く癖が出ていた。

NDB時代に学んだ集団行動の読み方だが、繰り返される小さな動作は極度の緊張を示す。

この研究所の全員が、それぞれのやり方で限界に近づいていた。

チームの一人が私に言った。「先生は化け物です。私たちは交代で休んでいる。先生だけが止まらない」

敬意と恐怖が混在した表現だった。それが不適切とは思わなかった。

洋子が今やっていることは、通常の専門家が限界とする領域の外側にある。

ある時、私が研究所に入ると、洋子が椅子の上で前傾みになっていた。

眠っているのか作業しているのか分からない姿勢だった。

毛布が手元にあった。私はそれを肩にかけた。それだけだった。

何を感じたかについては、ここでは書かない。


時刻: 9月19日 午後11時

場所: 同上

タイムボム起動まで、あと2日と1時間。

49時間の継続作業の末、洋子が核を発見した。

「見つけました」

歓声ではなかった。

報告だった。

しかし研究所にいた全員が動きを止めた。

わずか10行のコード。しかしそれがプログラム全体の要だった。

量子もつれによって連結されたすべての処理が、その10行を中心に放射状に展開していた。

幾何学的に美しいとすら言える設計だった。

私はその設計図を見ながら思った——佐藤、あるいは彼の協力者は、このプログラムを憎悪から作ったのではなく、知的な楽しみとともに設計したのかもしれない。

憎悪は疲弊するが、知的な楽しみは疲弊しない。以前の記録に書いた通り、佐藤は最後に笑ったように見えた。

その笑いの意味が、今夜少し分かった気がした。

「この核は量子状態で保護されています」洋子が説明した。

「観測すると状態が変化します。つまり、解除しようとすると、観測行為そのものがトリガーとなって自動的に起動してしまいます」

「発見されることを想定していた」浩が言った。

「そうです。見つけても解除できない。発見がそのままカウントダウンの加速になる」

「...量子もつれの特性を逆用できないか」

浩が言いかけた。しかしシュミットが、それより先に立ち上がった。

赤く充血した目で画面を睨みつけ、吐き捨てるように言った。

「無駄だ。地上のスパコンを何万台並列で繋ごうが、結果は変わらん」

「どういうことだ」浩が訊いた。

「洋子、お前は気づいているはずだ」

シュミットが続けた。

「このプログラムは計算速度を競っているんじゃない。

地上の全量子プロセッサは、佐藤自身も策定に参加していた『地球標準』の位相プロトコルに従っている。極端に言えば、佐藤が作った言語で、佐藤が仕掛けた罠を解こうとしているんだ。観測しようとした瞬間、観測波そのものがトリガーと同期して起爆する。...地上の全コンピュータは、佐藤にとって自分の手の内を見せ合っている鏡に過ぎない」

浩が静かに言った。

「つまり、私たちが手を尽くせば尽くすほど、犯人に次の手を教えているようなものだということか」

「そうだ」

シュミットが冷笑を浮かべた。

「皮肉だな。人類が科学を統一するために作り上げた『標準化』という偉業が、ここでは逃げ場のない檻になっている」

洋子の指が、空中で止まった。

「...だから、彼らのオリジナルのプロセッサが要るのね」

声は静かだった。しかし深い霧が晴れた時のような、確信の質があった。

「シュミットの言う通り、佐藤さんのプログラムは私たちの物理学が定義した『観測』を監視している。でも、L4点に浮いているケフィリアンの演算系は、動作の物理位相そのものが私たちの文明とは異質だわ。彼らは地球の標準規格の外にいる。当然、佐藤さんのプログラムが監視している『観測波の型』とも無関係に動作する。宇宙船のプロセッサを外部観測機として使えば、佐藤さんのプログラムが想定している観測の死角から、核の状態を固定できる。...犯人が知らない言語で、犯人が気づかないうちに、爆弾の針を止めるの」

研究所が静まった。

「リモートアクセスは試したことがありません。ケフィリアンの量子コンピュータは通信プロトコルが異なります。理論上は接続可能ですが、一度も成功していない試みです」

「やろう」

浩が立ち上がった。「時間がない。失敗した時の対処は、やりながら考える」


時刻: 9月20日 午前1時

場所: 同上

「最悪の場合、両方のシステムが破損します」

洋子が言った。「現時点での成功確率は、正直に言えば50パーセントを切っているかもしれません」

マリアが少し考えた後、頷いた。

「やりましょう。他に選択肢はありません」

口調は平静だった。

しかしこれは何を意味するか——50パーセント以下の確率で、全ての計算データが失われ、プロジェクトが終わる。

それを彼女は「他に選択肢はない」という一文で受け取った。

マリアが島に残っているのは、この種の決断を引き受けるためだった。

洋子がプログラムを書く。

浩が通信プロトコルを調整する。

ケフィリアンの量子コンピュータは、地球の規格とは根本的に異なるプロトコルで動作する。

ケフィリアンの記録を解析した際に蓄積された知見が、今夜初めて実用的な形で使われた。

翻訳者が必要だった。浩が、その翻訳者だった。

異なる言語体系を持つ二つのシステムを繋ぐ通信層を、浩はリアルタイムで書き換えていた。

二人の動きに「間」がなかった。浩が言いかけた言葉を洋子が引き継ぐ。

洋子が手を止めた瞬間、浩が別の方向から補完する。

会話のように見えるが、正確には違う。

一つの複雑な問題に対して、二つの処理系が並列で動いているようだった。

NDB時代、高度に訓練されたチームが緊迫した作業をする場面を何度か見た。

その時でも、リーダーとフォロワーの非対称性があった。

浩と洋子の間には、その非対称性がない。

「接続開始」

地球からL4点へ。

信号が光速で伝わる。

L4点から地球へ。

二つの量子コンピュータが量子もつれ状態で繋がった。

人類が初めて、ケフィリアンの技術基盤と能動的に連結した瞬間だった。

おそらく、この一夜を後の時代がどう評価するかは、今夜ここにいた誰にも分からない。


時刻: 午前2時

場所: 同上

量子もつれ状態での同時観測が始まった。

地球の量子コンピュータが核を観測する。

同時に、L4点のケフィリアン量子コンピュータも同じ核を観測する。

佐藤のプログラムが監視しているのは「地球標準の観測波」だ。

L4点から届く位相の異なる観測は、その監視網の外にある。

二点からの非対称な同時観測が、核の量子状態を固定する。

理論上は。

わずかでもタイミングがずれれば、タイムボムが起動する。

L4ラグランジュ点は地球から約150万キロメートル離れている。

光速で往復するだけで10秒かかる。

その10秒を、システムが吸収する。

シュミットが提唱した方程式が、その遅延を「同時性」として定義し直していた。

地球の物理学が作った尺度では、二点の観測は「ずれている」。

しかしケフィリアンの演算位相で解釈すれば、それは「同時」になる。

異なる時間の定義を使って、同時観測を実現する。

洋子がその数式を書き上げた時、シュミットは「理論上は正しい」とだけ言った。

「実装できるとは言っていない」も付け加えた。


1秒。2秒。3秒。


洋子と浩は息を止めて見守った。

研究所の全員が、それぞれの端末から手を離していた。

今は人間にできることがない。

人間が介入できる段階は、すでに終わっていた。

私はマリアの横に立っていた。彼女は腕を組み、画面を見ていた。

表情は動かない。しかしその指先が、握り締めた腕に深く食い込んでいるのが見えた。

10秒後。

画面上のカウントダウンを告げる赤色が、音もなく静かな緑色へと変わった。

歓声はなかった。

誰一人、声を出すだけの気力が残っていなかった。

シュミットは端末を握ったまま床に滑り落ち、チェンは天井を仰いで震える手で眼鏡を外した。

洋子は、椅子に座ったままだった。

しかしその上半身は、まるで糸が切れたように机に突っ伏していた。

眠っているのか、気を失ったのか。

私もまた、壁に背を預けて崩れ落ちた。

心臓の鼓動だけが、暴力的なまでの重さで耳の奥に響いていた。

勝利の宣言も、安堵の涙もない。

48時間に及ぶ極限の戦場は、勝利という名の「無音」の中に、静かに溶けて消えていった。

浩は、床に崩れた洋子の傍らに静かに膝をついた。

彼女を起こさないよう、触れることも、声をかけることもしなかった。

ただ、浩は寝入った洋子の肩に、自分のジャケットをそっとかけると、彼女と同じ高さまで視線を下げ、共に戦った証であるモニターの静かな光を、しばらくの間、黙って共有していた。

それが、今の彼にできる唯一の、そして最大限の敬意だった。

洋子は机に突っ伏したまま、かすかに頷いた。それだけだった。

その夜、洋子はソファで眠った。研究所から出る体力が残っていなかった。

私が毛布をかけた。それだけだ。

廊下に出ると、浩がいた。

壁に背をもたせて、天井を見ていた。

「洋子さんは?」

「眠っています。48時間、不眠不休でしたから」

「彼女がいなければ、僕たちは終わっていた」

浩が言った。断言だった。

しかし自慢でも感傷でもなかった。事実の確認だった。

二人は、しばらく廊下に立っていた。それ以上の言葉は、どちらも出なかった。

その沈黙の中に何があったかを、私は書かない。

しかし記録者として書き残しておく——あの廊下の沈黙は、空虚ではなかった。

私は震える手で記録用端末を開き、今夜の出来事の概要を打ち込んだ。

それはあまりにも冷たく、重い勝利だった。

だが、

科学の勝利。

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