表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第8章-裏切りの代償
43/48

第8-2話 疑心暗鬼

時刻: 9月9日 午前10時

場所: 太平洋上の人工島、中央管制室

佐藤の死から一夜明けた。

洋子のチームは既に第二のプログラムの解析に入っていた。

「完全除去には最低でも3週間かかります。佐藤が仕込んだコードは量子コンピュータのコアに深く入り込んでいる。単純に削除すればシステム全体が破損する。一層ずつ、慎重に剥がしていくしかない」

建設停止がさらに延長される。

マリアが七日間稼いでくれた時間は、もう半分以上消えていた。

昨夜から、私は一つのことを考え続けていた。

もっと低威力の弾薬を選択すべきだった。

あるいは、脚を狙うべきだった。

銃口が上がるまでの時間は、経験に照らせばおそらく0.3秒ほどあった。

あれだけあれば、致命傷を回避する射点は選べた。

私の反射速度が、尋問官としての冷静さを上回ってしまった。

佐藤を殺したことで、第二のプログラムの論理構造を尋問する機会を永遠に失った。

これは記録者としての、致命的な失点だ。

だが、と私は繰り返す。

佐藤が隠し持っていたのは、近距離での自衛用ではなく、高精度の消音器が装着された暗殺用の特殊拳銃だった。

あの銃の仕様は、捕縛された相手が使う武器ではない。

プロの始末屋が、特定の標的を排除するために選ぶ道具だ。

彼は、第二のプログラムが発見・除去される事態を想定していた。

ロジカルな破壊が潰えた時、彼は物理的な破壊——プロジェクトの心臓である浩や洋子、あるいは監視者である私の排除——に動いたはずだ。

あの銃を見た瞬間、彼を生かしておけば浩か洋子の命が確実に奪われると、私は直感的に判断した。

もし引き金を引かなければ、今頃彼は拘束椅子に座り、解除キーを吐いていたかもしれない。

——その代わり、浩か洋子がここに立っていなかった可能性もある。

あの判断が誤りだったとは言い切れない。

——いや、本当は分からない。

しかし、情報の入手源を自ら絶ったことと、釣り合うだろうか。

手の震えについては、すでに止まっている。

NDB時代の訓練教官が言っていた通り、それは恐怖ではなく、極限まで引き絞られた自律神経が通常状態に戻ろうとする際の生理現象だった。

問題は震えではない。

問題は、この天秤に、答えが出ないことだ。

午前の会議を終えて廊下を歩くと、すれ違う作業員たちが避けるように通り過ぎた。

NDB時代に培った習慣で、私は集団の変化を自動的に読んでいた。

集団が特定の個人を避ける時、それは均質な動きではない。

積極的に距離を置く者、単に気まずそうにする者、こちらをちらりと見て目を逸らす者。

それぞれが異なる計算をしている。

情報が行き渡った後の集団反応だ。

昨夜の出来事は、もう5,000人に届いていた。

「あいつが、佐藤を殺した」

廊下の向こうから、押し殺した声が届いた。

「本当に、佐藤がスパイだったのか。証拠は?」

疑心暗鬼が、プロジェクトの内部に広がっていた。

正確には──疑心暗鬼は、その日の朝から始まっていたのではない。

昨夜の銃声の瞬間に始まっていた。

ただ、それが言葉を持ち始めるのに、一夜かかっただけだ。

そして今、私の失点が、この疑心暗鬼に燃料を与えていた。


時刻: 午後2時

場所: 食堂

食堂は満席だった。私のテーブルだけが空いていた。

私は盆を持ったまま、しばらく食堂を観察した。席がないわけではない。

私の座っているテーブルを避けて、人が埋まっている。

壁際の席、奥のテーブル、入口近くの立ち食いカウンター。

私のテーブルだけが、均等な半径で空間を保たれていた。

仕方ない、と思った。人を殺した男と一緒に食事をしたくはないだろう。

胸の奥が冷えた。

その判断は合理的だ。私自身も同じ状況なら、そうするかもしれない。

食事を始めた。まずいとも美味いとも感じなかった。

食堂の中を観察した。

テーブルごとに、会話の密度が違う。普段より声が低い。

笑い声が少ない。

内輪で話し込んでいるグループが多い。

その閉じ方が、日常のそれと違う。

秘密の話をしているのではなく、何かを測っているような空気だ。

探偵事務所で身につけた習慣が、自動的に稼働する。

集団の異常値は、突出した行動ではなく平均値の変化として現れる。

今朝の食堂の平均値は、昨日と明確に変わっていた。

浩が食堂に入ってきた。食堂全体を一秒ほど見渡し、私を見つけた。

雰囲気には一瞬戸惑った様だが、その後は迷いが全くなかった。

「一緒に食べても良いか?」

「ああ」

浩が座ると、周りの視線が集中した。

プロジェクトの技術責任者が、件の男の隣に座った。

その行動の意味を、食堂にいた数百人が各自で計算し始めた。

浩はそれを分かった上で座っていた。

分かった上で、それを無視していた。

「辛いな」

浩が言った。

「みんな、疑心暗鬼になっている。誰が敵で誰が味方か、分からなくなっている。佐藤さんのような人間が内部にいたという事実が、信頼の基盤そのものを揺るがしている。これは合理的な反応だ。批判すべきことではない」

「佐藤を生け捕りにできなかった。それが問題だ」

私は言った。

「第二のプログラムの解除キーを尋問で引き出す機会を失った。洋子博士が三週間かけて解析しなければならない理由は、半分は私の失点だ」

浩は私の目を見た。それほど長い間ではなかった。しかし逸らさなかった。

「でも、君は生きている。それが今は重要だ」

その言葉に計算らしさはなかった。

浩は科学者だ。

データから結論を導く訓練を受けている。

だから彼の言葉には過剰な修飾がない。

問題の現状と、現時点での優先順位を整理した言い方だった。

それが浩の誠実さだと、私は思った。

私は何も答えなかった。

しばらく、二人で食べた。

会話はなかった。

食堂の雑音が遠かった。

誰かの笑い声が聞こえた。

どこかで食器が落ちた音がした。

それらが全部、正常な世界の音として届いた。

洋子も食堂に入ってきた。

入口で一瞬止まり、私たちのテーブルに向かった。

やはり迷いはなかった。

浩と同じ、逡巡のない動き方だった。

二人の動き方が似ているのは偶然ではないと、私は以前から気づいていた。

説明のつかない理由で、彼らの判断の基準点は似ている。

「気にしないでください。それより、昨夜の通信デバイスを解析しました。佐藤が使っていたトンネリング手法の詳細が分かりました。第二のプログラムの侵入経路も、絞り込めます」

周りの視線が、また集中した。

洋子は気にせず、手元のタブレットを私に向けた。

データが表示されていた。

礼を言う代わりに、私はそれを受け取った。

それで十分だと、三人とも分かっていた。


時刻: 午後6時

場所: 私のオフィス

匿名のメッセージが届いた。

件名は「真実を知るべきだ」。

私はまず技術的なメタデータを確認した。

送信者アドレスは使い捨てのプロキシ経由だった。

発信元の特定を意図的に困難にした設計で、プロジェクトの主要メンバー全員が同時受信している。

送信タイミングはランダム化されていた。

内容はこうだった。

「佐藤は無実だったのではないか。証拠は捏造された可能性がある。本当のスパイは別にいる。堀川浩と桜井洋子こそ、疑うべきだ。彼らは完璧すぎる。まるで一つの意識のように動く。それは不自然だ。彼らこそ、ケフィリアンの技術を使っているのではないか。意識のデジタル化を。彼らは、もはや人間ではないのかもしれない」

私は文章の構造を分析した。

NDBの分析訓練では、文体は指紋に準じると教わった。

主張の組み立て方、語彙の選択、論理の飛躍の型。

感情的な断定と疑問文の交互配置。

確証のない主張を「可能性がある」という留保で包む反復パターン。

これは内部告発者の文体ではなかった。

さらに、送信経路に使われた暗号資産の洗浄ルートを追った。

三年前、中東の通信インフラを麻痺させたサイバーテロ組織が使ったボットネットの痕跡と、構造が一致した。

一致率は87パーセント。

偶然の閾値を大きく超えている。

プロジェクト内の人間ではない。

佐藤との連絡が断たれた後、教団のネットワークが外部から動いた。

バックドアの失敗は予定通りの収束ではなかった。

次の一手が、この匿名メールだった。

翌朝の全体集会で、浩と洋子が壇上に立つと野次が飛んだ。

「証明しろ!」

「お前たちは人間か!?」

三千人が収容できるホールに五千人が詰めかけていた。

立ち見が出ていた。

浩は動揺していた。

洋子も表情を失っていた。

彼女は事実に対して揺るがない。

しかし事実ではなく感情が相手の時、彼女の武器は機能しない。

私は壇上に上がり、マイクを握った。

声量は上げなかった。

ただ、私に注がれる憎悪の視線を一つずつ、検品するように見返した。

騒ぎ立てる声が収まるのを待つのではない。

私の視線に耐えられなくなった者が目を逸らし、沈黙が伝染するのを待った。

ホールが静まった。

「このメールのヘッダを確認した者はいるか?」

誰も答えなかった。予想通りだ。

「いないだろうな。文面の3行目、『冒涜』という単語のスペルミス」

「これは三年前、中東の通信インフラを麻痺させたテロ組織のプロパガンダ用ボットの癖と一致している」

静けさが、一段深くなった。

「これは特定の個人が書いた手紙ではない。ザカリアの残党が、お前たちの恐怖を燃料にするためにばら撒いた、安価なスクリプトだ」

今度は怒声ではなく、低い声がいくつか上がった。

私はそれが落ち着くまで、また待った。

先を急がなかった。

一つを提示して、相手が吸収する時間を作る。

それが心理戦の捌き方だ。

「私は佐藤を殺した。コンピュータにウイルスを仕込んでこの塔の崩壊を目論み、浩と洋子を物理的に消しようと、暗殺用の銃を持ち込んで捕縛の瞬間にも抜いてきた人間を、だ」

また間を置いた。

「証拠が必要なら、護身用ではない彼の銃を見せてやろう。そして私の端末には彼の肉声がある。だが、それを聞くということは、お前たちが『敵の駒』として利用された事実を認めるということだ」

野次は止まっていた。

誰かがした咳が響いた。

代わりに、別の種類の沈黙があった。

それは怒りではなく、気恥ずかしさに近い沈黙だった。

「...浩の説明を聞け。誇り高い己に与えられた仕事をしろ。知性を誇る者たちが、古びたプログラムに踊らされている姿は、記録するに値しない」

集会の後、洋子が私に言った。

「...あなたは彼らを説得するのではなく、彼らの脳内で、『疑いを維持するコスト』を、支払えないほど高く設定したのですね」

礼ではなく、評価だった。

私は頷いた。

浩が目で何かを伝えた。

私は受け取った。

それだけにした。


時刻: 9月10日 午前10時

場所: オンライン会議室

マリアが緊急会議を招集した。

理事会メンバー8名、浩、洋子、私。

マリアは画面の正面に座っていた。

表情は動かさないが、目の周りに疲労の痕跡があった。

昨夜も各国政府への対応で動いたはずだ。

それを見せないようにしている。政治家の習慣だ。

「現状を報告してください」

浩が報告した。

「建設は停止中です。第二のプログラムの除去にあと2週間半かかります。プロジェクト内部には深刻な疑心暗鬼が広がっています。匿名の告発メールが昨夜全メンバーに送信され、昨日の集会では一時的な混乱が起きました。収束はしています。しかし根本的な信頼回復にはなっていません」

理事会メンバーの一人が言った。「このままではプロジェクトが崩壊する。停止期間の延長を正式に各国に説明すべきだ。技術的な詳細を公開して」

「技術的な詳細を公開すれば、残存するリスクの情報も出ます」

私が言った。

「教団の残党が判断材料を得ることになります。今回の告発メールが証明しているように、情報の漏洩経路は常にある。遮断する方が先です」

「では、どうする」

マリアが一秒の間を置いた。

その間だけ、視線が机の一点に落ちた。

一秒だった。それより短くても長くてもなかった。

決断の速度が、その人間の種類を示すことがある。

「私が直接現地に行きます」

全員が黙った。

「IGDEのトップが現場に出るのは前例がない。警備体制も」

「だからこそ、行くのです」

マリアの声は変わらなかった。

「現地で署名する書類があります。IGDE理事会が昨夜承認した『緊急事態における指揮権一元化承認書』です。私が現地で署名することで、この島は暫定的にIGDEの単独管轄下に入ります。各国政府は『自国民の安全』を理由に島へ介入する権利を、法的に一時停止されます。停止期間は除去作業の完了まで」

理事会が静まった。

「加えて、島の外部通信を物理的に遮断します。今回の告発メールのような安価な工作が現場の士気を揺らすのは、外部からの情報流入を放置しているからです。検疫モードに切り替え、エアギャップを確立する。今後は、コードの防衛だけでなく、人間の心理的な隙を突く工作に対してもファイアウォールを強化しなければならない。その第一歩です」

理事会メンバーの一人が口を開いた。「現場が孤立すれば、かえって不安が増す可能性がある」

「私がそこにいます」

マリアが言った。

「リモートでは法的効力が担保できない。私自身が現地で署名する必要がある。それだけではなく、万が一第二のプログラムが暴走してこの島が沈むなら、私もそこで一緒に沈む。それを物理的に示しに行くのです」

理事会は同意した。

会議が終わった後、私はオンライン接続を維持したまま書類を整理していた。

マリアと浩が画面の端で話していた。

私には聞こえない距離だった。

浩が何かを言い、マリアが答えた。

浩が「ありがとうございます」と言い、マリアが「あなたを...プロジェクトを守るために」と言っていた。

私は聞こえないふりをした。それについては、ここに書かない。


時刻: 9月12日 午後3時

場所: 人工島、ヘリポート

マリアが到着した。

浩、洋子、私がヘリポートで出迎えた。

ヘリポートには、自然発生的に作業員が集まっていた。

噂が先に届いていた。IGDEのトップが来る。

その事実が、二日かけて島内を伝播した。

ヘリコプターが着陸した。マリアが降りた。

スーツではなかった。

プロジェクトの現場作業着に近い装いだった。

意図的な選択だと、私にはすぐ分かった。

現場に来る政治家が何を着るかは、言葉より先に伝わる。

彼女の手には書類があった。IGDE理事会の承認書だった。

これに彼女が島内で署名することで、各国政府は法的な介入の根拠を一時的に失う。

励ましのためではなく、法的・政治的な防壁を構築しにきたのだ。

そして彼女自身もその防壁の一部として、この島に留まる。

彼女は浩に向かって歩いた。

「久しぶりですね、浩博士」

「お待ちしていました」

二人は握手した。

その瞬間、ヘリポートの空気が弛んだ。

IGDEのトップが現地に来た。わざわざ来た。

それだけで、言葉にならない何かが伝わった。

人の集団には、その種の信号を受け取る感受性がある。

科学者たちは政治家の言葉は信じない。

しかし、自分と同じリスクを背負う人間の存在には反応する。

マリアはすぐに全体集会を開いた。

壇上に立ち、一度会場全体を見渡した。

前列、中列、後列で空気が違う。

前列は期待が強い。

中列は静観。

後列にまだ懐疑が残っている。

それを全部見て、言葉を選んだのだと私は思った。

「私は、このプロジェクトを完遂させるためにこの地位にいます。あなたたちも同じ目的のためにここにいる」

会場が静まった。

「理事会は今、責任逃れのために工事中止を叫んでいます。彼らにとっての成功は、自分の任期中に事故が起きないことです。私にとっての成功は、このエレベーターが天に届くことだけです。その違いを、私はここに来ることで示しに来ました」

マリアは一拍置いた。

「私は先ほど、島の外部通信を物理的に切断しました。これは反逆ではありません。ウイルスが外の世界を汚染するのを防ぎ、同時に、外の臆病な声からあなたたちの集中力を守るための隔離です。失敗すれば、私も、あなたたちも、この島の歴史とともに消える。それだけです。...さあ、仕事に戻りましょう。天に届く梯子を作るのに、地上の雑音は不要です」

拍手が起きた。

最初は数人だった。

やがて広がった。

情緒的な言葉への反応ではなかった。

条件を明確にされたことへの反応だと、私には見えた。

人は往々にして、曖昧な希望より、明確な利害の共有に安心する。

マリアは拍手が大きくなってもマイクを手放さなかった。

静まるのを待ち、最後に短く付け加えた。

「建設は必ず再開します。それまで、共にいます」

一言目は法的かつ戦略的な宣言だった。

最後の一文だけが、かすかに別のものだった。

それについて、私はここに書かない。


時刻: 午後6時

場所: 浩の執務室

集会の後、マリアは浩の執務室を訪れた。洋子と私も同席した。

洋子がコーヒーを淹れた。四人で、静かに飲んだ。

「これから、どうする?」

「第二のプログラムの除去を完了させます。2週間で終わります。その後、全ての計算データを再検証してから建設を再開します」

「遅れは?」

「取り戻せます。洋子博士が製造プロセスの改善案を検討しています。それが実現すれば、後半のペースを上げられます」

マリアが浩を見た。

「無理しないで。あなたが倒れたら、私が困ります」

浩は微笑んだ。

「大丈夫です」

その「大丈夫です」の言い方が、今日は少し違った。

昨日と、また違った。何かが変わっている。

変化の内容について書くべき言葉を、私は持っていない。

二人の間の何かに、洋子も気づいたようだ。

しかし何も言わなかった。それで良かった。

その夜、私は展望デッキに出た。

星が出ていた。太平洋の夜は光害が少ない。

それだけ鮮明に、星の数が多い。

第一基のケーブルが夜空に細い線を描いている。

建設は止まっている。

しかしケーブルは今も空に向かって存在している。

止まっているものが、消えているわけではない。

だが、あれが落ちれば、世界は二度と元には戻らない。

洋子が来た。

「一人ですか?」

「ああ。君は?」

「私も一人で考え事を」

洋子が私の隣に立った。

距離は、会議室で隣に座る時と変わらなかった。

しかしここは会議室ではなかった。

それについて考え始めたが、すぐにやめた。

「佐藤の通信デバイスの解析、進んでいます。第二のプログラムの侵入ルートが特定できれば、除去期間が2週間を切る可能性があります」

洋子が言った。

「そうか」

少しの間があった。海風が来た。ケーブルの方向から吹いてくる風だった。

「それとは別の話ですが」

洋子が、少し間を置いた。

「佐藤が生きていれば、プログラムの解除は容易だった。その意味で、あなたの射撃は技術的な損失です」

私は何も言わなかった。

「ですが、あの銃の仕様をマイケルから聞きました。暗殺用のモデルだそうですね。佐藤の計画には、サイバー攻撃が失敗した際の物理的な排除——浩や私への襲撃——が含まれていたのでしょう。あなたは、不確定な情報を捨てて、確定した安全を取った」

海風がまた来た。

「科学者としては情報の損失を惜しみます。ですが、浩のパートナーとしては、その冷徹な最適解を尊重します」

「ありがとう」

名前を呼ぶつもりだったが、出なかった。

しばらく二人で星を見た。

「また、コーヒーを飲みたいです」

洋子は、視線を星に置いたまま、そう言った。

「いつでも淹れますよ」

それだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ