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氷雨の黙示録  作者: 唯野眠子
第5章-選択
29/31

第5-5話 決意

時刻: 4月15日 午前10時00分

場所: アイランドベース01、第一基 地上基部完成式典

6週間だった。

その短い時間の中で、人類は何かを成し遂げた。

高さ5,000メートル。ステラーカーボンの柱が、太平洋上に直立している。直径100メートルの円柱。その表面は銀色で、朝の太陽光を受けて、鋭く輝いている。富士山の高さを超えた構造物が、人工の島の上に立っていた。

式典会場に、2,000名以上が集まっていた。

各国首脳、科学者、技術者、報道陣。ヘリコプターが上空を舞い、海上には取材船が並んでいる。このプロジェクトが始まって以来、最大規模の式典だった。

浩は、壇の端に立って、タワーを見上げた。

6週間前、ここには何もなかった。海だけがあった。

台風に耐え、地盤の沈下と格闘し、それでもここまで来た。

数式通りに。計算通りに。物理法則が許す限界まで。

マリアが、演台に立った。

「本日、プロジェクト・アセンション第一基の地上基部が完成しました」

「これは、人類の協力の証です。6週間前、私たちは不可能だと言われました」

「しかし、世界中の人々が協力し、不可能を可能にしました。ケフィリアンが教えてくれた対話と包摂の力を、私たちは今日、実践しています」

「これは、始まりに過ぎません。あと12ヶ月で、このタワーは静止軌道まで到達します。人類は、新しい時代を迎えます」

会場に、大きな拍手が広がった。

浩は、その拍手を聞きながら、足元の地面を感じていた。

海底と一体化したステラーカーボンのパイル。根を張った基礎の上に、5,000メートルの柱が立っている。

奇跡ではない。

計算の結果だ。


時刻: 4月15日 午前10時30分

場所: アイランドベース01、第一基 地上基部完成式典

「次に、建設技術責任者の堀川浩博士から、ご挨拶いただきます」

浩は、演台に向かった。

2,000名の視線が集まる。報道陣のカメラが向く。

演説は、得意ではない。

数式と設計図の前では、迷いなく語れる。しかし、言葉だけで人に何かを伝えることは...浩にとって、もっとも難しい技術のひとつだった。

しかし今日は、伝えたいことがある。

「皆様、ありがとうございます」

浩は、深呼吸をした。

「これは、奇跡ではありません」

静かな声だった。しかし、マイクを通してその声は会場の隅々まで届いた。

「徹底的な計算と、物理法則への従順が生んだ、必然の結果です」

会場が、わずかに戸惑った気配を見せた。

奇跡を祝う式典で、奇跡を否定する言葉から始まった。

「私は科学者です。世界には、数式で記述できることと、できないことがある。このタワーは、前者に属します。材料の特性、荷重の分散、共鳴周波数、地盤との結合...すべてが計算の範囲内にある」

「台風が来た時も、地盤が沈んだ時も、解決策は常に物理の中にありました。私がしたのは、それを見つけることだけです」

浩は、会場を見渡した。

「しかし、このプロジェクトを通じて、私は一つのことを学びました」

浩は、会場を見回した。

「論理だけでは、タワーは建たない、ということを」

会場が静まった。

「設計図は、完璧でした。計算は正確でした。材料は、これ以上ないものが揃っていました」

「それでも、タワーは最初の1メートルすら建ちませんでした」

「なぜか」

浩は、少し間を置いた。

「人がいなかったからです」

「このタワーは、3,000名を超える作業員の手で建ちました。嵐の夜も、地盤が沈む夜も、彼らは現場を離れなかった。その技術と、その覚悟がなければ、設計図は紙のままでした」

「そして、この建設を支えたのは、数千キロ離れた島にいる一人の知性です」

映像スクリーンに、洋子の姿が映し出された。リモートで式典に参加している洋子は、その言葉を聞いて僅かに顔を上げた。

「『支えた』と言いましたが、彼女は助言者という意味ではありません」

浩は言った。

「洋子博士は、僕の思考が音速を超える時、その先で既に待ち構えている『もう一つの私』です」

会場が静まり返った。

「私たちは相談などしません。ただ、同じ宇宙の真理を覗き込み、同時に同じトリガーを引く。それは依存ではなく、共鳴です」

「台風の眼壁の非対称性を利用するアイデアも、ステラーカーボンが地盤と結合する相転移の発想も...僕が問いに辿り着いた瞬間に、彼女はすでに答えを持っていた。距離は関係ない。私たちが同じ宇宙の法則の下に立っている限り、これは繰り返される」

「彼女という鏡がなければ、この塔はここまで美しくはならなかっただろう」

浩は、洋子に向かって一礼した。

洋子も、静かに一礼した。

会場は、その様子を見守った。

浩は、マリアの方を向いた。

「そして、マリア議長」

マリアは、演台の隣に立っていた。

「あなたの決断がなければ、このプロジェクトは承認されませんでした」

「科学者は、可能性を示せます。しかし、それを現実に変えるためには、政治的な力が必要です。あなたは、世界を相手に、人類の未来を信じて、大きな賭けに出た」

「その決断の重さを、僕は毎日感じながら、仕事をしています」

マリアは、浩の言葉を聞いていた。

マリアの喉が、わずかに上下した。

しかし、頷きはいつもと同じ角度だった。

「そして」

浩は、会場全体を見渡した。

「ケフィリアンに、感謝します」

会場が、静かになった。

「彼らは4億年前に滅びました。しかし、その記憶は宇宙に刻まれていた。その記憶が、今、私たちを導いています」

「このタワーを宇宙まで伸ばし終えた時、私たちはケフィリアンへの答えを示します」

「そして最後に」

浩は、会場全体を見渡した。

「人類は今日、地球という揺り籠に別れを告げる準備を終えました」

「静止軌道まで36,000キロメートル。その先に何があるかは、まだ分かりません。リスクもある。失敗の可能性もある」

浩は、一拍置いた。

「しかし、そのリスクこそが、我々が生命である証です」

マイクに触れた指先が、わずかに汗ばんでいた。

「ケフィリアンは4億年前にこの道を歩みました。彼らは途中で倒れた。しかし、道は残りました。私たちは今日、その続きを歩き始めるのです」

浩は、深く一礼した。

会場は、一瞬の静寂の後、スタンディングオベーションに包まれた。

浩が壇上を降りると、マリアが待っていた。

「素晴らしい演説だったわ、チーフエンジニア」

完璧な外交的微笑。政治家の仮面。

マリアは、右手を差し出した。

握手。

その瞬間、浩は感じた。

マリアの指先が、わずかに震えていた。

一瞬だけ。そして次の瞬間には、完璧な握力に戻っていた。

マリアは、何かを言おうとした...その動作が始まりかけた。浩のネクタイが、演説中に少しずれていた。その歪みを直そうと、マリアの右手がわずかに動きかけて...止まった。

「ありがとうございます」

マリアは、すでに次の来賓への挨拶に向かっていた。

浩は、その背中を一瞬だけ見た。


時刻: 4月15日 午前11時00分

場所: アイランドベース01、第一基 地上基部完成式典

リモート回線のスクリーンが、大型ディスプレイに切り替わった。

洋子の声は、会場に直接届いた。

「皆様」

静かだった。しかし、その静けさが逆に会場の注意を引いた。

「科学は現象を説明します。台風の眼壁の気圧分布。ステラーカーボンの分子間結合。地盤の相転移。それらはすべて、数式で記述できます」

「しかし、このプロジェクトを通じて、私は一つのことを認めざるを得なくなりました」

洋子は、一呼吸置いた。

「科学には、限界があるということを」

会場が少し動いた。科学者が「科学の限界」を語ることへの、わずかな驚き。

「私たちは、宇宙のほんの一部しか理解していません。ダークマター、ダークエネルギー...観測できるものが宇宙の5%に過ぎないとするなら、私たちは95%の闇の中で、小さな灯りを頼りに歩いているようなものです」

「そして」

洋子は、浩の方を向いた。

「説明できない現象は、宇宙だけにあるわけではありません」

洋子は、一拍置いた。

「なぜ、我々はこれほどまでに『残したい』と願うのか。その理由は、科学では説明できません」

会場が静まった。

「先週、私はケフィリアンの宇宙船で、4億年前のDNAに相当する分子のサンプルを発見しました。そのサンプルには、おびただしい数の修復痕がありました」

「DNAは、放置すれば必ず壊れます。宇宙線、熱ゆらぎ、化学反応...4億年という時間の前では、どんな分子も耐えられない。それでも、その分子は修復し続けていた」

洋子は続けた。

「そして私たちは今日、太平洋上に5,000メートルの柱を立てました」

「4億年前のDNAが崩壊に抗い続けたこと。そして私たちが今ここで塔を建てること。この二つは、同じ一つのコードに支配されています」

「宇宙という冷たい虚無の中に、情報の楔を打ち込みたい...という執念です」

会場の空調の低い唸りだけが、数秒遅れて耳に戻ってきた。

「ケフィリアンと私たちを分けるものは、時間だけです」

「彼らは反物質の炎で照らした道を歩みました。私たちは今、この塔でその道をなぞり始めています」

「私たちは独りではありません」

「4億年前の彼ら。そして今、この空のどこかで同じ星を見ている誰かと...私たちは、同じ意志を共有しています。自らの存在の証を宇宙に刻もうとする、その意志を」

洋子は、ほんの一瞬、カメラではない方向を見た。

「これからの12ヶ月、多くの困難が待っています。高高度建設。宇宙環境。技術的な問題。政治的な問題。そして、予想もしない問題」

「しかし、私たちは乗り越えられます」

「なぜなら、それは生命の本質だからです。この衝動を持つ者たちが、かつて途中で止まったことはありません」

洋子は、タワーを一度見上げ、一礼した。

再びスタンディングオベーション。

洋子は演台から降りながら、ふと浩と目が合った。

何も言わなかった。

それでも、伝わるものがあった。


時刻: 4月15日 午後2時00分

場所: IGDE本部、進捗報告会議

式典の熱気が冷めないうちに、会議は始まった。

「第一基、地上基部完成。高度5,000メートル到達」

「第二基、エクアドル。高度4,200メートル」

「第三基、ケニア。高度3,800メートル」

「第四基、インドネシア。高度4,500メートル」

各基地の責任者が、次々と報告する。12基、すべての数値がスクリーンに積み重なっていく。

「全12基、予定進行率90%以上を維持しています」

進行管理官が報告した。

「分かりました」

マリアは言った。式典での表情と、まったく変わらない。

「では、次のフェーズについて。浩博士、お願いします」

浩は、スクリーンに高度の断面図を表示させた。海面から静止軌道まで。

「地上基部は、高度5,000メートルまでです。ここまでは、従来の建設技術の延長でした」

「高度10,000メートルを超えると、作業員は与圧スーツが必要になります。高度30,000メートルを超えると、大気圧は地上の1%以下。完全な宇宙環境です」

「そして、静止軌道まで36,000メートル」

ある政府代表が手を挙げた。

「人間の作業員が、どこまで担当できるんですか」

「高度30,000メートルまでです」

浩は答えた。

「それ以上は、ロボットと自律AIが担当します。AIアトラスの管制下で、高高度域の建設を担当する。人間は、地上からの遠隔操作で監督します」

「問題が起きた時は?」

「その時は」

浩は、少し間を置いた。

「僕が行きます」

会議室が静かになった。

「自律AIは、定義された問題は解けます。しかし、未定義の事態...これまで誰も経験していない問題に直面した時の最終判断は、責任者が下すべきです。36,000メートルが現場であれば、責任者はそこに行く」

会議室の誰かが、ペンを落とした。

マリアは、浩を見ていた。

その視線に、一瞬だけ何かが揺れた。しかしすぐに戻った。

「分かりました」

マリアは言った。

声のトーンは変わらない。完璧な議長の声だ。

「高高度建設フェーズ、開始を承認します」

「ただし...」

マリアは付け加えた。

「判断は独断せずチームで行うこと。これは条件です」

「了解します」

浩は答えた。

しかし、マリアには分かっていた。

浩は、一人で行く。そういう人間だ。

マリアは、書類に視線を戻した。


時刻: 4月15日 午後6時00分

場所: アイランドベース01、研究室

会議が終わった後、浩と洋子は研究室に戻った。

式典、演説、会議。朝から動き続けた一日が、ようやく静かになった。

浩は、椅子に深く座り込んだ。

「疲れたな」

「ええ」

洋子も、隣の椅子に座った。

「でも、充実した疲れ」

窓の外に、タワーが見える。夕陽を受けて、銀色の表面がオレンジ色に染まっていた。

「今日の演説で、君を『もう一つの私』と言った。あれは...正確だったか?」

洋子は、少し間を置いた。

「正確というより...適切だったわ」

「違いは?」

「正確は、数値が合っているということ。適切は、その言葉しかなかった、ということ」

「僕にとって、説明できない存在だ。科学者として最高のパートナーというのは正確だ。しかし、それだけでもない」

「運命的な繋がり、とか、魂の双子、とか...言葉にしようとすると、どれも半分しか合わない気がする」

「そうね」

しばらく沈黙した。

窓の外のオレンジ色の光が、銀色の表情を少しずつ変えていく。

浩は思い返した。洋子との繋がりは、説明不可能で、思考の領域にある。いや、繋がりなのではない。

「...もつれている?」

洋子がそう呟いた。

それだ、と浩は納得した。しかし、

「俺たちは、科学者として最高のパートナー。それで十分」

「ええ。それで十分ね」

二人は、またしばらく黙っていた。

端末のモニターには、高高度建設フェーズの初期設計が開いている。浩は、そのデータを眺めながら言った。

「一つ聞いていいか」

「何?」

「台風の時。パッチを送ってきたタイミング...あれは自動送信だったと言っていたが、ログを監視して、特定のレポートを開いたら送る設定にしていた、と」

「そうよ」

「いつから?」

「タワーの設計が始まった頃から。あなたがいつかそのレポートに辿り着くと思って、待っていた」

浩は、しばらく返事をしなかった。

「それは...どういう計算から?」

「計算じゃない」

洋子は言った。

「確信よ。あなたが問題に直面した時、どの方向に考えを展開するか。その経路が、私には見えていた」

「なぜそこまで観察できるのかは、説明できない」

二人は、顔を見合わせて笑った。

「さあ、仕事に戻ろう」

浩は言った。

「まだ高高度建設フェーズの設計が残っている」

「私の方は、DNAサンプルの分析が来週届く」

「また同時に同じことを考えるんだろうな」

洋子は自室に戻ろうと、研究室から出ながら言った。

「たぶんね」

そう言いながら、帰っていく洋子は笑っている気配がした。


時刻: 4月15日 午後10時00分

場所: アイランドベース01、展望デッキ

タワーが、夜の空に光っていた。

建設照明が5,000メートルの柱を照らし続けている。雲の層を突き抜けて伸びるその光は、地上から宇宙へと続く一本の線のように見えた。

浩は、手すりに腕を預けて、その先を見上げた。

36,000メートルの彼方。

「ここまで来たか」

呟いた。

氷雨から、2ヶ月半。

200万人が死に、30億人が被災した。それでも人類は動いた。計算通りに。物理の許す限りで。

浩は、ポケットに手を入れた。

背後から、自分を呼ぶ声がした。

振り向くと、マリアが立っていた。

「マリアさん」

「一人で来るだろうと思って」

マリアは、浩の隣に立った。

二人は、タワーの光を見上げた。

「今日の演説、あなたらしくなかった」

浩の視線が、わずかに泳いだ。

「どういう意味ですか」

「いつものあなたは、数字と事実で話す。でも今日は違った」

「今日は、気持ちも話していた」

浩は、少し間を置いた。

「伝えたいことがあったので」

「届いていたわ」

タワーの光が、空に向かって伸びている。その頂点は、雲に消えて見えない。

「マリアさん、あなたが最初にこのプロジェクトを信じてくれた時...あの時の決断は、どこから来たんですか」

マリアは少し考えた。

「あなたの目から、かしら」

「あなたが数式を説明する時の目。疑いのない目。あれを見て、信じようと思った」

浩は、そのことを知らなかった。

「戻りましょうか」

マリアが言った。

「明日も、忙しい日になる」

「はい」

二人は、並んで展望デッキを後にした。


タワーの光が、空に向かって伸びている。

高さ5,000メートル。

夜風が、海の匂いを運んでくる。

しかし、目指す先は36,000メートルの彼方だ。

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