夫は毎晩、若い秘書を抱いて「寒い」と震えていた。壁に埋められた私が、ずっと背中に張りついているとも知らずに
導入
夫の若い秘書が、社内チャットに一枚の自撮り写真を誤って投稿した。本当は若手社員だけで作った私的なLINEグループに送るつもりだったのだろう。けれど彼女は、うっかり会社のLINE WORKSの雑談チャンネルに投稿してしまった。写真の背景は、私と怜司の寝室だった。彼女は私のシルクのナイトウェアを着て、私が使っていたドレッサーの前に立っている。胸元は大きく開いていた。
添えられていた言葉は、たった二行だった。
【怜司さんが、奥さんは今いないって】
【今夜、この寝室は私のもの】
チャンネルは数秒だけ静まり返り、それから既読の数が一気に増えていった。誰かが意味ありげなスタンプを送り、別の誰かが冗談めかして、とうとう奥さんの座に収まったのかと聞いた。彼女が着ているナイトウェアが高価なものだと気づき、もう高梨家の主寝室に入り込んだのかと茶化す者もいた。
桐谷莉奈は、すぐにもう一言付け加えた。
【怜司さん、今夜はずいぶん元気。でもずっと寒いって言ってて、私を抱いて離してくれない】
私は黙って、そのメッセージが一つずつ浮かび上がるのを見ていた。怜司が寒がるのは当然だった。だって、私はずっと彼の背中に張りついているのだから。私の遺体は、彼によって主寝室のウォークインクローゼットの奥に作られた壁の中へ封じ込められて、もう三ヶ月になる。
そこは、世田谷区にあるリフォーム済みの一戸建てだった。結婚後、怜司が購入した家だ。ここなら静かで、人目も少なく、私たちはやり直せる。そう言っていた。隣家とは塀と庭を挟んでいて、主寝室は二階にある。深夜の作業音も、水漏れの修繕だと言えば、誰も深くは聞かなかった。だから彼は私を殺したあと、ウォークインクローゼットの奥を石膏ボードで塞ぎ、継ぎ目をパテで埋め、その上から新しい壁紙を貼った。
壁紙の糊とパテの匂いは、まだ完全には抜けていない。壁の内側は冷たく、息苦しい。私は毎晩、彼の首筋にぴたりと貼りついて息を吹きかけていた。寒くないはずがなかった。
1.壁の中の女主人
莉奈が浴室から出てきた。体にはまだ湯気が残っている。彼女はスマホを手に取り、鏡に向かってまた一枚写真を撮った。鏡の中で、彼女は私のナイトウェアを着ていた。頬を赤く染め、得意げに笑っている。そのナイトウェアは、私の誕生日に怜司が贈ってくれたものだった。私が着ると一番きれいだと、彼は言った。
今、それは別の女の体を包んでいる。その女は私のベッドで眠り、私を殺した男に抱かれながら、会社のチャットでこの家の新しい女主人になったつもりでいる。私は手を伸ばし、莉奈の体をすり抜けた。彼女はびくりと肩を震わせた。
ベッドの上の怜司が顔を上げる。目には苛立ちが滲んでいた。
「どうした?」
「なんでもない。急に寒くなっただけ」
莉奈はスマホを枕元に放り、怜司の胸元へ潜り込んだ。怜司はLINE WORKSに流れる意味ありげな返信を眺め、わずかに口角を上げた。
「やっぱり、お前は素直でいい」
莉奈は顔を上げ、甘えるような声を出した。
「怜司さん、私、もうすぐずっとここにいられるんだよね?」
怜司は適当に彼女の背を撫でた。
「もう少しだ」
そう言ってから、彼は掛け布団をさらに引き上げた。
「なんだか、今日はやけに寒い」
私は二人の上に漂い、彼が縮こまる肩を見下ろした。寒い? これは、まだ始まりにすぎない。私の骨は、ウォークインクローゼットの奥にある新しい壁の中にある。表面は真っ白に貼り替えられ、隙間ひとつ見えない。
私の手が、ゆっくりと莉奈の胸の奥へ沈み込んでいく。彼女の体が激しく震えた。目が大きく見開かれる。次にまばたきをしたとき、その瞳には、私自身の冷たい光が宿っていた。この体は、今は私のものだ。
2.新しい壁
私は莉奈の指を動かしてみた。ひどく他人のもののようで、それでも確かに操ることができた。隣では怜司が眠っている。呼吸は重く、眉間には深い皺が寄っていた。彼の体温が少しずつ奪われていくのが分かる。私が来たからだ。そして壁の中の私も、まだ目を覚ましているからだ。
私は体を起こし、ウォークインクローゼットの奥にある壁を見た。それは白く貼り替えられていた。何もなかったかのように、ひどく清潔な白だった。怜司は私の動きに気づいて目を覚まし、苛立ちを隠しきれない声を出した。
「莉奈、こんな時間に何してるんだ」
私は莉奈の声で、少し怯えたように囁いた。
「怜司さん、眠れないの。この部屋、誰かに見られてる気がして」
怜司の顔が険しくなる。
「変なこと言うな。ここには俺たちしかいない」
「でも、本当に寒いの」
私はわざと彼の腕の中へ身を寄せた。怜司の体がはっきりと強張る。莉奈よりも、怜司のほうが冷えていた。莉奈よりも、彼のほうが怯えていた。私は彼の胸に手を置いた。かつて、その場所は私のものだった。
「怜司さん、私のこと愛してる?」
彼は曖昧に頷いた。
「じゃあ、澪さんのことは?」
怜司の呼吸が止まった。数秒後、彼は私を押しのけて起き上がった。目の奥に警戒の色が浮かんでいる。
「お前、今日どうしたんだ」
私は俯き、傷ついたふりをした。
「ただ知りたかっただけ。私と澪さん、怜司さんにとってどっちが大事なのかなって」
「もちろん、お前だ」
彼はあまりにも早く答えた。そこには、ひとかけらの本心もなかった。
「じゃあ、どうして離婚しないの?」
怜司の指が、布団の端を強く握りしめる。
「澪はまだ失踪扱いだ。警察の捜査も終わっていない。今は無理だ」
失踪。なんて便利な言葉だろう。私の遺体は彼から二メートルも離れていない場所にある。それなのに彼は、私をただ家に帰ってこない女のように語ることができる。
「もし、帰ってきたら?」
私は顔を上げ、まっすぐに彼を見つめた。ベッドライトの下で、怜司の顔が一瞬だけ白くなった。
「帰ってくるわけがない」
彼は少し間を置き、低い声で続けた。
「絶対に」
私は笑った。莉奈の顔で笑うと、若く柔らかく見える。けれどその目には、少しの温度もなかった。
「よかった」
私は手を伸ばし、彼の頬をそっと撫でた。
「それなら、ずっと一緒にいられるね」
怜司がまた身震いした。私は指先を彼の腕から滑らせ、最後にベッド脇の壁へ触れた。爪先で軽く壁紙を引っかくと、細く耳障りな音がした。怜司の瞳孔が、はっきりと縮む。
「怜司さん、この壁、新しくしたんだね」
彼は私の手首を強く掴んだ。
「触るな!」
力が強すぎて、莉奈の骨が折れそうだった。私は彼の怯えた目を見つめ、久しぶりに胸の奥が満たされるのを感じた。
「どうしたの?」
怜司はすぐに、自分の反応が大きすぎたと気づいた。手を離し、張りつめた声で言う。
「まだ貼り替えたばかりなんだ。汚すな」
彼は再び横になり、布団で顔の半分を隠した。
「寝ろ。疲れてる」
私はそれ以上追及しなかった。もう一度横になり、彼に背を向ける。壁の中の私と、ベッドの上の私は、一枚の体を挟んで向かい合っていた。怨みは壁の隙間から少しずつ滲み出し、冷たい潮のように床を這っていく。
怜司は私の背後で寝返りを打ち、こっそりと手を伸ばした。指先があの新しい壁へ触れた瞬間、彼は氷に焼かれたように手を引っ込めた。その冷たさは、まだほんの一部でしかなかった。
3.姑の疑い
翌朝、怜司は早々に会社へ出ていった。この寝室に、一秒でも長くいたくなかったのだろう。玄関のドアが閉まった瞬間、私は莉奈の体を操り、クローゼットの奥から私の古い服を数枚引っ張り出した。それらは一番下に押し込まれていた。まるで、持ち主が二度と戻らないと決めつけられたように。
私は莉奈のスマホを手に取り、怜司の母、高梨美智子へLINEの音声メッセージを送った。声を少し甘く、媚びるように変える。
「美智子さん、莉奈です。今日、お時間ありますか。怜司さんとのこれからのことを、お話ししたくて」
私は「これから」という言葉を、わざと重く響かせた。美智子はずっと私を嫌っていた。普通の家庭に生まれた私では、家族経営の会社で常務取締役を務める息子にふさわしくないと思っていたのだ。けれど私よりも、彼女は莉奈のような女をもっと見下している。男に取り入って上へ行こうとする若い秘書。美智子にとって、それは最も許しがたい存在だった。
一分もしないうちに、電話がかかってきた。出た瞬間、美智子の尖った声が耳に刺さる。
「桐谷莉奈さん? 誰があなたに連絡していいと言ったの」
私は声に少しだけ傷ついた響きを混ぜた。
「嫌われているのは分かっています。でも、私と怜司さんは本気なんです。澪さんのことが片づいたら、一緒になるって言ってくれました」
「片づいたら?」
美智子の声色が変わった。
「あの人は今も行方が分からないままなのよ。警察も何度も来ている。高梨家の顔は、もう十分潰されたわ」
「怒らないでください」
私はベッドの端に座り、あの壁を見つめた。
「怜司さんは、もうすぐ終わるって言っていました。澪さんは、もう二度と戻ってこないって」
電話の向こうが、数秒だけ静まり返った。
「怜司が、本当にそう言ったの?」
「はい。それに、私が住みやすいように、主寝室も新しくしてくれたんです。あの壁なんて、真っ白でとてもきれいですよ」
美智子の呼吸が、わずかに重くなった。
「リフォーム? どうして急に寝室を?」
「分かりません。怜司さんは、前の壁紙が古かったからって」
私はスピーカーに切り替え、あの壁の前へ歩いた。指を曲げて、軽く三回叩く。
こん。こん。こん。
音は通話の向こうへはっきり届いた。まるで、壁の中から誰かが返事をしたように。
「今の音は何?」
「なんでもありませんよ」
私は何も知らないふりで目を伏せた。
「たぶん、片づけをしていた音です。そうだ、美智子さん、いつこちらにいらっしゃいますか。怜司さん、最近ずっと家に変な匂いがするって言っていて、すごく寒がるんです。私ひとりだと少し怖くて」
「行きません」
美智子の声は相変わらず硬かった。
「それから、桐谷さん。私はあなたを認めていません。澪さんが見つかっていない以上、あなたに怜司の隣に立つ資格はありません」
電話が切れた。私は暗くなった画面を見つめ、ゆっくり笑った。彼女は来ないと言った。けれど疑いの種は、もう蒔かれた。少し水をやれば、すぐに芽を出す。
私はこの家の中で証拠を集め始めた。怜司が書斎の隠し場所にしまっていた予備のスマホには、彼と莉奈のやり取りだけでなく、他の女たちとの曖昧なメッセージも残っていた。会社の資金を動かした記録は、彼の不注意でクラウド上のフォルダに保存されていた。莉奈に買い与えたブランドバッグ、アクセサリー、腕時計の領収書も、そのまま残っていた。
高梨家が経営しているのは、中堅の不動産開発会社だった。怜司は常務取締役で、開発プロジェクトの資金管理に関わっていた。三千万円の会社資金は、少しずつ彼の手で動かされていた。自分の投資損を埋めるために。そして莉奈の虚栄心を満たすために。
私は莉奈のメールアドレスから、整理した資料を匿名で黒崎専務に送った。黒崎は会社で、ずっと怜司と折り合いが悪かった。いくつもの開発案件で主導権を争い、相手を引きずり下ろす機会を待っていた。今、私はその機会を彼に渡した。
すべてを終えたところで、莉奈のスマホが鳴った。怜司だった。電話の向こうで、彼は怒りを押し殺していた。
「莉奈、今日うちの母親に連絡したのか」
「うん」
私は何も悪いことをしていないような声を出した。
「美智子さんと仲良くなりたかっただけ」
「勝手なことをするな。何を言われた?」
「たいしたことは言われてないよ」
私は少し間を置いた。
「今夜、実家に来なさいって。私たちに会いたいみたい」
嘘だった。けれどこれは、次の舞台へ彼らを引きずり出すための第一歩だった。怜司が返事をする前に、別の着信が入った。画面には「母」と表示されている。私は通話を切らずに、彼の呼吸が急に乱れるのを聞いていた。
しばらくして、美智子の声が受話口越しに聞こえた。
「怜司。今からあなたの家に行きます」
インターホンが鳴ったのは午後だった。ドアスコープ越しに、美智子が立っているのが見えた。厚く化粧をし、高価そうなショールを羽織っている。目には嫌悪と苛立ちがはっきり浮かんでいた。私は莉奈の服を整え、玄関を開けた。
「こんにちは、美智子さん」
美智子は返事もせず、そのまま中へ入ってきた。視線がリビングを一周し、最後に私の顔へ落ちる。
「怜司は?」
「会社で残業です。美智子さんをきちんとお迎えしておいてと言われました」
私がお茶を淹れようとすると、美智子が冷たく遮った。
「結構です」
彼女はソファに腰を下ろし、バッグを横に置いた。
「今日はひとつだけ聞きに来ました。あなたと怜司は、どういう関係なの」
私は目を伏せ、傷ついた表情を作った。
「私たちは本気で愛し合っています。ここに住んでいいと言ったのも怜司さんです」
「本気?」
美智子が小さく笑う。
「あの子はあなたの若さに惹かれて、あなたはあの子の立場に惹かれている。それだけでしょう。きれいな言葉でごまかさないで」
彼女は昔からこうだった。生前の私にも、莉奈にも、決して優しくはならない。
「違います」
私は目を赤くした。ただし涙は落とさない。
「怜司さんは、澪さんとはもうとっくに気持ちが離れていたって。澪さんは、つまらない人だったって」
美智子の表情が、ほんの少しだけ動いた。
「澪さんがどうであれ、高梨家が正式に迎えた嫁です。まだ見つかっていないのに、あなたは主寝室に住み込んでいるの?」
「怜司さんに言われたんです」
私は声を落とした。
「家が広すぎて、ひとりだと怖いって」
「怖い?」
美智子は、馬鹿げたことを聞いたという顔をした。
「あの子が、何を怖がるというの」
「私にも分かりません」
私は気づかれないように、わずかな陰気を放った。リビングの温度が、すっと数度下がる。美智子は反射的にショールを引き寄せ、鼻先を動かした。
「何、この匂い」
彼女は立ち上がり、リビングの中をゆっくり歩き始めた。ヒールが床を打ち、硬い音を立てる。彼女はまるで、誰かが整えすぎた現場を調べるように歩いていた。最後に、主寝室の前で足を止めた。
ドアは少し開いていた。美智子はそれを押し開け、中へ入った。私はその後ろについていく。彼女の視線は、真っ先にウォークインクローゼットの奥にある真新しい白い壁へ向かった。
「この壁、貼り替えたの?」
「はい」
私は彼女の背後で、無邪気な声を出した。
「怜司さんが、前の壁紙が古かったからって」
美智子は壁に近づき、手を伸ばそうとした。その指先が触れる直前、私はさらに強く陰気を放った。刺すような冷気と、どこか腐ったような匂いが、壁の内側からじわりと滲み出す。美智子は弾かれたように手を引っ込めた。
その顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「これは……何の匂い?」
私は彼女の白くなった顔を見つめ、遅れて訪れた快感に身を浸した。その匂いは、私の体が壁の中で朽ちていく匂いだった。怜司がどれだけ消臭剤を置こうと、どれだけ香りでごまかそうと、隠しきれるものではなかった。
4.会社に入った亀裂
美智子はあの壁を見つめていた。疑いは、やがて恐怖に変わっていく。彼女は勢いよく振り返り、私を睨みつけた。
「桐谷さん。この壁、いったいどういうことなの」
私は茫然と首を振った。
「分かりません。怜司さんは、下の配管が湿気ているのかもしれないって」
それは怜司が用意していた言い訳だった。けれど莉奈の口から出ると、あまりにも薄っぺらかった。美智子は愚かではない。彼女はしばらく壁を見つめたあと、張りつめた声で聞いた。
「ここに住んでどれくらい?」
「もうすぐ一ヶ月です」
「この壁はいつ貼り替えたの」
「私が来る前には、もうきれいになっていました。怜司さんが、私を迎えるためだって」
私はわざと甘く言った。美智子の顔は、ますます険しくなる。彼女はそれ以上何も言わず、寝室を出た。リビングのソファからバッグを取ると、一刻も早く離れたいというように玄関へ向かう。
ドアの前で、美智子は足を止めた。
「あなたと怜司がどういう関係だろうと、私には関係ありません。けれど澪さんが見つからない限り、あなたを高梨家の人間とは認めません」
彼女はバッグの持ち手を強く握った。
「それから、怜司に本家へ来るよう伝えなさい。母がそう言ったと」
ドアが乱暴に閉まった。私はその場で笑った。美智子は疑い始めた。彼女は私を嫌っていたが、それ以上に高梨家の名を守りたがる。息子の不倫は醜聞で済む。だが息子が殺人犯なら、家そのものが崩れる。
彼女は必ず、怜司に説明を求める。予想どおり、しばらくして怜司が帰ってきた。顔には怒りが張りついている。玄関を入るなり、ブリーフケースをソファへ投げつけた。
「母さんに何を言った」
私は立ち上がり、傷ついた表情を作った。
「何も言ってないよ。美智子さんが少し座って、私たちのことを聞いただけ」
「寝室に入ったのか」
「うん」
私は彼の緊張した目を見つめ、そっと一言付け足した。
「美智子さん、あの壁、きれいだって言ってた」
怜司の顔色がわずかに緩んだ。けれどまだ安心しきれてはいなかった。彼は足早に主寝室へ向かい、あの壁を隅々まで確かめた。掌で壁紙の表面を何度も撫で、破れや亀裂がないことを確認して、ようやく小さく息を吐いた。
私は彼の後ろに立った。
「怜司さん、私に隠してることがあるの?」
彼は苛立たしげに視線を逸らした。
「考えすぎだ。会社のことで忙しいだけだ」
そのとき、彼のスマホが鳴った。着信表示は、黒崎専務だった。怜司が電話に出ると、その顔は一瞬で白くなった。
「何だと? あり得ない。どこでそれを手に入れた?」
電話に向かって怒鳴っているのに、声は震えていた。最後まで聞かなくても分かる。匿名で送った資料が、もう効き始めているのだ。業務上横領。その四文字だけで、怜司の地位も、高梨家の体面も崩れ落ちる。
電話を切ったあと、彼はベッドの端に崩れるように座った。目はうつろだった。
「終わった……全部、終わった……」
私は彼の隣に近づき、そっと肩を抱いた。
「怜司さん、何があったの?」
彼は救いを求めるように、私の手を強く握った。
「莉奈。誰かが俺を陥れようとしている。お前に助けてほしい」
「私に何ができるの?」
怜司が顔を上げた。その目には、私がよく知っている冷たさがあった。
「お前が被ってくれ」
私は動かなかった。
「俺の秘書なら、支払申請書や請求書に触れる機会がある。あの振込は全部、お前が勝手にやったことにすればいい」
私は彼を見つめた。笑いそうになった。この男は、私を殺した。そのうえ莉奈に罪を押しつけようとしている。彼が本当に愛した人間など、最初から誰ひとりいなかったのだ。彼が愛していたのは自分自身と、今にも崩れそうな体面だけだった。
「嫌」
私は彼の手を振りほどいた。
「そんなの、できない」
「桐谷莉奈!」
彼は怒鳴り、私の髪を掴んで床へ押しつけた。
「忘れるなよ。お前が今ここにいられるのは、誰のおかげだ。俺がやれと言ったら、やるんだよ」
私はわざと抵抗した。莉奈の体が弱く、怯えて見えるように。次の瞬間、部屋の灯りが激しく点滅し始めた。冷たい風がどこからともなく吹き込み、カーテンが窓ガラスを叩いて音を立てる。怜司の動きが止まった。顔に浮かんでいた怒りが、少しずつ恐怖へ変わっていく。
「誰だ。誰かいるのか」
誰も答えない。ただ、莉奈の体に入った私だけが、低く笑った。怜司は完全に怯えた。私の髪から手を離し、床を這うようにして壁際まで後ずさる。顔は真っ青だった。
「幽霊……幽霊だ……」
私は床からゆっくり起き上がり、乱れた服を整えた。そして一歩ずつ、彼へ近づいていく。灯りはもう元に戻っていた。けれど私は分かっていた。恐怖は、彼の心に根を下ろした。
「怜司さん、どうしたの?」
私の声は柔らかかった。けれどその響きの奥には、どこから来たのか分からない歪みが混じっていた。怜司は顔を上げ、私を睨むように見た。
「今、笑ったか」
私は首を傾げた。
「私、笑った?」
彼を見つめる。
「覚えてない」
その日から、怜司はさらに疑い深く、乱暴になった。主寝室にひとりでいることを怖がり、眠るときは灯りをつけたままにした。莉奈を強く抱きしめれば温かくなると思っていたらしい。けれど彼は知らない。彼が抱いているのは、やはり私なのだ。
私は少しずつ彼の体温を奪った。彼の顔色は目に見えて灰色に沈んでいった。会社では、黒崎専務が取締役会で資料を突きつけ、資金の流れを徹底的に調べるよう求めた。怜司は大金を使って穴を埋めようとしたが、一部をどうにか隠しただけで、多くの支持を失った。やがて彼は取締役会で常務としての職務とプロジェクト責任者としての権限を外され、その後、臨時株主総会を前に辞任を迫られた。
かつて会社で強い発言力を持っていた高梨怜司は、ついに最も大切にしていたものを失い始めた。自分を保つために、彼は家のあちこちへ監視カメラを取りつけた。リビング、キッチン、廊下、そして主寝室にまで。家の中で妙なことをしている人間を見つけるつもりだったのだ。
私は彼が小さなカメラを壁際に取りつけるのを見ながら、冷たく笑った。
人を見張ることはできても、幽霊を見張れると思っているの?
夜、怜司が眠ったあと、私は莉奈の体を離れ、幽霊の姿に戻った。カメラの前まで漂い、レンズへ向かって微笑む。それから再び莉奈の体へ入り、ベッドから起き上がった。裸足で冷たい床を踏み、あの壁の前へ進む。
私は手を伸ばし、爪で何度も壁紙を引っかいた。
かり。かり。かり。
静まり返った夜、その音は骨の隙間から漏れるようにはっきり響いた。私は壁を引っかきながら、低く歌を口ずさんだ。生前、私が一番好きだった子守唄だった。怜司はかつて、私の声は今まで聞いたどんな声よりもきれいだと言った。今、その声は彼の悪夢になった。
5.御札が燃えた夜
翌朝、怜司はパソコンの前に座り、監視カメラの映像を確認していた。顔色はどんどん悪くなる。映像の中の「莉奈」は、夢遊病者のように壁の前に立っていた。表情は固まり、爪だけが同じ場所を何度も引っかいている。口元からは低い歌が漏れていた。かすかな旋律なのに、背筋が冷たくなるような歌だった。
怜司は映像を早送りした。午前三時四分。画面が突然、砂嵐のように乱れた。ノイズが消えた直後、青白い顔がレンズの目の前に貼りついた。目は空洞のように暗く、口元には血が滲み、濡れた長い髪が頬へ張りついている。
その顔を、彼が見間違えるはずがなかった。篠原澪。私だった。
「うわあああ――!」
怜司は悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちた。私はドアを開け、心配そうな顔で彼を見た。
「怜司さん、どうしたの?」
彼はパソコンの画面を指さした。指がひどく震えている。
「あいつが戻ってきた……」
私はその指の先を見る。画面には、何の異常もない監視映像だけが映っていた。
「誰が戻ってきたの?」
「澪だ! 澪が戻ってきた!」
彼は狂ったように叫んだ。目には、崩壊寸前の恐怖が満ちている。私は彼の姿を見つめた。そこに憐れみは少しもなかった。最後の幕が上がる前に、怜司、あなたにはまだ壊れないでいてもらわないと。
怜司は完全に怯えきっていた。彼はネットで、除霊ができると名乗る男を探し出した。男は白い羽織をまとい、手には数珠と祓いに使う紙垂のついた道具を持っている。それなりに、それらしく見えた。男は家の中を一周し、清め塩を撒き、玄関と廊下に御札を貼った。
最後に、あの壁の前で足を止める。
「ここは、気が違いますね」
男は目を閉じ、重々しい顔をした。
「かなり強い怨念があります」
怜司の顔が一瞬で白くなった。
「何とかなるのか」
除霊師を名乗る男は、懐から一枚の御札を取り出した。
「これを壁に貼ってください。しばらくは抑えられます」
怜司は最後の望みにすがるようにその御札を受け取り、壁の中央へ丁寧に貼った。私は宙に漂い、その様子を冷ややかに見下ろしていた。紙一枚で、私を抑えられると思っているの?
夜、怜司と莉奈が眠ったあと、私は指先を伸ばし、軽く弾いた。壁の御札が、ぷつりと小さな音を立てた。次の瞬間、ひとりでに火がつく。炎は暗闇の中で一瞬だけ揺れ、すぐに黒い灰だけを残した。
翌朝、怜司は壁の焦げ跡と床の灰を見つけ、動けなくなった。慌てて除霊師に電話をかけたが、二度とつながらなかった。彼は騙されていたのだ。
それが、怜司を最後に押し潰す一撃になった。彼は酒に溺れ、夜通し帰らない日が増えた。会社にも行かなくなった。黒崎専務はその隙に社内の主導権を握り、怜司は会社で何も言えなくなっていった。
そして私が必要としていた舞台も、ようやく整った。私は莉奈の立場を利用して、高梨家の両親に連絡した。怜司の状態がひどく、家族が集まって励ましたほうがいいと伝えた。たとえば、会長である高梨宗一郎の還暦祝いを少し早めて開くのはどうか、と。
本来なら一ヶ月後の予定だった。けれど、私は待てなかった。高梨家の真実を、全員に目撃してもらうには、十分に大きな宴が必要だった。高梨家は同意した。彼らはそれを、体面を取り戻すための家族の集まりだと思っていた。それが、高梨家が最後に体裁を保って光の下に座る夜になるとも知らずに。
6.還暦祝い
還暦祝いは、東京都内の老舗ホテルで開かれた。高梨家の親族、会社役員、取引先、怜司の元同僚たちにも招待状が届いた。すでに職務を失っていた怜司も、出席を求められた。そして彼の「連れ」である莉奈も、当然その名簿に入っていた。
私は莉奈の体を操り、赤いロングドレスを選んだ。血の色。今夜には、よく似合っていた。怜司はすでに半分酔っていた。顔色は悪く、目の下には濃い影が落ちている。私は彼を支えるようにして宴会場へ入った。中では人々が笑い、杯を交わし、誰もが上品な顔を作っていた。
高梨宗一郎は壇上に立ち、挨拶をしていた。背筋を伸ばし、会長としての威厳を保とうとしている。ただ、怜司の一件以来、その目元には疲労が深く刻まれていた。私は怜司を支え、隅の席へ座らせた。壇上の灯りが宗一郎に落ちるのを見つめる。客席では人々が微笑みながらグラスを掲げていた。
誰も知らない。今夜の主役は、彼ではない。
幕はもう上がっている。私はそっと莉奈の体を離れ、宴会場の上空へ漂った。深く息を吸うように、残った怨念をすべて集める。そして、悲鳴を上げた。その瞬間、宴会場の照明がすべて落ちた。闇が降りる。
悲鳴があちこちで弾けた。誰かがグラスを倒し、誰かが椅子にぶつかった。暗闇の中で、私だけがすべての仇の顔を見ることができた。
十数秒後、照明が戻った。宴会場は混乱していた。客たちは青ざめた顔で周囲を見回し、低い声でざわめいている。
「何だったの? 停電?」
「今、首の後ろを何かが通った気がしたんだけど」
宗一郎は壇上で、鉄のような顔をしていた。
「皆さん、落ち着いてください。ただの配線トラブルでしょう」
その声は震えを隠しきれていなかった。なぜなら彼はもう見てしまっていたからだ。目の前に置かれた大きな還暦祝いのケーキ。その上に、赤いジャムで四文字が書かれていた。
【命を返せ】
全員がそれを見た。宴会場は死んだように静まり返り、それからさらに大きなざわめきに飲み込まれた。
「何よ、あれ」
「誰が書いたんだ」
「縁起でもない」
宗一郎は怒りで全身を震わせた。
「警備は何をしている。こんな悪質ないたずらをした者を探しなさい!」
いたずら。私は彼を冷たく見下ろした。違う。これは、命を返せという要求だ。私は莉奈の体へ戻った。よろめくように立ち上がり、舞台へ向かう。会場中の視線が私に集まった。怜司が手を伸ばして止めようとしたが、私はその手を振り払った。
舞台の中央に立ち、司会者からマイクを奪う。
「皆さん、誰がやったのか知りたいですか」
莉奈の体から出た声は、完全には莉奈のものではなかった。壇上も客席も静まり返った。宗一郎も、美智子も、そして血の気を失った怜司も。
「私は知っています」
私は笑い、隅にいる怜司を指さした。
「あの人です」
すべての視線が、一斉に怜司へ向かった。怜司は何度も首を振る。唇は白く、震えていた。
「違う……俺は知らない……」
私は舞台から一歩ずつ降り、彼の前で足を止めた。
「知らない?」
「三ヶ月前の雨の夜、あなたが何をしたのか、本当に知らないの?」
「あなたの家の主寝室、その壁の中に何があるのか、それも知らないの?」
「毎晩私を抱きしめているとき、どうしてあんなに寒いのか、本当に分からないの?」
私が一つ問いかけるたびに、怜司の顔から血の気が引いていく。最後には、彼は床に崩れ落ち、全身を震わせた。招待客たちは、もう何かがおかしいと気づいていた。彼らは怜司を見て、私を見て、恐怖と好奇心を隠せない目をしている。
「あの人が殺したんです」
私はマイクを握り、宴会場に響く声で告げた。
「篠原澪を殺したのは、怜司です」
「そして、彼女を壁の中に埋めた」
「主寝室の、あの壁に」
会場がどよめいた。美智子が悲鳴を上げ、こちらへ駆け寄ってきた。
「おかしいわ! この人、おかしくなっているのよ!」
彼女が私に手を伸ばした瞬間、宴会場の中央にあるシャンデリアが激しく揺れた。細かな破片が雨のように落ちてくる。その真下にいたのは、怜司だった。彼は頭上で揺れるシャンデリアを見上げ、人とは思えない悲鳴を上げた。床を這うようにして逃げようとする。その姿には、かつて会社で幹部として振る舞っていた男の面影など、もうどこにもなかった。
宗一郎は目の前の光景を見て、ようやく何かが決定的におかしいと悟った。唇を震わせ、長い沈黙のあと、喉から絞り出すように言った。
「一一〇番を」
警察はすぐに来た。ホテルの宴会場は封鎖された。怜司と高梨夫妻、そして莉奈は警察署へ任意同行された。莉奈はひどく取り乱していると判断され、署内の別室へ移された。
私は莉奈の体から抜け出した。その瞬間、彼女は意識を失い、椅子の上へ崩れ落ちた。
7.壁が壊される音
私は壁をすり抜け、取調室へ向かった。怜司は椅子に座っていた。両手は手錠でつながれている。警察が何を聞いても、彼は頭を下げたまま同じ言葉だけを繰り返していた。
「知りません」
彼の心の壁は、まだ完全には崩れていなかった。認めなければ、警察にはどうにもできないと思っているのだろう。彼にとって、篠原澪はただの行方不明者だった。私が死んだことを証明する人間はいない。彼が殺したと証明する人間もいない。
私は彼の耳元へ漂い、彼にだけ聞こえる声で囁いた。
「怜司。本当に、私に何もできないと思ってるの?」
怜司は勢いよく顔を上げ、周囲を見回した。
「誰だ。誰が言った」
警察官が眉をひそめる。
「高梨怜司さん、落ち着いてください。きちんと質問に答えてください」怜司には聞こえていなかった。彼は声の出どころを探すことに必死だった。
「澪……お前なのか? 分かってる。お前なんだろ」
私はさらに彼の耳へ近づき、軽く囁いた。
「きれいに片づけたつもりだった?」
怜司の瞳孔が、ぎゅっと縮んだ。
「書斎の三番目の引き出し。『モンテ・クリスト伯』の後ろ。そこに、現場を処理したときの刃物と手袋を隠してある」
彼の呼吸が乱れる。
「あの雨合羽。近くのごみ置き場に捨てたと思ってるでしょう。でも私は残しておいた。今はウォークインクローゼットの一番上の収納箱にある」
怜司の唇が震え始めた。
「どうして私を殺したの?」
私は少し間を置いた。
「本当に、莉奈のためだけだった?」
彼は答えなかった。だから私が代わりに答えた。
「違う」
「三千万円のため」
「あなたが会社のお金を使い込んでいることを、私が見つけた。自首してと言った。あなたはそれを拒んだ。だから私を殺した」
「黙れ!」
怜司は突然、狂ったように叫んだ。椅子から立ち上がり、私がいる方へ飛びかかろうとする。手錠が彼の動きを止め、警察官たちがすぐに押さえつけた。
「高梨さん、落ち着いて!」
怜司はもがいた。目には恐怖と絶望が満ちている。
「俺は殺してない! 俺はやってない!」
彼は最後まで抵抗していた。私は冷たく笑った。
「じゃあ、あの壁の中に何があるか、見てもらいましょう」
一方そのころ、警察は裁判官から捜索差押許可状の発付を受けていた。最初の捜索場所は、私と怜司の家だった。警察官たちは工具を持って主寝室へ入り、冷えた空気を漂わせる真新しい壁の前に立った。指揮を取る警察官がしばらく見つめたあと、短く命じた。
「開けてください」
工具が壁へ打ち込まれる。
どん。
一枚目の石膏ボードが割れ、隙間から黒い長い髪が垂れ下がった。
壁は完全に壊された。私の遺体が、ねじれた姿勢のまま、全員の前に現れた。密閉されていたせいで、遺体は完全には崩れていなかった。青紫色に変わった肌、空洞のような目、そして鼻を突く匂い。その場にいた人間たちは、思わず顔を背けた。
動かしようのない証拠だった。
司法解剖の結果、死因は頸部圧迫による窒息だと確認された。壁の内側、工具、ウォークインクローゼットの収納箱に残されていた雨合羽から、怜司につながる痕跡が見つかった。書斎の三番目の引き出しからは、現場処理に使われた刃物と手袋も発見された。
同時に、警察は私が失踪した前後に、怜司が石膏ボード、壁紙、パテ、消臭剤、施工用の道具を購入していた記録も押さえた。住宅街の入口にある防犯カメラや、近くの駐車場の監視カメラには、彼が深夜に建材を運び込む姿が映っていた。遺体の写真を見せられた瞬間、怜司の心は完全に折れた。
彼はすべてを話した。
三ヶ月前、私は彼が会社の資金を使い込んでいることに気づき、自首するよう迫った。雨の夜、私たちは激しく口論になった。怒りに我を忘れた怜司は、私の首を絞めた。気づいたときには、私はもう息をしていなかった。罪を隠すため、彼は私の遺体をウォークインクローゼットの奥に作った壁の中へ封じ込めた。
彼は三千万円の行方も供述した。大半は自分の投資損を埋めるために使われ、一部は莉奈へのブランド品やアクセサリーに消えていた。
高梨家は、完全に終わった。
宗一郎は息子の殺人事件と会社の巨額損失という二重の打撃を受け、脳出血で倒れた。命は取り留めたが、半身に麻痺が残った。会社はその後、破産清算の手続きに入った。最後に主導権を握ったのは、黒崎専務だった。
美智子は現実を受け入れられず、急速に心を壊していった。彼女は一日中クッションを抱え、「私の怜司」とだけ繰り返すようになった。
莉奈は正気に戻ると泣き叫び、自分は何もしていないと言った。けれど錯乱すると、私のような顔つきになり、壁を爪で何度も引っかいた。彼女はこの先ずっと、あの夜の影から逃れられないだろう。
怜司は殺人、死体損壊・遺棄、業務上横領などの罪で起訴された。
裁判の日、私も法廷へ行った。彼は被告人服を着て、別人のように痩せていた。かつて自信に満ちていた常務取締役の姿は、もうどこにもない。法廷で、検察側は遺体写真、購入記録、監視カメラの映像、送金記録、そして彼自身の供述を示した。
判決が言い渡されるとき、法廷は静まり返っていた。
無期拘禁刑。
怜司は被告人席に崩れ落ちた。体から骨を抜かれたようだった。彼は、最後に私に会わせてほしいと願った。もちろん、彼が会ったのは莉奈だった。
厚いガラス越しに、かつて彼を夢中にさせた女を見る。今の彼女の目は空っぽだった。そのとき、怜司はようやく泣いた。
「ごめん」
「澪にも、莉奈にも、父さんと母さんにも……本当にすまなかった」
「時間を戻せるなら、あんなことは絶対にしない」
私は宙に漂い、冷たく彼を見下ろしていた。遅すぎる後悔など、壁の灰に混じる埃よりも軽い。私は彼を許したわけではない。ただ、もうどうでもよくなっていた。
8.光が差し込む壁
怜司が刑務所へ送られたという知らせが届いたころ、私の体にまとわりついていた怨念が、少しずつほどけていくのを感じた。壊された壁には、ようやく一筋の陽光が差し込んでいた。光は床に落ち、やがて私の透けた手の甲にも触れた。三ヶ月以上、ここに閉じ込められてから、私は初めて温かさを感じた。
私の体は、少しずつ透明になっていく。もう行く時間なのだと分かった。
私は最後に、この三年間暮らした家を見渡した。ここには、私が愛した痕跡も、憎んだ証拠も残っている。玄関には、かつて二人で使っていた傘があった。キッチンには、私が選んだ調味料の瓶がまだ並んでいる。主寝室の壁は壊され、あの白さは見る影もなく砕けていた。
もう、すべては塵になる。
私は振り返り、光のほうへ歩き出した。耳元に、怜司の声が聞こえた気がした。
「澪、愛してる」
まるで遠い昔に聞いた台詞だった。懐かしくて、もう知らない声だった。その声は少しずつ遠ざかり、背後へ消えていく。
私は小さく笑った。今度は、振り返らなかった。そのまま、光の中へ踏み出した。
――完――




