人参の話と、削られた数行
夜が深まった頃、シオンは自室の机の上に地図を広げていた。
エリオが隣に立っていた。報告書を持っていた。
「エリオ」
「はい」
「エルト王は何が欲しいと思う」
エリオは少し考えた。
「技術、でしょうか。農業か、建設か」
「そう言っている。でも本当に欲しいのは」
「……信頼、ですか」
「隣国に舐められたくない、という気持ちと、民を豊かにしたいという気持ちが、同じ重さでそこにある。あの王は正直だから、自分でも分けられていない」
エリオは黙って聞いていた。
「人参をうまそうにぶら下げておけばいい」
「下手に本物の技術を渡して世界のバランスを崩す必要はない。ただ、我々が強大な力を持っているという背景を見せておくだけで、それは十分な交渉のカードになる」
エリオは報告書を持ったまま、少し間を置いた。
「半分だけ、分かりました」
「上等だ。残りの半分は、もっと汚い大人の世界を知ってからでいい」
シオンはハーブの茶を一口飲んだ。カップを置く時、口の端が少し動いた。笑ったのかもしれなかった。エリオには判断できなかった。
* * *
その二日目の午後、リラは城の図書館に入った。新しい土地に来たら本棚を見る——旅に出てから自然に身についた習慣だった。
その道すがら、廊下の窓から中庭が見えた。エルト王と並んで歩く、シオンの姿があった。
(星の海を渡る大賢者、若き王に千年の智慧を授く——……)
そこまで浮かべて、リラはひとりで頬を赤くした。
(違うわ。あの人、ゆうべお茶が苦いって三回も言ってただけだもの)
物語の鎧は、棚に戻した。でも、たまに持ち出したくなるのは、もう仕方のないことだった。それはそれで、私だから。
ヴェルダ国の図書館は、窓が小さく、昼でも薄暗かった。棚は天井まで届き、羊皮紙の束や擦り切れた写本が、几帳面に年代順に並んでいた。記録を捨てない国だ、とリラは思った。
何冊か手に取り、ページをめくっていた時だった。
北棟の記録を収めた一冊に、手が止まった。理由は分からなかった。ただ止まった。
開いてみると、ある年代の数行だけが、不自然に途切れていた。前後の記録は普通に続いている。でもその箇所だけ、インクの跡が薄く残りながら、内容が読めない。書き直したのではなく、削られた、という印象だった。
リラは途切れた箇所の上部に記された年代を確認した。
(……この頃)
胸の奥で、何かが静かに鳴った。勇者ガレンが魔王の軍勢を封じた、おとぎ話の中の年代と、近かった。
もう少しページを繰ると、後半は筆跡が変わっていた。古い遺構の構造図が並んでいる。柱の配置、音の通り道、反響の角度。記録の本のはずなのに、後ろ半分は、まるで音響の理論書だった。なぜ二つが同じ一冊に綴じられているのか、分からなかった。ただ、その図のどれかを、いつか自分が使う気がした。
棚に戻しかけて、やめた。理由は分からなかった。リラは司書に断って、その一冊を借り受けた。名前のつかない感覚を、名前のつかないままにして。
図書館を出ると、廊下の空気がひんやりしていた。気のせいかもしれなかった。
歩きながら、気づいた。
(カイに、見せよう)
真っ先に、そう思っていた。ナイラ様でも、シオン提督でもなく。理由の分からないものを見つけた時、最初に見せたい相手が、いつの間にか決まっていた。
決まっていたことに、今、気づいた。
リラは本を抱え直した。廊下は、まだひんやりしていた。頬だけが、少し熱かった。
その夜、リラは中庭の回廊でカイをつかまえた。
「見てほしいものがあるの」
石段に並んで座り、借り受けた一冊を開く。削られた数行と、後半に綴じられた音響の図。カイは黙って聞いていた。途中で口を挟まず、リラの指がなぞる図を目で追っていた。
「……分からないの。どうして記録と音響の理論が、同じ一冊に綴じられているのか。ただ、この図のどれかを、いつか使う気がして」
「なら、借りて正解だ」
カイは即答した。
「え?」
「お前の『気がする』は、偵察兵の報告より当たる。理由は後からついてくる。今までもそうだっただろ」
リラの手が、ページの上で止まった。妄想ばかり、と言われて育った「気がする」を、この人は根拠として扱う。当たり前のような顔で。
ページを押さえようと伸ばしたカイの指が、リラの指に触れた。
どちらも、動かさなかった。夜の中庭に噴水の音だけがしていた。一秒。二秒。
「——なにしてるの、二人とも」
頭上からティアの声が降ってきて、二人は同時に手を引っ込めた。
「べ、別に」
「本の話だ」
「ふうん」ティアはにやにやと旋回した。「指の話かと思った」
「寝ろ、ティア」
ティアは笑いながら飛んでいった。リラは本を胸に抱えた。触れた指の熱が、まだページの端に残っている気がした。
* * *
だが、ヴェルダ国に入って三日目の夜、ティアが静かに言った。
「カイ。北棟の僧侶、あれ変だよ」
カイは手入れ中のナイフから目を上げなかった。
「どう変だ」
「変、としか言いようがない。ちゃんとそこにいる。でもなんか、中身がない。お化けの影だけが歩いてるみたいで」
ティアは自分の言葉に少し不満そうな顔をした。上手く言えない、という顔だった。
カイはエルド・ラインの戦場で、姿の見えない敵や死霊の類と幾度も刃を交えてきた。ティアのような存在が放つ言葉にならない警告が、時として精緻な索敵魔法よりも正しいことを知っていた。
「分かった」
「信じる?」
「お前が変だと言うなら変なんだろう」
ティアは少し間を置いた。それから「そっか」とだけ言って、カイの肩の上で膝を抱えた。
その翌朝から、異変は重なり始めた。
東の街道で竜巻が三本、同時に発生した。北の森からモンスターが街道まで降りてきた。ティアが言うには、モンスターたちは怒っているのではなく、逃げていた。何かから。
ナイラ女王の特使として来ていたエルフのサーシャが、シオンに書状を届けてきたのはその夜だった。内容は短かった。
「僧侶は、ガルドスに憑依していたものと同じ存在に操られています。城の地下に、古い装置があります。私には近づけなかった。あの僧は、一人ではありません。同じ作法を持つ者たちが、どこか遠くに本拠を構えていると聞きます。城のこれは、その末端にすぎない」
シオンは茶を一口飲み、エリオに目をやった。
「アルヴィさんを呼んでくれ」
アルヴィは城門をくぐった時から知っていた、と言った。言う必要がある段階ではなかったので、と。
シオンは少し間を置いてから、頷いた。
「では今は」
「今は、あなたが知っておく段階です」
その頃、ティアの耳の奥の痛みは、日ごとに増していた。
痛みの正体は分からなかった。思念が乱れる場所では、よくある感覚だった。でもここ数日のそれは、少し違った。乱れているのではなく、何かがそこにあって、押している感じがした。古い何かだった。長い間そこにあって、今になって動き始めた、そういう重さだった。
カイには言わなかった。言っても心配するだけだ。心配したカイが動いて、危ない目に遭う。それは嫌だった。だから言わなかった。




