不器用な騎士
城の廊下は、長かった。
カイはパイロットスーツのジャケットを肩に引っかけたまま、客室のある翼へと続く石畳を歩いていた。戦闘後の熱が、まだ肩の裏に残っている。松明の間隔が広く、一歩ごとに、影が前へ伸びた。角を曲がるたびに、兵士がひとり立っていた。頷く。頷き返される。それだけで、通り過ぎた。
突き当たりの手前で、カイは一度、足を止めた。
壁に手をついたわけでも、溜め息をついたわけでもない。ただ止まった。松明の炎が揺れて、石の床で影が踊る。二秒か、三秒か、カイは動かなかった。
一人で自室へ戻る方が早い、と、どこかで思った。思ってから、足がそちらへ向いていないことに気づいた。計算と、体が、噛み合っていない。その理由を考えようとして——やめた。理由を言葉にする前に、手の方が動いていた。
ドアをノックした。一回、間を置いて、もう一回。
部屋の中で、リラは膝を抱えていた。
周りには、王が用意してくれた美しい本が、何冊も並んでいる。けれど今のリラは、その表紙を開くことすら、できなかった。
「……想像が、できないの」
掠れた声だった。
「おとぎ話の薔薇の花びらも、気高い騎士の物語も、何も浮かんでくれないの……」
昼間の戦場が、まぶたの裏に焼きついていた。鉄の念機が放った火線が大地を裂き、人間の兵士たちが悲鳴とともに吹き飛ばされていく、あの生々しさ。硝煙の匂い。死の手触り。リラの命だったはずの〈美しい想像力〉は、その光景の前で、完全に凍りついてしまっていた。
「これじゃ、私……もう、カイの鎧になれない。みんなの地図にも、なれないわ……」
涙が、ぽろぽろと床にこぼれ落ちる。
「誰も、そこまで求めちゃいない」
カイは椅子を引き寄せ、乱暴に腰掛けた。
「最初から、全部背負うつもりなんてなかっただろ」
リラが、濡れた顔を上げる。
「俺だって、元はバイクを乗り回してただけのガキだ。そこから念機に乗り換えただけで、世界を救う柄かどうかなんて、今でも分からん。……だが、今は仲間がいる。ヴェルナも、ナイラ女王も、あのトボけたエルフたちも。それに——俺もいる」
仲間、という言葉は、口に出すと、まだ少しだけ慣れなかった。長いあいだ、一人でいる方が早いと思って生きてきた。その癖が、まだ抜けきっていない。それでも、言葉にしてみると、嘘ではなかった。
カイは椅子から立ち上がるとリラの前まで歩み寄り、その頭にぽんと不器用に手を置いた。誰かをこうやって慰める作法など、知らなかった。ただ、手のひらは温かかった。
「お前が何も想像できなくなったって、俺の腕が鈍るわけじゃない。だから、今は何も考えなくていい。ただ——」
そこで、ひとつ、間が空いた。
「頼れる騎士様を信じてればいい。……なあ、姫君」
「……っ」
リラが、息をのんだ。
一拍の沈黙。カイ自身が、自分の口から出た言葉を、遅れて反芻しているようだった。その視線が、ほんの少しだけ、斜め上の虚空へと逸れた。
「……俺が言う台詞じゃ、ないな。それは」
呟いて、それで終わりだった。説明も、弁解もない。手は、まだリラの頭の上にある。
リラは涙を拭って、小さく笑った。想像力はまだ戻らない。けれど、この人への絶対的な信頼が、心に確かな灯火をひとつ戻していた。
* * *
その夜遅く、リラは一人で、本を開いた。
ページをめくる。文字は、ちゃんと目に入る。けれど、どこにも物語が浮かばない。かつては行間から騎士や竜が飛び出してきたのに、今はただの紙と、ただのインクが、そこにあるだけだった。
(壊れてしまったのかしら、私)
そう思いかけて、リラは気づいた。指先が、まだページを丁寧にめくり続けている。習慣が、体に沁みついていた。怖くても、何も想像できなくても、手は、本を手放さなかった。
手が動いている、ということ。それが、今夜の自分にたしかにあるものだった。物語の言葉では、まだ何も包めない。けれど、手は知っていた。
(カイは、三度も異世界に放り出されてきた)
一度目も二度目も、あの人は今夜の自分と同じ重さの世界をくぐり抜けてきたはずだ。それでもナイフを握り直して、誰かを守ることをやめなかった。
(想像力は、今は要らないのかもしれない。今は——覚えていることだけで、十分)
知識は、消えていなかった。水場の場所も、古い英雄譚の地理も、千年前に勇者が使ったという戦術も、全部まだ、ここにある。本で読んだだけの、行ったこともない土地の地図。けれど、どんな偵察兵の報告より、たしかな地図。
炎が消えても、薪は残る。
リラは、本をそっと閉じた。
* * *
廊下を遠ざかるカイの足音が消えてから、城は静かだった。
アルヴィは窓の外を見ていた。夜空に魔力の流れが読める。その流れが変わっていた。数日前とも、昨日とも違う。
「流れが、変わりましたね」
ルテが、静かに言った。「どちらへ」
アルヴィは、少し間を置いた。
「まだ分からない。でも、動いている」
「好機ですか。危機ですか」
「どちらでもある」
そう言って、アルヴィは窓辺を離れた。ルテは追わなかった。聞けることは聞いた。聞けないことは、今夜は聞けない。夜はそこで閉じた。




