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無垢なる進言

リラの地理知識と、旅の指針となった古い本の導きにより、カイたちはついに、ガルドス軍の侵攻が迫る小国の王都ルミナリアへとたどり着いた。

国境を越える険しい山峰の連なり、急峻な渓谷を縫う行軍の末に視界が開けた時、眼前のルミナリアは息をのむものだった。

リラには、その最初の一瞬、城が揺らいで見えた。陽炎の向こうにあるように、白亜の輪郭が光に溶けて、つかもうとすれば指の間をすり抜けそうだった。長い旅のあいだ、本のなかにしか無かった都が、まだ現実の重さを持たず、熱気の中に浮かぶ像のように、そこにあった。

だが、瞬きをすると、都は確かな質量を取り戻していた。

切り立った白亜の断崖の上に、せり出すように築かれた堅牢な城塞都市。幾重もの防壁が、眼下の平原を睨み据えている。ガルドス軍が国境を越えて以来、ナイラ女王はこの天然の要害へ身を移し、防衛の指揮を執っていた。——カイがエルド・ラインでかつて『王女』と呼んだナイラは、いまは瑠の国の女王だった。

重厚な鉄の城門をくぐり、冷たい石造りの回廊を進む。やがて開かれた謁見の間の大扉の先には、外の張り詰めた緊張とは一線を画す、厳かで静謐な空間が広がっていた。上座の玉座には、この城の主であろう老いた王が、深く沈黙したまま腰を下ろしている。

一歩足を踏み入れた瞬間、リラは思わず足を止めた。

天蓋ははるかに高かった。はめ込まれたステンドグラスから、幾筋もの柔らかな光が天の梯子のようにまっすぐ床へ差し込んでいる。その光の束の真ん中に、その人は立っていた。

凛とした首筋。白い衣は差し込む光を吸って淡く発光して見えた。慈愛に満ちた、けれど決して揺らがない眼差し。その姿を見た瞬間、リラの脳裏に、幼い夜、翠野農場の薄暗いランプの下で夢中に読んだおとぎ話の挿絵が、ぱっと灯った。——魔王が封じられた後の世界で、傷つきながらも民を守り続けた王女。助けを求める者には必ず耳を傾け、決して見捨てない。本棚のなかでいちばん指が黒く汚れるまで、何度も読み返した一冊。そこに描かれていた理想の王女が、目の前の光景と完全に重なった。

——同じだ。

(自分が読んだおとぎ話の王女が、もし本物だったなら、きっとこんな人だ)

物語から切り取ってきたように、ナイラ女王は本物だった。

「よくぞ無事で戻ってくれました、カイ」

謁見の間に広がったその声は、凛とした強さと、すべてを包むような慈愛に満ちていた。その響きが鼓膜を震わせた瞬間、リラの眼の奥が熱くなった。それは描かれた完璧さではなく、一国の運命という重さを背負い続けた人間だけが滲ませる、本物の重みだった。

しかし、リラの視線はすぐに、女王の傍らに控えるもう一人へと吸い寄せられた。

磨き抜かれた甲冑を身にまとい、茶色の髪を短く刈り込んだ、引き締まった体躯の女性戦士だった。その佇まいは、無駄な枝葉をすべて削ぎ落とした一本の鋭い剣のようだった。紹介されるより早く、その名が空間にこぼれ落ちた。

「——ヴェルナ」

カイの声だった。いつもより少し低く、どこか特別な響きを孕んでいた。

その瞬間、リラの呼吸が半拍だけ遅れた。胸の奥の深いところで、名前のつかない何かが、ぎゅっと縮こまる。知的で、凛々しくて、自分にはない大人の魅力に満ちていた。旅の道中、ティアの口から聞いて想像していたよりも、ずっと強くて美しい存在だった。場違いな場所に迷い込んでしまったような気後れに襲われ、リラはほとんど反射的に、カイの広い背中の後ろへ、少しだけ身を隠した。

だが、沈黙を破って再会を果たしたカイとヴェルナの会話は、リラが胸の奥で恐れていたような、甘い種類のものでは決してなかった。

「ヴェルナ、アウレアの仲間たちはどうした」

「ニエルたちとは転移の衝撃で離ればなれになって、まだ行方が分からないの。でも、あなたが無事で本当に良かった。貴重な戦力が戻ってくれたわ」

「ああ。俺もすぐに動ける」

それは、幾度も死線を潜り、背中を預け合ってきた者だけが持つ鉄の信頼——戦友の距離だった。

胸に渦巻いていた霧がすうっと晴れていった。

晴れて、その底に別のものが残った。

省略しても伝わる言葉の速さ。どの単語を落としても会話が欠けない。それは恋の形をしていなかったけれど、積み重なった時間だけが作れるものだった。リラとカイの間にはまだ、ないものだった。

(……妬ましい、とは違う)

リラはその残ったものに物語の名前をつけなかった。つけずに胸の棚に置いた。静かな宿題として。

だが、再会を味わう猶予さえ、逼迫した戦況は許してくれなかった。ナイラ女王の重い口調から語られた現状は、絶望そのものだった。

「参謀のジェイルが、ヴォルケン内部で新兵器の調整を進めているとの報告が入っています。……ですが、ガルドスの恐ろしさは、それだけではないのです」

中央の作戦卓に広げられた羊皮紙の地図を、ヴェルナが厳しい表情で指し示した。

「数日中に、複合軍勢がこの王都へ向けて一斉に進軍を始めるわ」

「そんな……この城の兵士の数は、その数分の一もいないのに!」

「ええ。念機の数でも、こちらが動かせる機体はわずかに数機のみ。正面からぶつかれば、この王都は一日で灰になるでしょう」

ヴェルナの冷徹な分析が、謁見の間に重苦しい沈黙を落とした。リラは、旅の道具が詰まったカバンを強く抱いたまま、床を見つめて俯いていた。

(私のような、ただの農場の孤児に……本当に、これを言う資格があるのだろうか)

頭の片隅で、古い癖が、鎧を持ってこようとした。——伝説の軍師の生まれ変わりが、今こそ千年の眠りから……!

(違う。今のは、いらない)

リラは、その鎧を棚に戻した。物語の言葉で包んだら、この震えごと、嘘になってしまう。震えたまま、言うのだ。リラ・マーレンの言葉で。

しかし、その下向いた視線の裏側では、驚異的な記憶力が、猛スピードで脳裏のページをめくり続けていた。——かつて勇者たちは、これほどの多勢に無勢を、どう切り抜けたか。掠れた地図の文字、克明な過去の戦略、英雄譚の余白に旅人が残した小さな注釈にいたるまで。脳内の本棚から、次々と情報が引き出されていく。

何かがある。絶対にある。でも、それをここで口にするのは、本当に自分でいいのだろうか。目の前には高貴なナイラ女王がいて、百戦錬磨のヴェルナがいて、頼れるカイがいる。誰もが、自分よりはるかに戦いを知っている。

(でも——これを知っているのは、世界中で私だけだ)

それもまた、紛れもない事実だった。

リラは一度だけ、ゆっくりと深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たし、覚悟が定まる。

出ようと決めたわけではなかった。足が、先だった。気づいた時には、もう動いていた。

トツ、と静かな足音が床に響いた。リラは一歩、前へ出た。

「……いいえ。まだ諦めるのは、早いわ」

小さな、けれど鈴の鳴るようによく通る声が、静まり返った謁見の間に凛と響いた。ナイラ女王が、その赤茶の髪の少女へ、静かに視線を向けた。

リラはカバンを両手で強く抱えたまま、ナイラ女王の真っ直ぐな瞳を、正面から見返した。視線を逸らさなかった。ここで逸らせば、物語の頁は永遠に閉じてしまう——そんな気がしたからだ。

「ナイラ様。……私に、この絶体絶命の戦いをひっくり返す、ひとつの考えがあります」

「あなたが……? 翠野農場のリラ、と言いましたね。どのような策が?」

「ガルドスの軍勢は強力ですが、彼らはこの世界の古い歴史を知りません。この王都のすぐ東にある“迷いのヴァルハラ森”……おとぎ話では、かつて魔王の軍勢を誘い込み、勇者一行が地形の罠で一網打尽にしたという、底なしのダンジョン遺構が眠っているはずです。そこへ、彼らを誘い出すのです」

リラの口から淀みなく飛び出したのは、この世界の住人すら、とうの昔にただの御伽噺として忘れ去っていた、千年前に勇者が遺した「生きた戦術」の再現だった。

カイは、一歩前に出たリラの横顔を、静かに見つめていた。さっきまで気後れして自分の背中に小さくなっていた少女が、いまは一国の女王を前に、凛と胸を張っている。

カイの唇が、細く弧を描いた。何も言わずに、どこか誇らしげに、不敵に笑う。

「やれやれ……やっぱり大したパートナーだ。ヴェルナ、俺たちの“地図”の言う通りに動いてみる価値は、大いにあるぞ」

ナイラ女王が、静かに頷いた。謁見の間に淀んでいた重い沈黙が、ようやく動き始めた。

謁見の間の上座には、もう一人、この城の主がいた。リラが入った時から玉座に腰を下ろしていた、あの老いた王である。

老王は、世界が混ざったあの日から一つだけ決めていた。剣を執るのは自分ではない、と。城は王のもの、この戦の采配は客将たる女王のもの——だから軍議のあいだ、王はただ黙って聞いていた。口を挟まないことが、いまの王の役目だった。

リラはもう一度だけ深呼吸をして、今度はこの国の王へと向き直った。

「一つ、お願いがあります。この城の書庫にある本を——できれば、すべて使わせていただけませんか」


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