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第拾肆話 夕暮れの人波

 あの一件から、数日。

 町は何事もなかったかのように、いつも通りだった。


 夕暮れの空気は、昼間より少しだけ軽い。

 店の暖簾を下ろした篝は、帳簿を閉じながら静かに息を吐いた。


「本日の仕入れですが、いくつか在庫が心許なくなっておりますね」


 淡々とした声に、千隼は読んでいた本をぱたんと閉じる。


「行ってきます」


「おや。では、私もご一緒いたしましょう」


 断る理由も特にない。千隼は小さく頷いた。


 

    *



 外に出ると、街はまだ人の気配が濃かった。

 夕方と夜の境目――逢魔が時には、まだ少し早い。


 並んで歩く。

 特に会話があるわけでもない。


 けれど、その沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。



 商店街に入ると、篝は手慣れた様子で買い物かごを取る。


「醤油、味噌、あとは……」


「紙袋も、もう少ないです」


「ええ、助かります」


 いつものやり取り。

 いつもの動き。


 篝が商品を選び、千隼がさりげなく不足を補足する。

 それだけのことなのに、気づけばすっかり役割は固まっていた。

 

 ――の、はずだった。


 ふと、千隼の視線が甘味の棚で止まる。


 色とりどりの包装。

 季節限定の文字。


 ほんの一瞬。

 視線が、わずかに留まった。


 篝は何も言わない。

 何も言わないまま、棚から菓子をひとつ取り、買い物かごに入れた。


 千隼がそれに気づいたのは、レジを通ったあとだった。


「……先生」

「はい」


「これ」


 袋の中を指さす。


「入れましたが」


「頼んでないです」

「ええ」


 篝は、いつもの丁寧な調子で続ける。


「ですが、少々お疲れのようでしたので」 


 千隼の表情が、年相応に揺れた。

 少しだけ口を尖らせて。


「……無駄遣い、です」


「そうですか」


 篝はそれ以上何も言わない。

 ただ、口元がほんの少しだけ緩んだ。


 

 店を出ると、空はすっかり群青に沈みかけていた。

 街灯がぽつ、ぽつと灯り始めている。


 帰り道。

 人通りの中を、二人で歩く。


 袋の中で、菓子の包装がかすかに擦れた。


 千隼はそれを気にするでもなく、いつもの明るい表情で前を向いている。


 篝もまた、静かな足取りのまま、隣を歩いていた。



 ――人混みの向こう側。



 一人の男が、立ち止まっている。


 ありふれたスーツ姿。

 年の頃は三十前後。


 どこにでもいそうな、何の特徴もない男。


 ただ。


 その視線だけが、まっすぐに二人を追っていた。


 人の流れが、男の前を横切る。

 肩がぶつかり、背中が遮り、それでも――


 男の目だけは、一度も逸れない。

 


 やがて。



 千隼と篝の背中が、人波の向こうへ遠ざかっていく。

 そのとき初めて、男の口元が、わずかに歪んだ。


 すると、人の流れに紛れるようにして男の姿は静かに消えた。

 


 ――誰にも、気づかれないまま。


 

 夕闇だけが、ゆっくりと街に降りていく。

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