第拾参話 迷いの窓
月明かりが、床の紙片をぼんやりと照らしていた。
篝は一枚の符を取り出し、指先で端を揃える。
それから、低く息を吐いた。
「千隼」
「はい」
「この部屋の中心に立ってください。窓には背を向けて」
千隼は言われた通りに動く。
机の列の間を抜け、部屋の中ほどに足を止めた。
後ろで、窓ガラスがかすかに鳴った気がした。
「……先生、何をするんですか」
「視線を、引き剥がします」
篝の声は穏やかだった。
だが、手元の符に指先をあてる動作だけが、いつもより慎重だった。
「積もった視線は、払えばいい——というものではありません」
「押さえつければ、形を変えて滲み出す」
「……じゃあ」
「流すのです」
千隼は少し考え、それから小さく尋ねた。
「どこに」
篝は答える代わりに、窓へ向かって一歩だけ進んだ。
月光の中で、符に細い墨の線が走っているのが見えた。
篝は窓の端に指先を触れる。
ひやり、と。
室内の空気が、一拍だけ沈んだ。
「——視線というものは、本来どこかへ向かう力を持っています」
「だが積もりすぎると、向かう先を失う」
篝の指が、窓枠に沿ってゆっくりと動く。
符の端から、かすかな光が滲んだ。
「ですから——」
「出口を、作ります」
*
千隼には、その瞬間のことが上手く説明できない。
音がしたわけではなかった。
光が爆ぜたわけでもなかった。
ただ。
背中に感じていた、無数の重みが——
すう、と。
引き潮のように遠のいた。
息が、深く入ってくる。
「……あ」
思わず声が出た。
篝は窓の前に立ったまま、動かない。
肩の輪郭だけが、月の光を受けて細く光っている。
「先生」
返事はなかった。
千隼は、一歩踏み出す。
篝の横顔が見えた。
目を閉じている。表情には何もない。
ただ、わずかに——疲れたような、静けさがあった。
「……先生、大丈夫ですか」
「ええ」
目が、ゆっくりと開く。
いつもの、穏やかな目だった。
「少し、手間取りました」
「手間取った、って」
「術は問題ありません。ただ」
篝は一度だけ窓を振り返った。
ガラスには、月と、二人の姿だけが映っていた。
無数の目は、もうない。
「この学校に積もっていた視線の量が——少々、想定より多かったものですから」
千隼は、その横顔をしばらく見ていた。
疲れた様子を見せることは、めったにない。
見せても、すぐに消す。
「……先生」
「はい」
「今日の依頼主の方は、もう大丈夫ですか」
篝は、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「ええ。先ほどの術で、当該区域の窓はすべて処理しております」
「当該区域、って——この学校だけじゃないんですか」
「……念のため、いくつか」
千隼は目を丸くしかけて、やめた。
篝が「念のため」と言うとき、大抵それは念のためではない。
「……先生、かなり疲れてますよね」
「問題ありません」
「問題ある顔してます」
篝は少し黙った。
それから、小さく苦笑するように目元を和らげた。
「……千隼は、よく見ていますね」
「先生が隠すのが下手なんです」
「そうですか」
柔らかな声だった。
否定は、しなかった。
*
理科室を出て、廊下を戻る。
夜の校舎は、行きとは少し違う顔をしていた。
窓は、ただの窓になっている。月と、廊下の影だけが映っている。
千隼は、ふと足を止めた。
「……先生」
「はい」
「さっき術をかけるとき——何か言ってましたか」
篝の足が、ほんの一拍だけ遅れた。
「……呪文の類でしょう」
「違います。もっと小さい声で」
篝は答えない。
千隼は追及しなかった。
ただ、聞こえていたのだ。
篝が窓に指先を触れたとき、ほとんど息のような声で
——『どうか、安らかに』
そう、言っていた気がした。
*
校門を出た頃には、夜風が少し冷たくなっていた。
「先生、あの、依頼主の方——記憶はなくなりますか」
「ええ。萬屋への来訪に関わる記憶は、然るべき形に整理されます」
千隼は少しだけ、黙った。
「……そうですか」
それ以上は言わなかった。
篝も、何も足さなかった。
ただ、路地を並んで歩く。
しばらくして。
「千隼」
「はい」
篝は、前を向いたまま言った。
「今夜は、よく動いてくれました」
千隼は少し照れて、視線を足元に落とす。
「……重くて、動けなくなるかと思いました」
「動けていましたよ」
「気合いです」
「……そうですか」
篝の声が、わずかに和らいだ。
「それは、頼もしい」
夜の路地に、二人分の足音が続く。
萬屋の暖簾が、遠くに見えてくる。
千隼は、ふと空を見上げた。
雲が切れて、星が見える。
先生は何を探しているのだろう、とたまに思う。
でも今は、それより先に。
今夜は、確かに誰かを助けた。
千隼は、それだけを胸に残して、引き戸を開けた。
からり、と。
小さな音が、夜の路地に響いた。




