後編
周吾の横顔を見て、キスをしたいと思ったのは彼の部屋でホラー映画を観ているときだった。
思い返すと、このころにはもうだいぶ麻痺していたように思う。月一〇万円という条件付きの恋人だとか……そういう認識が。
ただただ周吾と「友人」という関係ではなくてもいっしょにいられるのがうれしくて、早い話が頭の中がお花畑の状態だった。
「しゅ、周吾……あの」
「うん?」
ヒロインが悲鳴を上げるテレビの画面から視線を外し、周吾の垂れ目がちの目がわたしに向けられる。周吾がわたしを見ている。それだけでわたしはとろけそうな気分になる。
「キス、したい」
さっと頬に熱が集まる。舌がもつれかけて、あやうく噛むところだった。
「し、しても、いい?」
雰囲気が出るから、と周吾の部屋にはカーテンが引かれていて、室内は薄暗かった。わたしたちの姿を浮かび上がらせているのは、周吾の部屋よりずっと暗いホラー映画の画面だ。
わずかな沈黙のあいだにテレビから銃声が二度、響き渡った。ヒロインがまた悲鳴を上げる。
「季和……」
「あ、ご、ごめん。いやならいいんだけど」
わたしは恥ずかしくて思わずうつむいた。恥ずべきはそのようなことではないだろうということは、そのときのわたしの頭からは見事にすっぽ抜けていた。
「……あのさ、聞きたいことがあるんだけど」
顔を上げて周吾を見る。いつもは優しげな周吾の瞳は、今は真剣な色を帯びてわたしをまっすぐに捉えていた。その様子に、わたしは意味もわからずに緊張する。直感的になんらかの危機というか、そういうものを感じ取ったのだろう。
「俺と季和ってもう何度もキスしてるよな?」
周吾の言葉にわたしはちょっと考えてから、すぐにうなずいた。
わたしが月一〇万円の恋人を持ちかける前から、周吾はそう頻繁ではないけれどもわたしにキスをすることがあった。それはたいていはふたりきりのときで、場所は周吾の部屋かわたしの部屋。なんらかの合図があることはなく、気まぐれなネコのように周吾はわたしと唇を重ねた。
「……それについてなにか思うところはなかったわけ?」
「え? ……ううん」
今度は横に首を振る。すると周吾の顔がわずかに険しくなり、眉間にしわが寄る。よくわからないが、彼の機嫌を損ねてしまったことはたしかで、わたしはにわかにあわてた。
「ご、ごめん」
「謝られても困るんだけど」
もう一度謝罪の言葉を口にしようとして口をつぐむ。そうなればなんと言えばいいのかわたしはわからなくなって、たちまちのうちにふたりのあいだにはもったりとした沈黙が満ちた。
「俺はさ」
「う、うん……」
「季和と付き合ってるつもりだったんだけど」
「……今は付き合ってる、よね?」
「そうじゃなくて」
はあーっと周吾が深いため息をつく。それから「ああもう」と言いながら一度自分の髪をかき混ぜる。
わたしはそんな周吾の行動ひとつひとつに反応してびくびくとしてしまう。
「だから、季和が変な提案持ちかけて来る前から俺は付き合ってるつもりだったの!」
「――え?」
え? わたしはそう間抜けな声を出すことしか出来なかった。
変な提案――月一〇万円の恋人契約をする前から、周吾はわたしと付き合っている……つまり恋人同士のつもりだった?
「え? え?」
「っていうか季和、なんで『月一〇万で恋人に』とか言い出したわけ?」
周吾の詰問するような口調にわたしは黙り込んでしまう。「友達じゃない」という周吾の発言を盗み聞きしたことを、彼は知らないのだ。
「どうせおばさんの案だろ? 金で釣るなんて変な案はさ」
う、と珍妙な声を出してしまう。周吾はほとんどのことはお見通しなのかもしれない。その上でこうしてわたしを責め立てるように問い詰めているのかもしれない。
そう考えるともうなにもかも吐き出してしまったほうがいいのかもしれない。そんな気分にさせられる。
それはわたしが黙りこくっているあいだにも、どんどん険しくなる周吾の顔によって、ぐいぐいと背を押されるようにその考えへと天秤はかたむく。
「今、全部吐いたら」
「う、うん……」
「金で俺のこと釣ろうとしたこととか全部、怒らないから」
周吾の言葉でわたしの頭の中の花畑は、一気に枯れた。当たり前だが金銭で相手を釣るという行為は、考えるまでもなく大変に失礼な行いである。
わたしの貧弱すぎる脳みそは、周吾と友人ではなかったというショックを受けたところで完全に止まっていたらしい。そんなちょっと考えればわかるようなことすら、思い至ることが出来なかったのだから。
周吾は「怒らない」とは言ったけれど、きっと、恐らく、この話が終わったらわたしたちの関係は変わってしまうに違いなかった。
つまり「友達」じゃなくて、偽りの「恋人」関係も終わって、わたしは周吾の「なにか」ですらなくなる。
けれどもすべては自身が招いた結果だ。これ以上周吾をいら立たせるのも気が引けて、わたしはすべてを白状しようと心に決める。
「……周吾が」
「俺が?」
「わたしのこと、『友達じゃない』って言ってるのを聞いて……」
「なんだそれ。いつの話?」
「えっと、一ヶ月くらい前に、嶋くんに言ってるのを、聞いちゃって……」
嶋、というのは周吾の親友の名前だ。
周吾はわたしの言葉を聞いて考えるようなそぶりを見せたが、どうも本気で心当たりがないらしい。わたしは一ヶ月弱経っても未だに鮮烈に思い出せるけれど、周吾にとってはどうでもいい会話なのだと思うと、なんとなく悲しくなった。
「……それで、それがなんで月一〇万でどうとかいう話になるんだ?」
「『友達じゃない』って聞いたらどうしていいかわからなくなって、それでお母さんに相談したら」
「あー……もうなんかわかった」
周吾がまたため息をつき、わたしはびくりと肩を震わせる。呆れたんだろうなと思うと、涙も出ずにただ粛々と絶望的過ぎる今の状況を受け入れられた。
「ごめんなさい。周吾のことお金で釣れるとか思ったわけじゃなくて……そういうこと思ってたんだって思われても仕方ないのはわかるけど。えっと、その」
「落ちつけよ季和」
「ご、ごめん」
「……俺が最初に言ったこと忘れてない?」
「最初?」
色々なことが一度に押し寄せて来たために、馬鹿なわたしは始めにどんな会話をしたのか、まったく思い出せなかった。
周吾はそれを察したのか、真剣さを帯びた目でもう一度わたしを見る。
「俺は季和と付き合ってる……つまり恋人同士だと思ってたって話」
「あ、うん、そんなこと言ってたような……」
「キスしたのだって一度や二度じゃないんだからさ」
「うん……」
「季和も俺と同じ気持ちだと思ってた」
「えっと」
「でも季和は俺と恋人だとは考えてなかったんだ」
「……うん」
すでに放置されて久しいテレビの画面はエンドロールに入ったのか、ホラー映画にふさわしい、どこか怪しげな旋律を奏でている。
「なんで?」
「なんで、って」
「俺のことだれにでもキスするようなやつだと思ってたわけ?」
「ち、違う!」
「じゃあ、なんで?」
周吾のこんな顔を見るのは初めてかもしれない。そう思うとわたしの緊張も度合を増して、心臓が嫌な早鐘を打つ。
「その、なんていうか、言い方が思いつかないんだけど……セフレ? 的な? なんか、そういうのだと思って」
「……つまり遊びだと?」
「遊びとか、そういうのじゃなくて。その、気まぐれみたいな……」
「似たようなものじゃん」
「う……」
再度、周吾のため息を吐く音がうつむくわたしの耳にも届いた。
「俺はさ、季和がキスしても嫌がらないし、もう恋人のつもりだったけど違ったんだな」
「……はい」
粛々とうなずく。
周吾の声音は、怒っているというよりもどこか呆れているような、落胆しているような、そんな感じであった。
「じゃあ改めて言うから、ちゃんと聞いて、返事して」
「はい」
「俺は季和が好きだ。だから恋人になろう」
「はい……?」
「おい、なんで疑問形なんだよ」
枯れた花畑に周吾の言葉が浸透している。それと同時にこれまでの流れがぱーっと走馬灯のように脳内を巡った。
そういえば、という感じで。そういえば周吾の言葉を総合すると、ずっとわたしのことを恋人だと思っていたと、そういう話になるのだなと、馬鹿なわたしは今さらながらに話を繋げられたのだった。
周吾がわたしのことを好き?
それで、恋人に?
恋人?
「返事は?」
「は、はい。えっと、周吾はわたしのことが好き、なの?」
「そうだけど」
「友達じゃないのに?」
「なんでそこに戻るんだよ」
「えっと、えっと……ごめん。頭がこんがらがって……」
先ほどまでオーケストラが旋律を奏でていたテレビは、今や沈黙している。そしてカーテンを引いた薄暗い室内で、隙間から洩れ出る陽光だけが向かい合うわたしたちの姿を浮かび上がらせていた。
「あの、じゃあなんでわたしの提案を受け入れたの? 月一〇万っていう……」
「あー、それはなんていうかショックで」
「ショック?」
「俺は季和と付き合ってるつもりだったのに季和は違ったんだなっていう。まあ意趣返しみたいなもん。それに恋人ごっこしているうちに季和が気づくと思って」
「え?」
「恋人ごっこする前とやってることが変わらなかったら気づくと思ったんだよ。……結局全然気づかなかったみたいだけどさ」
思い返せば周吾の言う通りだった。
毎日というわけではないけど昼食をいっしょに取ることは少なくなかったし、周吾がわたしの手を取ることもたまにあった。今までふたりだけで色んなところへ出かけたことだってあった。そしてキスも。
実のところ一〇万円を払う前とあとで、なにひとつ変わっていなかった。違う点はと言えば、わたしの認識くらいのものである。
そこまで考えて思うのは、わたしは相当な馬鹿だという純然たる事実であった。
「季和は勉強はそこそこ出来るのに人間が絡むとホントだめだな……」
「……返す言葉もございません……」
「で」
「で?」
「返事。まだ貰ってないんだけど」
今度は間違えないように、今までの周吾の言葉を何度も頭の中で繰り返す。そうしているあいだも、周吾はじっと真剣な面差しでわたしを見ていて、決してせかすようなことはしなかった。
「……わたしも、周吾が好き」
「うん」
「恋人、になりたい」
「……俺はもうなってたと思ってたんだけどねー」
「う」
痛いところを突かれたと黙ってしまったわたしを見て、周吾は柔らかく笑った。
「季和からも言ってくれて良かった。もし嫌とか言い出したら月一〇万で恋人になれって言おうと思ってたから」
そう言いながら周吾は通学カバンを引き寄せると封筒を取り出す。わたしが渡した一〇万円が入った袋であることはすぐにわかった。わたしは恥ずかしい思いをしながら、周吾が差し出した封筒を受け取る。
「季和、好きだからキスしたい」
「え、あ……わ、わざわざ言わなくても」
「季和は言わないとわからないみたいだから」
周吾にそう言われてしまっては反論出来ない。
「……あ、そうだ」
「ん?」
「わたしのこと『友達じゃない』って言うのは……」
「そりゃ恋人は『友達じゃない』だろ? たぶん嶋は俺のことからかって言ったんだろ。わざわざ付き合ってるとか言いふらしてなかったからさ」
どうやらわたしはひとりできりきり舞いしていたようである。そう思うと今までの行いも含めて恥ずかしさが倍になって湧き上がってくる。
「恥ずかしい」
「今さら?」
「うん。今さら。……わたしはこんなんだけど、本当にいいの?」
「恋人になること?」
わたしが静かにうなずくと、周吾は口元をゆるめた。
「季和は目が離せないからな。俺が恋人としてちゃんとそばについててやるよ」
そう言うといつものように周吾はわたしの唇にかすめるようなキスを送った。
今までに頑なに気まぐれだと思って、思うに深く考えないようにしていた行為が、恋人同士のものだと思うと、なんだかとてつもなく幸福な気分になれる。
「……ふつつか者ですがよろしくおねがいします」
わたしがそう言うと、周吾はにっこりと笑って肯定の言葉の代わりとでも言うように、もう一度キスをしてくれた。