卒業式
ブレイジャー夫妻は、約束していた日にキュルスを引取りに来た。その日は兄も居たが、キュルスは兄とほとんど会話をしなくなっていた。
あの高級車の後部座席に乗せられ、キュルスは俯いて車の発進を待った。外ではブレイジャー夫妻が兄、そしてオーケンと一緒に話をしている。
オーケンが何度も心配そうに視線を送ってくる。キュルスはそれに気づかぬふりをして、じっと自分の足を見つめていた。
やがて話が終わったらしい。ブレイジャー夫妻が車に乗りこみ、窓が開けられる。
「キュルス坊ちゃん」
オーケンが名前を呼ぶが、キュルスは黙っていた。すると、
「キュルス」
兄の声がした。キュルスは思わず其方を見る。兄は寂しそうな笑みを見せた。
「ごめんね」
窓が閉まる。柔らかくて、何処か儚い兄の姿を、キュルスは窓越しに目に焼き付けた。
*****
それから、キュルスはブレイジャー夫妻に育てられた。大きなタワーマンションの最上階に住むことは、一軒家しか経験をしたことが無いキュルスにとっては、とても新鮮な経験だった。
ブレイジャー夫妻は金持ちだった。キュルスが必要に感じたものは、すぐに察して買ってきてくれるのだ。それだと言うのに、決して気取った生活はしない。何にでもお金をかけていた母とは大違いだと思った。
キュルスは大学に進むことになり、兄と同じ大学に行くことになった。他の選択肢もあったが、兄の辿った道を、自然と体が辿りたがった。
勉学に励み、悪くない成績で卒業した。ブレイジャー夫妻は卒業式に来てくれて、キュルスは彼らと共に門の前で写真を撮った。
「この後、何処かに食べに行こうと考えているんだ」
「良いですね」
ルイスの提案にキュルスが頷くと、夫妻は遠くに知り合いを見つけたらしい。経営している企業の人だろう。自分が出る幕は無い。
キュルスは煙草に火をつけた。夫妻に黙って始めたことの一つである。自然と、兄が心配して止めてくれるのではないかと思ってしまう。もちろん、そんなことはあるわけがない。兄とはもう、連絡すらしていないのだ。
離れていくブレイジャー夫妻の背中を目で追いながら、キュルスは自分が数年を過ごした学舎を見上げた。総合大学というだけあって、立派な佇まいをしている。此処で兄は大事にするべき妻と友を見つけ、それらに連れて行かれてしまった。
自分がもし、もっと早く生まれていたら。
兄と一緒に研究グループに入って、そして一緒の会社に入って、ずっと、永遠に傍に居られたのかもしれないのに。
兄は自分のものになったかもしれないのに。
キュルスが煙を空に吐いた時だった。
「卒業おめでとう」
突然後ろから声が聞こえてきて、キュルスは飛び上がるほど驚いた。弾かれるようにして振り返ると、兄が立っている。キュルスは目を疑った。
どうして兄が此処に居るのだろう。兄は自分が入った大学など知らないはずだ。
「君が僕の後を追うことは何となく想像出来ていたからね」
ナッシュは笑って、学舎を見上げる。
「懐かしいなあ。僕もすっかり大人になったみたいだ」
「兄さん、会社は?」
「許可をもらってね。仕事で近くまで来る用事があったから、寄ってもらったんだ」
キュルスはじわりと視界が滲んだ。もう二度と会えないと思っていたのだ。まさか、兄が自分から来てくれるなんて。
「ルイスさんたちとは仲良くやっているのかい?」
「うん。これから恩返しをするつもり」
「そうか。なら良いんだ。君は君らしい人生を歩むんだな」
兄は言って、チラリとキュルスの手の中にある煙草を見た。
「吸ってるのかい」
「うん......でも、ルイスさんたちには秘密にしてるんだ」
キュルスは肩を竦めた。兄に心配されたくて始めた煙草だが、今はもう、気を落ち着かせるために吸っているという理由の方が膨らんでしまった。
キュルスは期待して兄を見る。
「吸いすぎちゃダメだよ。僕の友達も凄いヘビースモーカーなんだ。会社は禁煙だっていうのに、吸うんだから。お手上げだよ」
チクリと胸がいたんだ。再び学舎を見上げた兄の目を盗んで、辺りを見回した。遠くに黒い車があった。運転席には、誰かが乗っている。黒髪の、スーツを着た男だった。
「兄さん」
「何だい」
「会社、楽しい?」
キュルスは兄に目を戻す。兄はまだ学舎を見上げていた。思い出に浸っているようだった。それを邪魔することで、また、あの顔を向けられるかと少しの期待を抱いたが、彼は柔らかい笑みで自分を見た。
「まあね」
また、胸はいたんだ。もう、あの顔は見られない気がした。
兄との一連の会話が済んだところで、ブレイジャー夫妻が戻ってきた。キュルスは慌てて煙草を隠した。
ルイスはナッシュを見ると、「お写真、一緒にどうですか?」とカメラを見せる。
「撮ろうよ、兄さん」
「もちろん」
兄が微笑み、肩を抱き寄せてきた。キュルスは自分の顔がこれ以上無いほどに綻んだのを感じた。夫妻の瞳に映る自分は、見たこともない笑みを浮かべているはずだ。
*****
それから、兄には会っていない。
キュルスは消えたモニタールームの画面を見つめていた。ルイスがあの日の写真を兄に送ってくれたというが、兄とは連絡が無いままだ。
また、いつかのように仲の良い兄弟に戻ることができたら、どんなに良いだろう。
兄があの日、何故自分の家を嫌いと言ったのか。全て話してくれる日は来るのか。
キュルスは壁に預けていた体を起こし、腕時計を見る。
仕事に戻らなければならない時間だ。
いよいよ兄に会うことは無いのかもしれない。
思い出してもらえるだけでキュルスは満足だった。卒業式に来てくれた日は、本当に嬉しかったのだ。
兄の中に、自分はまだ存在しているのだと感じられた。
自分の中にも、まだ兄は強く存在している。
自分たちを強く繋ぎ止める鎖は、まだ腐っていないのだ。永遠に腐らせやしない。それが、この会社に居る自分の存在理由なのだ。
キュルスは暗い廊下を歩いて行った。




