兄弟
晩酌をしている時の母親の邪魔をしてはならない。
それがフェネリー家の暗黙のルールであった。
繊細なレースがあしらわれた白いネグリジェに、赤いワインはよく映えた。チーズを片手に、テーブルの上に飾られた美しい薔薇を眺める母の姿は、一枚の絵のように美しかった。白い指が摘み上げるチーズ、薔薇しか映らないガラスのような瞳。母の代名詞はその名画の中に詰め込まれている。
キュルスは美しい母親に見惚れていた。壁から顔を覗かせ、美しい母親のその姿を心行くまで堪能するのだ。そして、それだけでは自分の欲は満たされなくなる。その瞳に自分も映してほしいと考えるようになる。最初は些細なことをして気を引こうと試みるのだ。
隠れている壁を三回ノックしてみる。それでも母は気づかない。薔薇しか目に映さない。
続いて、部屋の中に足を踏み込んで、ネグリジェの裾をそっと引っ張ってみるのだ。母は足を少し浮かしただけで、全く自分の方を向こうとはしない。子猫が足にじゃれているとでも思っているような仕草だった。
キュルスはそこでようやく声を出す。
「お母さん」
しかし、母親は反応しない。
「お母さん、おやすみなさい」
今度は一言添えた。母親の喉奥から、呻き声に似た低い音が絞り出される。それが返事だった。それと同時に合図でもあった。
これ以上邪魔をしてはならない。
母親の晩酌を邪魔すると、とんでもないことになる。
どうなるかは知らない。
だが、キュルスはその警告音を聞くと静かに母から離れるのだ。ワインがグラスの中で揺れる音を背に、彼はダイニングから出た。
廊下は暗い。この家は、大半を闇が支配している。父が生きていたころに雇っていた使用人は、ほとんどが解雇されたという。今フェネリー家で雇っているのは、一人の庭師のみだ。
フェネリー家は、人里から少し離れた林の中にあった。レンガを基調とした、絵本の中に出てくる魔女の家のようなデザイン。家自体の大きさはそこまでない。だが、広いのは庭だった。園芸が趣味の母は、庭を薔薇の花で埋め尽くすのだ。一年中薔薇が楽しめるように、専用の施設まで設けるほどである。
薔薇は母の代名詞だ。美しいものであり、棘がある。触れることは許されない、禁断の領域を持っている。母に似ているところが多い。
父が病で亡くなり、庭の薔薇は母ではなく、庭師が手入れをするようになった。キュルスは庭師がする作業を近くで見ていたり、時には手伝ったりした。腰の曲がった、年老いた庭師だが手つきは職人そのものだ。話によれば、過去にはどこかの王室専属の庭師をしていたという。
そんな庭師も、夜になれば家に帰ってしまう。キュルスの遊び相手は、この家には少ない。
晩酌を楽しむ母から離れ、彼は暗い廊下を進んだ。赤い絨毯が敷かれた、どっしりとした黒い木の階段を一段一段、慎重に上る。小さな体では、階段の一段すら高い壁のようだ。
彼は幼い足取りで階段を登り切り、廊下を左に行った。右に行くと母の部屋と父の部屋がある。二人とも寝室は一緒だが、書斎は分けて持っていた。父が亡くなってからは、広いベッドで母が一人で寝ているのだろう。
キュルスの部屋は、階段を上った正面の扉だ。彼は自分の部屋にいることが退屈だった。大量に買い与えられた玩具は、彼の興味を全く惹かなかった。
左の扉は、兄の部屋だ。奥から温かい光が漏れている。キュルスの胸は、その光を見ると高鳴る。母を見ていた時と同じような、あの感覚が呼び戻される。
扉を二回ノックする。奥から「はい」と声が聞こえる。兄はきちんと返事を返してくれる。それだけでキュルスの顔には光が差す。
ドアノブを、目いっぱい手を伸ばして捻る。やがて、扉の奥から漏れる光の量が多くなって、兄が姿を現す。窓辺のデスクで、教科書を読み更けている兄だ。母と同じ美しい長髪を持つ、兄だ。色白で、彼もまた名画の住人のようだ。
「おや、まだ起きていたのかい」
兄の顔が上がって、キュルスを見た。母とは違う反応。足元でじゃれる猫を、そっと抱き上げてくれるのは兄だけだ。
「もしかして、母さんの晩酌の邪魔をしたんじゃないだろうね」
兄は教科書を置いて立ち上がると、キュルスが入って来た扉を閉めた。
「あれほど、あの時の母さんには近づくなって言っているのに。全く、君はいたずらっ子なんだから」
キュルスは兄の部屋を見回す。自分の部屋より一回り広くした部屋だ。本棚、デスク、クローゼットが同じ木で統一されたシックな色合いの部屋。黒が目立つ部屋の中に居る白い兄はよく映える。母とはまた別の映え方だ。
「さあ、今日はどれを読もうね」
兄はキュルスの前にしゃがんだ。軽く腕を広げられ、キュルスはきゃっきゃと笑ってその腕の中に飛び込む。落ちないように手を正しい位置に回されて、抱き上げられる。こうされることで、幼いキュルスは本棚と同じ目線になることができる。自分の部屋には子供用の、背の低い本棚があるが、キュルスはそこの本をすべて兄の部屋に置いていた。
「これがいい」
キュルスは兄の腕の中から本を指さした。兄が「これ?」と本を取ってくれる。今日は宝石の図鑑だ。表紙には美しい宝石が並んでいる。それだけでキュルスの心は湧き上がる。
兄はその本を持って、キュルスをベッドに連れて行く。キュルスは決まって壁際だ。母親が入って来た時にバレないようにするためだという。兄の体に守られる感覚が、キュルスは大好きだ。
壁と兄の体に挟まれて、キュルスは図鑑の文字と写真を目で追う。ダイヤモンドやトパーズは、母や兄の目にそっくりだ。ルビーは薔薇を思わせる。
兄の声が、ひとつひとつの宝石の説明を丁寧に読み上げていく。キュルスはそのうち、うとうととし始める。兄の髪が、顔にかかってくしゃみをすると、柔らかい笑い声がする。兄が「ごめん」と言って耳に髪をかけ直す。
キュルスは定期的に髪を切るが、兄は髪を切ることを拒む。キュルスがまだ生まれていない頃、彼は母に髪を切ってもらっていたそうだ。その時に、片耳を切られたそうでそれからは髪を切ることに抵抗を覚えたのだとか。兄の耳には、その時の傷がまだ残っている。時々キュルスが触れて痛いか問うと、兄はくすぐったいと言うのだった。
兄の声が遠くなっていく。まどろみの中で、キュルスはできる限り兄の体を手繰り寄せた。朝になると、自分の部屋のベッドで一人で寝ている。兄が運んでくれるのだろうが、その虚しさというのは、言葉に言い表すことができなかった。
キュルスは常に誰かの体温を求めていた。母がだめならば庭師。庭師がだめならば、兄。もっとも自分に体を寄せてくれるのは兄だった。キュルスにとって、兄のナッシュは家族以上に特別な存在だったのだった。




