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Esperanto  作者: 葱鮪命
ベティ編
2/39

銀髪の男

 24年前に見つかった未知の文書「文書001」。どんな専門家も読むことが出来なかったその文書を読解したのは、ある大学の研究グループであった。内容は、全人類が忘れてしまったという一日が存在しているということ。


 ただし、文書は破られており、そこから下は見つかっていない。


 謎の多い文書の読解のため、その研究グループは政府の協力のもとBlack Fileという会社を立ち上げた。


 その数年後、文書の下部というものがある男によって発見された。その男の名はベルナルド・ウィンバリー(Bernard Wimberley)。


 彼は文書の読解をしていた大学の卒業生で、学生の頃から文書の内容に興味を持っていた。ただし文書の取扱はそれに関わっている学生と教授のみとなっていたので、彼は触れることは愚か内容を知ることすら出来なかった。


 彼は様々な作戦で文書へのアプローチを行った。やがて集まった情報を持って、まだこの世の何処かに埋まっているだろう文書の下部を探すための旅に出たのだ。


 下部は上部が見つかった場所とは全く違う場所にあった。誰が書いたか、意図的に埋めたかは不明だが、彼はその文書を使ってある計画を練る。


 人類が唯一逃げることのできない運命。死というものだ。文書の中身から推測するにその生と死の世界を融合することが出来る可能性があることを彼は導き出した。仲間を集め、それを目標とした会社を立ち上げた。それがエスペラントだ。


 永遠の命というものを古から望んできた人類だが、それを成し遂げた者は今まで誰一人として存在しない。しかしベルナルドにはそれを可能にする自信があった。


 *****


「おかえりなさいませ、ベルナルドさん」


 ベティはベルナルドが運転する車に乗っていた。車は山道を登り、白い建物の前で止まった。巨大な箱のような建物である。ベティはその建物を車内から眺めたまま降りなかった。


 バーでの出来事があって、自分は結局彼についてきた。


 文書の下部が見つかったという彼の言葉は冗談にせよ、今の自分に居場所が無いことは事実である。勝手に出てきて鼻で笑うが、泊まる場所を確保していただけで後は何処に行こうかと考えていた矢先だったのだ。


 ベルナルドについては名前を学生の頃に聞いたくらいである。自分たちが読解をしていた文書001の情報を狙って、ベティの恋仲であるブライスに暴力を振るうようなそんな輩だ。

 彼のことは文書携わっていたメンバー誰もが警戒していた。彼とはもちろん疎遠で、顔すら見たことがなかったベティだが、B.F.から出て急にメールを送ってこられたのだ。


 一体誰に自分のメールアドレスを教えられたのか。どうしてこのタイミングなのか。


 彼は分かっているようだった。監視カメラで見られているかのようにベティの行動を全て把握していたのか、彼女が泊まろうとしていたホテルの部屋番号まで知っていた。

 ベティは彼にバーで居場所を与えると言われたのだ。


 そもそも彼女がB.F.を飛び出してきた理由は、恋仲であるブライスとの揉め事である。後先考えず部下を守るために前に飛び出し、自分のことなどどうでもいい、という彼の態度に嫌気が差して飛び出してきたのだ。

 本当はもっと体を大事にしろと優しく言うことも出来たが、何度も何度も自殺行為をされてはこっちもたまったものではない。

 限界が来て、彼を置いて出てきてしまった。


 辞職をすれば給料は貰えるのだが、あまりにも突然のことに何も用意ができていないので、一文無しの状態だ。

 よってまだ彼女は一応B.F.職員である。


「言っていた女だ。手荒なことはせんとも色々話してくれるだろう」

 ベルナルドが車を止めた建物の前には、既に何人かの人が立っていた。先頭で恭しくお辞儀をしてみせたのは、よく知る髪色の男だった。ベティは助手席の窓から彼をじっと見つめる。


 窓越しに目が合うと彼は微笑んでくれた。柔らかく、何でも溶かしてしまうような甘い笑みだ。何処かで見たことがある顔だな、とベティは眉を顰める。


「降りろ。案内はキュルスがしてくれる」

「はいはい」


 ベルナルドが助手席の扉を開けたのでベティは車から降りた。何日間此処でお世話になるか分からないが、B.F.にある情報を渡せば衣食住に困らせないという。


「あとは頼む」

 ベルナルドがあの男に言うと、彼は建物に先に入っていった。甘い笑顔の男の周りに居た何人かの男たちが、ベルナルドを追うようにして建物に入っていく。ベティは外にポツンと残される。


「バーで会った時はそれなりにイケてると思ったんだけど......案外適当な男ね」

 ベティは置いて行った彼の背中を見て呆れ顔で言った。


「部下の信頼は厚いですよ。私たちの過ごしやすい環境を整えてくれる、素晴らしいお方です」

 甘い笑みの男がベティに微笑む。近くで見ると甘い香りまでしそうだ。ベティは生涯で彼しか愛さないと誓ったのでその笑みには動かないが、そうでなければ危なかった。


 男は銀髪だった。整った顔を持っており、背丈は大きいというわけではない。歳はベティよりも遥かに若い。30前後と言ったところか、一番良い時期だ、とベティが思っていると、彼はやはり恭しく礼をした。


「エスペラント職員のキュルス・ガイラーと申します。ベティ・エヴァレット様、宜しくお願い致します」

「どうも」


 ベティは軽く頭を下げる程度だ。ベルナルドは執事でも置いて行ったのだろうか。有意義な暮らしは望んでいるが、流石にお嬢様気取りで此処に来たわけでは無い。


「居場所をくれるって約束なの」

「ええ、存じております。立ち話もなんですので、どうぞ中へ」


 キュルスが歩き出したのでベティはそれに続いた。

 建物に入ると、ベティは広々としたその内装に驚いた。ちょうど小さい頃に行ったハワイ旅行でこんなモールで買い物をした。それと比べても大きいと思えるほどこの施設は大きい。張り巡らされた渡り廊下、美味しそうな香りが漂ってくる料理店。そこに居る職員達は皆白衣を着ており、ベティは目を走らせる。


 白衣。ベルナルドがバーで話した「実験」に携わる者たちだろうか。永遠の命を創るという話だが、まだにわかに信じ難い。医者として何人もの患者を診てきたが、生きていたいと願ってそれを叶えられるシーンはほとんど無かった。もしそんな夢のような実験が成功すれば、世界が裏がえる大ニュースになる。


 文書の下部に何が書いてあったのか知らないが、此処に来たからにはその文書とやらを見せてもらおうじゃないの、とベティは強気だった。


 *****


 通された部屋は、木のテーブルを挟んで二人がけのソファーが二つ、向かい合うようにして置いてある小さな場所だった。観葉植物や本棚が置いてあり、掃除も行き届いているようだ。


「何ここ?」

「ちょっとしたお話部屋です。ベルナルドさんからは正式に仲間になるかどうかを確認して欲しいと言われています」

「なるわけないでしょ。話すだけ話したら戻るつもりなんだから」


 ベティはソファーにどっかりと腰を下ろす。キュルスも「そうですね」と言って反対側に座った。


「飲み物はどうします?」

「紅茶はあるかしら」

「ええ、あります。どれにしましょう」


 テーブルの下は引き出しがついているらしい。彼はそこから円柱の缶を取り出す。


「ダージリンでいいわ」

「分かりました」


 手馴れた様子でカップを用意し紅茶を淹れる彼をベティはじっと見つめる。伏し目がちに紅茶を注ぐその姿は、どこかの王国で執事として雇われていてもおかしくないように思える。


「......珍しい髪色なので、よく人に見られるんです」

 突然キュルスが口を開く。


「母譲りなんです。兄も同じ髪を持っていますよ」

「......弟さんなの」

「はい、本名はキュルス・フェネリーと言います。兄がいつもお世話になっております」


 紅茶を注ぎ終えたらしい。彼はカップを差し出した。綺麗な琥珀色が揺れている。


「世間は狭いわね」

「ええ、本当です。本当は兄を追いかけようと此処に入社したんです。少しでも兄と接触する機会を増やすために。死ぬのはごめんなので、安全牌を取ったんです」

「......この会社、馬鹿げていると思わないわけ?」


 ベティは彼を真っ直ぐと見据えた。


「永遠の命なんてあると思う? 生と死を一緒にするなんて、みんなで本当にそんなこと信じちゃってるの?」


「そうですね......確かに、不思議な実験をされているとは思います。世間一般からすれば、我々はただのカルト教団です」


「そうよ。人のこと言えたもんじゃないけど、B.F.職員ったって永遠の命はねえ」


「......でも、それがまだ発見されていないなら......少しでも希望を見てみたくなるのが人間なんです」


 キュルスは微笑んだ。ベティは口を噤んだ。似たような台詞を、昔親友が言っていたのを思い出したのだ。

 彼女の柔らかい声と、表情は未だベティの脳に強く焼き付いている。


 そして、それが自分の兄の妻であることは、目の前の彼は知っているのだろうか。


「......もし、私が情報を吐かないならどうするつもり?」

「どうもしません。何も動かないほど頭の良くない人ではないとベルナルドさんは言っています」

「ふーん」


 ベティは紅茶のカップをそっと手にして、


「期待させているようで申し訳がないけれど、私から提供できる情報はほとんどないの。私は此処へ、文書の下部の情報と寝る場所を求めに来ただけだもの」

「そうですか。仲間は裏切らない強い意志をお持ちなんですね」

「何他人事みたいに言ってんのよ。アンタはこの立場に立ったらどう思うわけ? ベルナルドのことを裏切って敵側にホイホイ情報を渡すの?」

「それは、なってみないと分からないですね。ただ僕がベルナルドさんを裏切ることは絶対にしませんよ」


 相変わらず上品な笑みで彼はそう言った。ベティは持っていたカップを唇に当てて、気づいた。


 そして紅茶を口に含むことなく元の場所に置いた。


「......お医者さんは鼻が良いですね」

 キュルスがにこりとさっきとは違う笑みを浮かべる。それをベティは軽く睨んだ。


「悪い子はアタシ好きじゃないんだけど。強引に情報を吐かせないなんて言うくせに、信じらんない」

「ちょっとした出来心ですよ。まさか最初から引っかかるとは思っていません」

「当たり前よ。医者を嘗めるのもいい加減にして」


 ベティは足と腕を組んで座り直した。


「案内してよ、この施設。実験とやらを見せてもらおうかしら」

「ええ、構いませんよ。行きましょう」


 あっさり立ち上がるキュルスに、ベティは内心拍子抜けしながらも追うように立ち上がった。


 さっきの紅茶に入れられていたのは睡眠薬だ。凄腕の医者のもとで勉強をした彼女になら、薬の匂いを嗅ぎ分けるくらい造作もないことだ。


 キュルスが紅茶を淹れるのはよく見ていたが、薬を仕込んでいるようには見えなかった。ティーポットに最初から溶かしていたか、もしくはティーカップに入れてあったと考えるのが妥当だろう。

 嘗められたものだな、とベティは溜息をつきたくなった。


 このまま此処で過ごすのは良くないようだ。見るものだけ見て後はすぐB.F.に戻ろう。


 ベティはキュルスに続いてその部屋を出た。


 *****


 モールのような施設内は、研究所という雰囲気からはかけ離れている。皆働きに来たというよりは遊びに来たというようにも見えるので、職場としてはどうなのか。


「こうして危険な日常の辛さをなるべく軽減させるための工夫をしているんです。最初はB.F.と同じように死者は多かった会社ですから。少しでもリラックスして欲しいというベルナルドさんの計らいですよ」


 キュルスはベティの隣を歩きながら説明をくれた。全員が白衣を着ているため、着ていないベティは少しだけ注目を集める。と言うよりも隣の存在と共に歩いているのが羨ましいようだ。なるほど、キュルスの顔はやはり共通して美しいようだ。


「今から向かうのは今まで取り貯めた資料の部屋です。ベティさんが欲している情報もそこにあるかと思います」


 何処か企んでいそうな彼の声色にベティは油断ならなかった。今この瞬間にも誰かに監視されていて、自分の頭の中を掻き回されているのだとしたら、もっと変なことを考えてやってもいい。


 そんなことを考えているとキュルスが立ち止まった。気づけば人気が少ない狭い廊下に来ていた。人々の雑踏が少し遠くなり寂しい雰囲気が此処には漂っている。


 キュルスは自分の白衣の胸ポケットから鍵束を取り出した。かなりの部屋を管理しているのか、それとも彼の地位が高いのか、どうやらベルナルドに随分と信頼されている部下らしい。


「此処から先は特別な許可を持つ者しか入れないんです。僕も最近になってようやく入る許可が貰えたので......少し誇らしい気分です」


 キュルスは恥ずかしそうに笑った。それが本当の彼の笑みなのかは分からないが、やはり空気が甘くなる。


 鍵は扉ではなく、扉の横の小さな蓋のようなものについている鍵穴に差し込んだ。かちゃん、と音がしてその蓋が開くと何やら小さなモニター付きの機械が出てきた。0から9までの数字が書かれたボタンが並んでおり、キュルスがその番号を押していく。番号は見えないようにされたが、腕の動きとボタンの位置から考えてベティにはその暗号がすぐに分かった。


『79224910』


 扉が開くとキュルスは「行きましょう」と歩き始める。その先には白く長い廊下が続いている。ベティは彼について行く。


「長い番号ね」

「そうですね。他の研究員も入れないようにするためだそうですよ。覚えるのに少し苦労しました」

「全部の部屋がああいうロックなの?」

「研究員の部屋は簡易的です。暗号は四桁に設定してあって、入社したら自分の部屋やよく使用する部屋の番号は割り当てられるんですよ」

「ふーん」


 ベティは目の前で揺れる白衣を見ながら適当な返事をした。


「こういう重要な場所は鍵と暗号とで管理しています。もっと重要な場所になると顔認証や指紋認証なんていった厳重な警備になりますよ」

「そこまでして大切なものなの」

「はい。資料はベルナルドさん曰く参考程度だそうです。彼の頭の中は誰にも分かりません。最も重要な部屋には僕はもちろん、ベルナルドさんの他には幹部のメンバーでもフランチェスカさんという人しか入れて貰えないんです」

「内容はアンタも知らないのね」

「はい。検討もつきませんが......いずれ分かったら会議を開くと言われています」


 キュルスが言い終えたところで、目の前に白い扉が現れた。キュルスは今度は首からぶら下げたカードを手にして、扉横の機械にかざした。すると、ピ、という機械音に続いて扉のロックが外れる音がした。キュルスは扉を押した。その奥の空間にベティは息を呑んだ。


「すごいわね......」


 今まで感情を押し殺してきた彼女だが、今ばかりは心からそう言わずにはいられなかった。


 棚に収まった大量のファイル。壁際にはもちろん、列になって部屋の中を右から左まで棚が埋めつくしている。青で統一された背表紙にはそれぞれ黒いペンで資料の番号が書いてあった。大倉庫を一回りも二回りも小さくしたような場所だが、その中にある情報は大倉庫よりも遥かに多い。B.F.の情報を掻き集めたってこれの半分にもならないかもしれない。


「これが文書の下部です」


 ベティが呆然としている間に、キュルスはある棚から同じようなファイルを持ってきた。そのファイルの背番号は「0」である。キュルスが差し出してくるのをベティは恐る恐る受け取った。開く前に彼女は彼に問う。


「こんなの、いつ、どこで見つかったの?」

「ベルナルドさんの話によれば、B.F.が創立されて五年後と言っていました。場所は海底だとも」

「海底?? 上部は山で見つかったのよ?」

「ええ、何故半分から上と下が陸と海にあったのかはわかりません。ただし、嘘偽りではないんです。きちんと当時の写真だって、動画だって残っていますし」

「......」


 ベティはファイルを開いた。分厚い表紙の裏には様々なメモが貼り付けてあった。一般人からしたら鼻で笑いたくなるほど馬鹿馬鹿しい内容が真面目に綴ってある。


 ベティはそれに慎重に目を通す。そしてもう一枚ページを捲った。そこにはあの文書の下部と思われるもののレプリカが収められていた。文章の続きだ。確かにその文字は自分が解読したものであった。


「どうですか? 読めますか?」

「......」


 ベティはその続きを読むことが可能だと思った。得体の知れない文字を解読したのはあの大学のメンバーで彼女だったのだから。しかし、ベティは唐突にファイルを閉じて、キュルスに無言で突き返した。


「......もういいわ。しまってちょうだい」

「よろしいんですか?」

「ええ。一人で過ごせる部屋に案内して」

「わかりました」


 キュルスは疑いもなく、さっきと同じように微笑んでファイルを戻しに行った。ベティはその間周りの棚を見回す。


 どうしてか、とてつもない罪悪感と拒絶感、そして悲しみが押し寄せてきた。ベティは今にも泣いてしまいそうだった。涙を堪える代わりに自分の手を腹に重ねて押し付けた。手は強く震えていた。


「行きましょうか」

 キュルスが戻ってきて間もなくして部屋から出た。ベティはその後ろを着いていく。


 自分は一体何をしているのか。


 ベティはキュルスの背中を見ながら、そう自分に問いかけた。

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