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ソラリス・エンジュ<紡ぎ手>



 小さな刃物を携え、男がわたしの眼前に立つ。

 立ちはだかるようにも見えるし、何かを語っているようにも見える。

 ただ。

 男は悲しそうだった。

 いや哀しいのだろうか。

 強く握り締めたそのか細い刃はすでに紅に染まっている。

 誰を傷つけ、誰を殺めたのか。

 わたしにはわからなかった。

 ただ。

 男はわたしも殺すのだろう。と、そう感じた。

 それならそれで良い。

 この男に殺されるのなら、それで良いように思う。

 だけれど。

 男の名も顔も、わたしにはわからない。知らない。

 誰だろう。

 一体、貴方は――。


「――あの魔女は死にました。僕が、殺したんです」


 大きな喧騒と、周囲を赤々と染める炎の爆ぜる音が、男の声を隠す。


「残るは――貴女だけ」


 男はもう一度何かを口にし、そして握った刃に思いを込めた。

 わたしを、真っ直ぐ見つめている。

 駄目ですよ――。

 この瞳を見たら。

 狂ってしまう。


「……こうなる事が、僕には理解出来ない」


 だから――。

 貴女もここで――。

 ――果てなさい。

 

 男は刃を振りかざし。

 ――そして。


 ※ ※ ※


 ソラリスさん――。


 小さな呼び声で、ソラリスは微睡みから解ける。

 瞳を開けると心配そうに顔を覗きこむクランの姿が見えた。


「もう、こんなところでお昼寝してたら風邪引きますよ?」


 ソラリスは体を起こす。

 疲れているのか、体が鉛のように重たい。視界がぼやける。見慣れた庭の全貌がはっきりとわかるまで、少し時間が掛かった。

 微睡んでいただけと感じる短い時間だったが、どうやら意識は完全に飛んでいたらしい。体が冷えている。少し頭痛もする。


「……今、何時?」


 まだ正午過ぎですよ、とクランは大きな籠を重たそうに持ち上げる。どうやら洗濯物を干すところのようだ。

 ――正午。

 やはり意識が飛んでいた時間は一瞬である。


「おねむならベッドで寝てくださいまし。本当に風邪引いちゃいますよ。お薬が嫌いなんですから、ソラリスさんの場合風邪でも大事になります」


 クランは嫌味たらしくそう言ったのち、踵を返し庭の隅へと消えた。

 ソラリスは重たい体をゆるゆると動かし、木々に掛けたハンモックから降りてガーデンチェアに腰を預ける。

 テーブルには紅茶が用意されていた。ソラリスは小声でありがとうと呟き紅茶を口にする。

 一口でも、温かさが体に染み渡った。

 ――久し振りに。

 あの夢を見た。

 厭な夢である。厭だと感じるのは、あの夢が“現実”だったからだ。

 ――魔女か。

 蒼き魔女。

 垣根の魔女。

 そして。


 災悪の魔女。

 

 いずれもソラリスに、ソラリスだけに与えられた称号である。

 その殆どは、ソラリスが自ら招いたものだった。

 魔女の罪。

 いや。

 ――自分の、罪。

 もう、ソラリスは魔女ではない。

 いや、魔女というものが第三者が定義し付与する称号でしかないのなら、ソラリスは今でも魔女である。

 ただ。

 自分の定義の中においては、魔女ではない。

 魔女とは――“罪を認めぬ者”ではないだろうか。少なくともソラリスはそう定義している。

 そして、ソラリスは自分の罪を認めている。自分が何をしてきたか、何を壊し、誰を傷つけてきたか――すべて把握しすべてを認めている。

 だからこそ。

 今の生は、その罪を償う為だけのものなのである。

 償い切れるものではない。何をしても、誰を救っても、決して罪は消えない。薄くもならない。贖罪とは“し続ける”ことなのである。

 それでも。

 ――償うと決めた。

 償い続けると。そう決めた。

 今もその決意は決して折れていない。曲がっても歪んでもいない。いない、筈である。

 なのに。

 その決意は“あの日の夢”を見る度に――揺るいでしまう。

 ――わたしは、間違っているのでしょうか?

 庭の先に広がる森は、どんなに強く見つめても、何度問いを投げつけても、決して答えてはくれなかった。

 しかし。

 ねえソラリス――。

 誰かに呼ばれた気がした。

 ソラリスは立ち上がり、誰かが誘うその森に、足を踏み入れた――。


 ※ ※ ※


 言葉一つで人は壊れる。

 刃物も毒物も病も傷も、何も要らない。

 言葉一つ。

 それだけで善い。

 それでだけで、善かった。

 いや。

 それだけしか持っていなかったのかも知れない。

 母も父も、生命が、凡そ何の代償も支払わず、産まれた瞬間、産まれただけで、裸一つでも持っているそれすらも、持ってはいなかった。

 いや母も父も存在した。存在していた。女がいなければ産まれない。男がいなければ産めれない。

 だから。

 母も父もいたのだろう。

 知らないというだけだ。持っていないというだけだ。

 それだけのことではある。それだけのことでしかない。でしかないのに。

 結局。

 外れてしまった。

 いや、子供の時分はそれでもマシだったのだ。子供は子供というだけで無害という称号を掲げて生きていくことが出来る。罪悪も責任も何もない。何も背負わなくて良いし、何を背負う必要もない。

 何も持っていなくても、構わない。むしろ大抵の場合は何か持っている方が可笑しいのだ。

 子供とは、そんなものである。

 きっと、そんなものだ。

 流されて生きてきた。流されて生きるものだと思っていた。子供ではあったし、何より流されなければ死んでいた。

 だから。

 子供の時分は善かった。

 いつから狂ってしまったのか、それはわからない。

 ただ、いつの間にか。

 ――魔女。

 そう呼ばれるようになっていた。

 罪を犯したのは、それからのことだったと思う。

 いや、始めから罪はあったのだろう。なければ何かを持っていた筈だ。何も持っていなかったのは、罪があったからだ。

 ただ。

 その罪が何かはわからない。

 魔女になってから犯した罪は、すべて知っている。

 罪を犯そうという認識はなかった。なかったのだが、気付けば犯してしまっていた。

 小さな罪の筈だった。

 それなのに――。

 言葉一つ。

 唯一持って産まれたソレが。

 簡単に人を破壊した。

 いや。実のところその言葉で壊したものはたった一つだけだったのだ。

 歯車の一つ。ただそれだけだった。

 だったのに。

 歯車を一つ失っただけのその仕組みは、ギシギシと不気味な音を立てながらゆっくりと、ゆっくりと――全壊した。


 そして。

 ソラリス・エンジュという“魔女”は。


 八百の命を奪った。


 ※ ※ ※


 いつでも暗い。いつまでも昏い。

 黒より濃い闇なのか、闇より濃い黒なのか、わからない。ただ、暗い。

 それだけだ。

 地に落ちた枯れ葉が乾いた音色を立てる。この森の落ち葉は、いつだって乾いている。早朝に来ても朝露には濡れていないし、雨上がりにだって乾いている。

 不思議だ。

 この世は不思議なことばかりである。

 ソラリスは宛もなく、目的もなく闇の道を辿った。

 その先には何があるのか、誰がいるのか、そんなことはわからない。この世のことなど、己には決してわからない。

 でもきっと。

 何かあるのだろう。


 ねえソラリス――。

 

 また呼ばれた。

 それは一体、誰の名だろう。己の名だろうか。

 いや。

 己は言葉しか持っていない。誰かを壊す言葉しか、持ってはいないのだ。

 名など――。


 思えば、よくわからない人生だった。不思議で不思議な人生だった。

 何がしたかったのか。何をしていきたいのか。

 それすらも、この闇の中では無意味な光である。


 憐れな男女がいた。

 愛し合っていても、決して結ばれない恋に焦がれた憐れな男と女である。


 愚かな男がいた。

 世界中が自分を苛めると、そんな妄想に呑まれた愚かな男である。


 難儀な老人がいた。

 過去を消して、記憶を消して、新たな生を始めたいという難儀な老人である。


 狂った女がいた。

 夫の愛を勝ち取るために、娘を殺した狂った女だ。


 誰だったか。

 憐れな男女は愚かな男は難儀な老人は狂った女は――。

 一体誰だ。

 もしかしたら。

 全部、己のことだったのかも知れない。

 何せ、己には名すらない。ならば、誰でもないし、誰でもある。

 いや、己はただの――。

 闇なのか。

 この黒い闇が――。


 ねえソラリス――。


 だから、誰のことだ。

 誰を呼んでいる。

 己は闇だ。それ以外の何者でもない。


「魔女には罪がございましょうか?」


 ああ。

 そうだ。

 ――わたしは“魔女”だ。

 最初から最後まで、魔女なのだ。

 蒼き魔女。

 垣根の魔女。

 災悪の魔女。


 ああ、オフィーリア。


【魔女には罪がございます】


 ですが恐れることはありません。この森に、魔女は一人しかいないのです。

 貴女の罪も、わたしがすべて背負いましょう。

 だから、ゆっくりおやすみなさい。

 いつか目覚めるその日まで。

 わたしは垣根から、貴女が手を伸ばす日を待っています――。



 遂げれぬ愛を。

 虚実の傷を。

 まやかしの死を。

 望まぬ生を。

 人の、人ゆえの根深い願望。深淵の底から湧き出る、人の暗く儚いその願いを。

 蒼き魔女――“ソラリス・エンジュ”は彼方の闇に葬送した。


 此方の暗闇に残るのは。

 魔女と人の、妖しい――お話。


 

 (了)



ここまで読んで頂いた方にまずは感謝申し上げます。そしてご感想、ご指摘を添えて下さった方々にはとても励まされました。この作品を最後まで書ききれたのはひとえに支えて下さった読者さまのおかげでございます。本当にありがとうございました。さて本作品は文学と銘打ってますが、読み方によってはミステリー作品として読んで頂くことも出来るようにしております。しかしお好きな形で読んで頂くことが、作者としても嬉しいことでございます。ちなみにどういう読み方でも読了ののち「あれ? まだ謎がある」と思われる方がおられると思います。作中では一応事件が解決しておりますが、実のところ「真相の中のさらなる真相」――ゲームで言えばシークレットエンディングでしょうか? ともかく最後の仕掛けを置いております。もし興味がある方は読みといてみてください。

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