5-31 飽世の眼
感情の揺らぎを暗示するかのように、空が雲に覆われていく。
太陽の恩寵を失った世界に影が落ちる。
それでも八千翔は幼い微笑みを浮かべたままだった。鳶色の瞳は俺ではなく、世界でもなくどこか遠く、きっと失われた瞬間を見ているのだろう。
「世界は常に二つの道を示す。一つだけの道なんて有りはしない」
八千翔の声が響く。その口調はまるで千影のものを真似ているようだった。
自身の過去への戒めか、或いは俺が進む道を誤らぬよう突き立てる釘なのか。
「選んでいない、ただ一つだけしかなかった。他には何もない。そう思い込むことで選んだものこそが絶対的に正しい、間違っているはずなどない。そう刻み込むための自己暗示でしかない。〝ない〟のだと断言し目を背けるだけで、他の可能性を探らず見もせず縋ろうともせず選択肢にすら挙げなかった己の愚かさを否定して」
滔々(とうとう)と言葉を連ねる。大気を震わせ、肌を粟立たせ、圧迫感を与える。
千影の言葉は常に重い。深く強く、逃れようなく弱く脆い場所へ突き刺さる。
深淵へと沈み込み、中核に成り代わって全身へ毒のように回っていく。
かの言葉も襲い来る圧力から逃れられないのは僅かでも同調する部分があるからだ。
一般的な常識や倫理観からかけ離れていたとしても、可能性を考えてしまう。
世界を新たな法則で塗り替える、自分達こそが体現者である、と。
俺自身も打ちのめされた。
弱く儚いものに語れる正義などない。
どれほど主張が正しかろうが、脆弱であればより強大な悪に潰される。
声を張り上げ潔白を叫んでも深く暗き闇の黒に飲み込まれ、沈み、腐り落ちていく。
空が雲に覆われて光を失い、俺を照らす輝きも闇が駆逐する。
一瞬の暗黒、視界を奪われた暗黒の中で甘い香りが鼻孔をくすぐった。
顔面が柔らかい感触に包まれる。
「きっとね、誰もが一度は通る道だと思うの」
声の調子も色合いも八千翔本来の明るいものへと戻っていた。
いつものように慌てふためき、振り解くような真似はしない。
豊満で甘美な果実を味わいたいのではなく、純粋に伝わってくるものに敬意を払った。
柔らかくも熱いモノが送り出し続ける。
激しく波打つ鼓動が紡ぐ言葉が確かなものであると証言する。
「選びたくても選べなかった悔しさ、自分自身を否定することと無力感から逃れ出るために正当化し真実と化し他から目を背けて突き進むしかなかった」
八千翔に抱きしめられたまま、俺は答えない。応えられる言葉を持たない。
今でもあの結末が最善だったとは思えない。
何か他の方法があったのではないか。或いはもっと事前に色々なことに気付いて対策を講じていれば避けられた悲劇ではなかったのか。
八千翔もまた同じような経験を辿ってきたのだろうか。
青璃や赤亜のように振り返ることすら躊躇する影道を歩んできたのか。
「私は、同じなんだ。〝深緑〟の狂狼と同じ深き場所に潜む闇の住人」
ぞわり、と嫌な感覚が雷のように全身を駆け抜けていく。
総身を襲う悪寒にも体は動けずにいた。柔らかい感触を惜しんでいるわけではない。離れていくことが八千翔に与えるもの、何より告げた彼女の顔を真正面から見ることを恐れてしまっていた。
「経緯はどうあれ、参陣するまではゼキエルもセイリスも穢し堕とされる側だったし、君もまた義に基づいて真っ直ぐ走り抜けて転げ落ちてしまった。でも」
八千翔が言葉を区切る。
周囲の音が消え失せる。二人だけ閉ざされた空間に放り込まれたようだった。
視界を奪われたまま、脈打つ鼓動を伝える八千翔の存在とうるさいくらいに鳴り響く俺自身の生命活動だけが、この場に存在していることの証明だった。
似た状況があった気がする。あれは――
「クラッドチルドレンとしての私は身体能力は中の上くらい。霊剣を持ってるけれど、これも用途は直接戦闘じゃない……っていうのは説明したことあったかな」
初めて出逢った日を思い出す。小百合を失った日を掘り起こす。
体の大事な部分が痛む。痛むが、痛むのは忘れていないということだ。
忘れようもなく、忘れられるはずもない。元より忘却など許されない。
あの時、初が日本刀を携えていたのは覚えている。無法者共の血を吸い赤く紅く濡れた禍々しい姿を晒していた。初は今も刀を、霊剣・狂想空破を手にしている。
が、八千翔はどうだったか。何も持っていなかったのではないか。
「あ、出逢った当初はねぇ……初ちゃんに胸に能力値振りすぎだなんて言われてたんだよ」
当時そんなことを気にする余裕などなかったが、口ぶりから察するに幼少期から恵まれた肉体を誇っていたのかもしれない。ともすれば、それが原因で下卑た欲望をぶつけられたのか。今の八千翔からは想像もできないが、青璃の例もある。
「ま、カラダの方にステ振っちゃってたのはあるけど多分親の遺伝子とかからも来ているだろうしね。決定的に私が違っていたのは、見えていた世界」
見るものが違う。
それは〈全なる一の眼〉のように全てを見通す力を持っていたのか。
もしくは幽霊やら幻影やらを見て、子供の無邪気さで周囲に振りまいて遠ざけられてしまったか。
「うん。未成熟さが招いたものもあったと思う。多分、きっとね」
これまで俺は一言も発していない。聞き手に徹している。
にも関わらず、まるで心の中を読み取っているかのように言葉を連ねている。
俺が欲するものを、得たいと思う情報が何か最初から把握している。
そう、初めて小百合と出逢い言葉を交わした時と同じ感覚だった。
俺は抱きすくめられたまま、軽く八千翔の背を叩く。合図に応じて俺の背に回されていた手と込められていた力が緩められ、視界と共に解放された。
気恥ずかしい想いや後ろめたさはない。
だからこそ薄暗い曇天の下、普段は見せない真面目な顔で俺を見る八千翔とも真っ直ぐ向き合えた。
八千翔が言葉を連ねる前に先制する。
「神坂さんは鏡治のように、異能に秀でている。ただし基礎能力も低くはないため、戦闘技術を磨き霊剣を手にして補うことで力そのものを悟らせない、ということですか」
「その口ぶりだと私にも疑惑がかかっているのかな。もし、敵だとしたら私でも殺せる?」
「俺、は……」
緋枢姉妹とかち合った時に殺し合える自信がないのは、俺自身殺すこと奪うことに躊躇している事実は否定できない。
失った身だからこそ、喪失からくる凄絶な痛みを知っていて奪われた側の揺らぎを窺い知れてしまう。
それでも教義やら偽りの神の名を盾にする者であれば戦える。
ただ彼女達は違うように思えてならない。大義だとか忠義だとか仰々しい旗を振るうのではなく、暴れる理由をつけるわけでもなく最も純粋な者を内側に秘めている。
「敵であっても女の子は傷つけられない、か。それは優しさじゃなく、弱さだよ」
「灰羽が敵なら屠ります。俺が、この手で……必ず」
「うん。それは〝そうなる〟かもしれないね」
「〝かも〟しれない?」
「ふふ。今のところ〝あの姉妹と戦うこと〟はなさそうだね」
「神坂さん〝誰〟が抜け落ちていたら意味のない情報です」
「だね。でも、確定情報じゃないからこれ以上は言えないかな。先が狂うかもしれないし」
「狂う……?」
言葉の端々が妙に引っかかる。どうにも遠回しな物言いだ。
とはいえ灰羽のような劇場じみた誇張演出とも取れる。
何かを伝えようとしているのか、それとも翻弄しようとしているのか。
仮に八千翔が〈聖十二戒団〉側ならば鏡治や他の者達が危ない。
いや、分断されているとはいえ主力格の一人を俺がここで仕留めればいいのだ。
俺が〝小百合のような異能を持つ少女〟を殺せばいいだけの話。
「こんなことしてる間に向こうは全滅かもね」
歯を見せて微笑う八千翔を前にして、距離を取り臨戦態勢を取る。
素早くリュックを下ろして後方へ投げて霊剣の柄に手を伸ばす。
自らの獲物を見る。微笑み、無手のまま構えもしない八千翔を睨む。
「そう。簡単なことだよね。守るべきもののために武器を手にして殺す覚悟を決める。いずれ正面衝突が避けられない関係なら、中途半端な気持ちでは向き合えない。殺す気でないと相手にも失礼だし生半可な気持ちが味方をも殺す」
「殺させない。奪わせない。何もできなかった自分を殺すために、俺は――」
「大丈夫。今のところ君があの姉妹とやりあうことはないから」
「……どうして、そんなことが」
八千翔に動く気配はない。害されないと確信しているのか、それとも既に抜刀態勢に入った俺よりも先んじて動けるというのか。
未だに八千翔は構えるどころか自らの得物である霊剣を見てすらいない。
取り回しやすい短刀の霊剣が持つ力の一旦は以前見た。虚空を裂き、紅の線を引いて暴走した紅狼の放った斬撃を相殺していた。
手にしていなければ力も行使できないはず。
いや、そもそも俺達を分断し倒す気があるなら、とうにやっている。
修練を積んだとはいえ、俺と八千翔では戦闘経験の蓄積が違う。千影と共に最初期のメンバーとして戦場を駆け抜けてきた歴戦の強者に勝てる望みは薄い。
それでも、殺す気概を持って対峙しろ。そういうことなのだろう。
俺は小さく息を吐いて戦闘態勢を解く。
八千翔は満面の笑みを浮かべている。
「神坂さんは視覚に関する異能がある。恐らくは、近未来に起こり得る事象が見える」
「断言できる根拠はあるのかな」
「まず敵対しているなら俺は分断された段階で殺されているでしょう。生かす理由がない」
「自分の命なのに扱い軽いんだね」
「か弱い女の子すら守れなかったクズですから」
言い放つ自分自身に吐き気がする。かといって、このような形で発破をかけられるのもまた居心地が悪いというかいい気分はしない。それだけ未熟だということなのかもしれないが。
「闇の世界の住人、なんていうのもフェイクなんでしょう?」
「ううん。それは本当」
全く変わらない調子で八千翔が嘲るように鼻で笑った。
微笑んでいても瞳の奥に悲哀が見えることから自嘲なのだろう。
「ご推察の通り、私の力は目……視覚に偏ってる。霊剣の能力も特異性を生かした戦術だと言えるかな。そういった意味では有楽上君に限りなく近い。多分、君とも……ね」
鏡治の持つ吸霊鬼に近しい、というのは異能によっているという意味で決して妖艶な雰囲気が淫魔的であると形容しているのではない、だろう。
含む部分はあるかもしれないが。
それよりも俺に近い、という言葉の意味が分からない。
鳶色の瞳が遠くの、過ぎ去った記憶を見ている。
「そう、私にはあらゆる未来に繋がっていく〝線〟が見える。視えるからこそ畏怖され遠ざけられ、または崇められ利用されて最後はこの世に〝飽きてしまった〟の」
諦めたように言い放った八千翔は寂しげに笑った。