5-17 異貌人
瞼を開く。ゆるりと何度か瞬かせる。
視界に映り込むのは白い天井。これまで幾度となく見た光景だった。
傷つき倒れて意識を失って。目覚めて起き上がって喪失を知る。実感する。
あの胸を抉り斬られる感覚は、もう二度と味わいたくはない。
そして、誰かに味あわせたくもない。
誰かを殺せば、顔も知らぬ誰かが嘆く。
「目覚めたか?」
声のする方へ首を動かす。藍色の長髪が女のように、まとめられずそのまま肩口に流されている。眼帯はなく、暗い孔に紅い六芒星が淡く輝いていた。
丸椅子に座る赤亜が穏やかな笑みを浮かべて俺を見ている。
「ずっと……看てて、くれたんですか」
「まぁな。正確に言えば治してたわけだが」
視線をあげていく。赤亜の背には限りなく人間に近い容姿を持つ、中性的な像が浮かんでいた。堕ろされた天使も優しい笑みを振りまいてくれている。
「悪いな。勝手に寿命使わせてもらった」
「いえ、有難う御座います」
「お前さ、いい加減考えなしに突っ込むの止めないか? いつか死ぬぞ」
「死にかけても赤亜さんが治してくれるって信じてますから」
「あのなぁ……」
病床で微笑んでやる。赤亜は呆れたように溜息を吐く。
体が暖かい。陽炎のようにガブリエルの姿が薄れ、消えていった。
「〈紅の死神〉があるからって無尽蔵に使えるわけじゃあないんだ」
「多少の怪我なら大丈夫ですよ。どうせ治るんですから」
「だからな。俺が言いたいのはそういうことじゃなくてだな……」
分かっている。言わんとすることを察せないわけでもない。
それでも俺は立ち止まってはいけない気がした。
前へ、前へ。前のめりでも考えなしでも進まなければならない。
「赤亜さんも、前に進むために〝捨てた〟んですよね」
「あー…………あのアホ。勝手に喋りやがって」
こいつには知られたくなかったのに、という呟きは聞かなかったことにしよう。
寝たままでは失礼かと思い、起き上がろとしたが手で制された。
ベッドに体を横たえた俺の前で、赤亜が膝の上で腕を組む。
「おかしな話だろ。どちらでもない存在で、気持ち悪くてな」
「でも、今は……その、神坂さんと」
「言うなよ。俺だって未だに信じられないんだからさ」
気恥ずかしそうに鼻をこすって、黙考するように組んだ手の上に顎を乗せる。
その所作は千影が思考に耽っている姿と全く同じに見えた。
鮮やかなライトグリーンを宿す右目が右へ動き、左方向へ逆時計回りに動く。
決心したように隻眼が真っ直ぐ俺を捉える。
「その、な。軽蔑したか?」
「どうしてですか」
「いや、だってな。女なのに男っぽく振舞うのって気持ち悪くないか」
「えっ……でも肉体的には男なんですよね?」
「へっ、まぁ……そうだな。今は安定化したからほぼ男だけど」
「ほぼ、ってことは女の子の日とか来たりするんですか」
「……は?」
「えっ?」
疑問と疑念の応酬であった。何を言ってるんだお前は、という空気だ。
数瞬遅れて得心がいったように赤亜が笑い出す。
何がそんなにおかしいのか、体を追って腹を抱えながらも大声には出すまいと堪えて、くぐもった笑声を響かせる。
俺はベッドの上で肩を竦めるような所作をしてみた。
堪えるのも限界だったらしく、室内に笑い声が響き渡る。
ひとしきり笑うと涙目になりつつ赤亜が眼帯を手に取った。慣れた手つきで左目を覆い隠す。何度か咳払いする。表情はいつもの赤亜に戻っていた。
「あー……笑った笑った。八千翔が弄るのも分かる気がするよ」
「今は赤亜さんが弄られてるんですよね?」
「餓鬼にゃまだ早い話だ」
小さく笑って切り捨てる。俺も笑みで返す。
「お前の真っ直ぐさ、目的に向かうために
何でも掴もうとする姿勢は嫌いじゃないよ」
「それは、どちらの意味でですか」
「そんな口が利けるなら心配する必要もなかったな」
椅子から立った赤亜が口元に手を当て、小刻みに体を震わせる。
軽く伸びをしてから俺に背を向けた。後ろ手で長髪をゴム紐でまとめる。
手は壁に立てかけていた霊剣・巳架鷺を取る。
「お前の覚悟や意思や思想に関わらず、俺達は〈灰絶機関〉が
定めた害悪を殺し潰す。青璃からも聞いているだろうが、
俺達が独断で行う殺人という罪を肯定するわけじゃない」
「聞いて、います。いつか報いを受ける、と」
「少なくとも、俺はもう全うな生き方なんて期待してない。いや、十分すぎるな。地獄から抜け出せて、力の使い方も理解できて、大切なものもできて――」
赤亜が咳き込む。嫌な音が聞こえた。雫が落ちる音。目の前で足を使って乱暴に拭き取られていく。俺は黙したまま続く言葉を待つ。
「……繰り返したくないんだ。千影さんも根源を探している。世界が響かせ続ける慟哭の元凶を根絶するまでは、俺達は戦い続けなければならない。たとえ無辜の人間の魂を吸い上げることになろうと、俺自身の魂が失われようと……な」
「戦い、殺し続けるんですね」
「敵対する者を倒さなければ、味方が死ぬ。守りたいものが失われる」
澱みなく赤亜は言い切った。一切の迷いがない。
言葉の通りだ。敵対する以上、少なくとも無力化しなければ被害が出る。
味方を失えば歩が悪くなる。勢力で押し負ければ何も守れない。
「あー……これは、聞くも聞かないも自由だが」
前置きしつつ赤亜が背中を向けたまま言葉を連ねる。
「紅狼は同じ〝否定された者〟としてお前を見ていた。
奴は坂敷から捨てられ、ここで力を得た。
二度と居場所を失わないよう力を、有用さを示すしかなかった。
殺し続ける自身を肯定し、ひたすらに戦果を積み上げる……
そうしてるうちに殺すこと自体、泥臭い闇に染まっちまったのさ」
「俺も、そうなってしまうと?」
「一度踏み込めば、その先の速度はお前次第だ。
だからといって、殺せと言っているわけでもない。
お前の正義が殺さず無力化することをよしとするなら、貫けばいい」
「霊剣にすら名を教えられない俺には、耳に痛い話です」
「それはお前が定まっていないからだ。揺れ動き続けている」
やはり、耳に痛い話だ。いつまでも半人前から抜け出せない。
話は終わりだと言うように、背を向けたまま赤亜が歩いていく。
俺の前を歩く者達は皆、遠い。余りにも高い場所にいる。
声をかけることもできず、見送ろうとすると赤亜の足が止まった。
「最後に一つ。個人的な忠告だ。余り〝信じすぎるな〟よ」
「それは、どういう……」
問いを投げる前に赤亜が部屋から出て行ってしまった。
体を起こす。治療室内にはいくつもの空のベッドが並ぶ。
息を吸って、吐く。薬品の香りに満ちている。
赤亜の言葉は何を意味しているのだろうか。
「疑え、ということか」
呟く。何を疑えというのだろうか。
時に、赤亜は千影の命を受けながらも自身の意思を見せることがあった。
言われるがままの人形になるな、ということなのだろうか。
しかし、俺の命は千影に救われたものだ。
あの場に千影がいなければ、或いは手助けがなければ俺は死んでいた。
何も守れず成し遂げられず、失意と絶望の底で沈み果てていた。
救われたからには恩義を尽くさねばならない。そう思う。
「いや」
既に俺は幾度となくぶつかっている。
それでも俺には力が与えられているのだ。
まだ銘を持たないにしても霊剣を受け取った。
魂の情報を引き継ぎ、紡いでいくSSSによる〈死神〉の力も見せられた。
俺だけじゃない。八千翔や初も同じ位置にいるのだ。
赤亜は俺に何を考えさせたいのだろう。どう動かしたいのだろう。
俺が千影のやり方全てに納得しているわけではない。それでも、必要であることを認めることはある。その思想は流されているのではなく、俺自身の意志だ。
本当にそうなのか?
真実、俺は自分の意志を持って歩いているのだろうか。
「小百合の願いを叶えなきゃ……」
違う。彼女の願いは、俺が俺の意志を貫き通すことだった。
俺の願いは同じ痛みを生み出さないことだ。
罪の生まれる場所を根絶する。そのために力を手に入れる。
たとえ、得た力が他者を殺戮するためのものだったとしても。
「力を、使いこなさなければならない」
ゆるゆるとベッドから足を下ろす。素足に床の冷たさが伝わる。
平衡感覚を確かめ、歩く。用意されていた衣服を身にまとっていく。
装備も整頓されていた。戦闘仕様の靴を履き、防刃ジャケットを羽織る。
腰に無銘の太刀を佩く。少し刀身を引き出し、鞘へ戻す。
鍔鳴りは寂しさを訴えるようにも聞こえた。
俺の感情がそう思わせるのか、込められた死念によるものか。
「……行くよ」
誰に言ったのかは俺にも分からない。
一歩一歩、力を込めて踏みしめて進んでいく。
施設内を歩く。何人かの下部メンバーとすれ違う。
何人かに挨拶され、それぞれ返す。多少の入れ替わりはあるが、大体の顔と名前は一致するようになっている。
長い回廊を歩き、何度か角を曲がる。同じような道を進む。
足は訓練場を目指す。まず体の調子を確かめねばならない。
区画を越えて二十分ほど歩き、訓練場に着いた。
扉を押し開いて中へ入ると、見知った笑顔の青年が俺に手を振っている。
「おー、やっぱり来たッスね!」
「……赤亜さんから聞いたんでしょう」
「勿論。あ、でもゼキエルは伝えてくれなかったみたいッスね」
手を振っていた青璃が困ったような表情を浮かべる。
そんな顔をされても知らないものは知らない。
訓練場はだだっ広い体育館みたく強化コンクリの床が続く。
一角で見知らぬ者達が木刀で打ち合っていた。
片方は俺と同じ年の頃で、どこかの御曹司みたく気品ある……悪くいえば鼻につくような爽やかスマイルで木刀を振るう。ちらりと青璃を見る。
もう一方はひたすら回避運動に徹している。
木刀を使うのは打ち合い、受け止めて流す時だけで攻勢に出ない。
避け続けている青年はずっと瞼を閉じている。
違う。最初から見えないのだ。壁際に視覚障碍者用の白杖が置かれていた。
「はいはい、小休憩挟むッスよー」
間の抜けた感じで青璃が声をかけると、二人の動きが機械のように静止した。
かなり、やる。少なくとも俺と同じかそれ以上に修練を積んできている。
終始攻めていた優男の方は息を切らしているが、受け続けていた青年は涼し気だった。
それぞれが居住まいを正す。優男が俺を見て微笑んだ。
青璃が腕で優男を示す。
「えーっと、連絡行ってないなら直接紹介するッスよ。
彼が今回の新規メンバーで、亮くんと一緒の班になる呉井 灰羽くん。
相手しちゃってたのが有楽上 鏡治くんッス」
「呉井です。よろしくお願いいたします、来々木先輩っ」
呉井と名乗った優男が律儀に頭を下げる。
あがった顔には笑みが張り付いたまま。
赤亜の言葉が頭によぎる。
余りに綺麗すぎる笑顔が直感的に俺の心を震わせていた。
かつて、こんな笑顔を見せた少年がいた。
忘れるはずがない。忘れることなどできようもない。
呉井 灰羽と名乗った優男の笑みは常倉 和久のものと酷似していた。
即ち、笑顔の裏側で邪悪に嘲笑う嘘吐きの顔だった。