5-15 新たな呪いの形
胸に抱いた感情を表に出すことなく、俺は胸の前に手を当てて祈りのような所作で「いただきます」と口にする。机を囲む他の面々も続いて唱和していく。
「そういえばイズガルトで食事前の挨拶したら注意されたッスね」
「あっちは精霊信仰だから大精霊の導きの下になんたらかんたらじゃないんですか」
「なんたらかんたらって……」
「何よ。文句ある?」
初が俺を睨んでくる。流石に適当すぎだろう、とは口に出さず苦笑しておく。
今さら指摘するのも野暮だろう、と他の面々も口を挟まない。
青璃が箸で焼き魚の皮を綺麗に破いて取り除いていく。
身を骨と分離して皿の端に寄せる。後でまとめて食べるのだろう。
分離作業を続けつつ青璃が続ける。
「いや、まぁ普通に『豊穣地ガイアスラの加護の下』……みたいな感じスけど、
誰に祈るかの問題じゃなく、本来の意味合いから外れているとキツく言われたッス」
「どういうことよ。いただきます、って美味しく命を頂くってことでしょ」
「…………殺した人と、売る人は違うから。私達の手元に来る前に、もう死んでる」
「そうなんスよ。大切な命を頂く、という意味合いであれば直接屠殺したり、活〆にしたり摘み取ったりした人間が言うならまだしも、調理した人間や食べる人間には関係ないんじゃないか、って」
初の疑問に答えつつ、分離作業を続ける青璃だが綺麗に分けられた魚の身を魔の箸が掴んでいる。
さりげなく会話に参加した櫃浦が焼き魚を奪取し自らのご飯茶碗へと移す。
軽く醤油を落とし、静かすぎる動作で口に運び咀嚼していく。
気付くことなく、青璃は働き蟻のように分離作業を続けながら言葉を連ねる。
「確かに直接狩ってるわけじゃないッスよ。原始的な狩猟民族じゃないワケで」
「セイリス、例えば吸血種は原始的生物に含まれると思う?」
「や、別に亜人差別ってワケじゃないッスよ。一応。断っておくと!」
「例えば無人島で自給自足で生活してる人は原始的生物なのかな?」
「……そういう屁理屈こねると行き遅れるッスよ」
「あ? だァれがお嫁さんになれないってぇ?」
パスタを食べる手を止めて初が青璃を睨みつける。
時間と手間をかけて、骨と肉に分けられた第二陣は素早くご飯のお代わりをしてきた櫃浦によって綺麗に片づけられてしまった。代わりに、とでも言うように青璃の皿には魚や野菜のフライが骨や皮を覆い尽くす勢いで盛り付けられている。
食べないのならなんで取ってきたのだろう、とは問わないでおく。
赤亜は呆れ顔で、八千翔は満面の笑みで事態を傍観していた。
八千翔がワンタンメンを食べ終わって豊乳を揺らし、手を合わせる。
「ご馳走様でした、っと。初ちゃん。スプーンを使ってパスタ食べるのは子供だけらしいよ?」
「えっ……そ、そうなの?」
「お皿の内側を使って絡めとるんだって」
「へ、へぇ……じゃないで、ううん。知ってる知ってた!」
それまで左手にスプーンを持ち、右手のフォークでパスタを巻いていた初は素早い動きでスプーンを皿の下に隠すとフォーク一本で食べようと奮闘する。巻いてはずるり、また懸命に巻いては無情にも重力の束縛から逃げられず、パスタはフォークから落ちていく。
唐揚げ定食を食べ終わった赤亜が小さく咳払いする。
「別に食えれば作法は関係ないんじゃないか」
「そ、そうよね。流石ゼキエルは大人よねっ!」
「それはボクが子供ってコトなんスかぁ?」
「…………ゼキエル、セイリスなんて呼ぶのは子供っぽい、と思う」
「俺だって呼ばれたくねぇよ」
「でも訂正しないでしょー?」
「する意味もないしな。いちいち苛立ってもキリがない」
「享受したんスね。もっと早く受け入れれば楽になれたのに」
「そんなに急くもんじゃない。食べ方も感謝の仕方も……
狩る意味も、吸い取る俺達のような存在もな。
人の数だけ、それぞれ抱く思いの形があるだろう」
「食事はやっぱり皆でわいわいやるのが一番だと思うからねぇ」
「…………痛みは分ければ半分に、喜びは分かち合えば倍に」
「形式に囚われるのは呪いの枠組みだけで十分ッスからね」
「お前はもうちょっと常識の枠に収まるべきだけどな」
「ゼキエルがそれを言うんスかぁ?」
笑い声に包まれる。和やかで、穏やかな空気が満ちていく。
青璃が俺へ茶目っ気たっぷりに目配せし、自らの皿を見て固まった。
「あ、あれ。いつの間にか魚が天ぷらに変化して、る」
「…………美味しかった、よ?」
「なんで晶が食ってるんスかぁっ!」
声をあげ嘆く青璃を尻目に食べ終えた者から後片付けに席を立つ。
泣こうと喚こうと超常の力を駆使しようと無くなった者は還えらない。
だからこそ大切にし、一つ一つを頂く。要は気持ちの問題なのだろう。
クラッドチルドレンという存在が一万もの命を対価に呪いから解き放たれる。
かつて、実際に履行した者はいない。一名と〝約一匹〟を除いては、多くの者が同じ悲劇を共有する者と共に世界の裏側を歩き続ける覚悟でこの場に残っている。
俺はホットサンドの最後の一欠片を口内へ放り込み、咀嚼して飲み込む。
命を喰らい死を与えるクラッドチルドレンは理の外側を生きる存在だ。
見た目は普通の人間と同じでも、精神の内側では異なる世界の法則を抱いている。
俺もまた、その中に入っているのだ。それでも恐ろしい。
五年の間に変わった者と変わらなかった者があるように。
甲高い音が鳴り響く。ほぼ同時に音を発したのは各々が持つ小型の通信機だった。
携帯端末へ文書が転送され、それぞれが確認して通信機を黙らせていく。
先に片付けに向かい、戻ってきた赤亜の眼帯に隠されていない右目が鋭さを増す。
「奴に動きがあった。行くぞ」
言葉ではなく、全員が小さく頷いて返す。
俺達はヒトなのか、それともヒトの形をした別次元の何かなのか。
示された新たな形を向き合うべき時が来たらしい。
昇降機が下りていく。操作板の上に階層を示べき液晶画面が設置されているが、高速で数字が切り替わっているため、何層にいるのか把握できない。
先程食べたものが胃で消化されている。体内にあるモノが引きずり降ろされている感覚。
重くどこまでも深みに沈んでいく。何かが体に圧しかかってくる。
軽く肩を叩かれる。振り向くと、俺の後ろに立つ赤亜がぎこちない笑みを見せていた。
「余り身構えるな。気を張りすぎても疲労を重ねるだけだぞ」
「わかっては、いるんですけどね」
「……千影さんも何を考えているのか、な」
赤亜の手は俺の左肩に乗せられたままだった。
笑みが強張っている。笑い慣れていないのではなく、これから起きうる事態に備えているのだろう。
眼帯の奥が淡く発光している。かすかな紅が明滅していた。
下降し続ける昇降機の中には俺以外に赤亜、八千翔、初が乗っている。
櫃浦は別件で諜報任務に向かい、青璃もまた新たなクラッドチルドレンと会うべくイズガルトへ旅立っていた。八千翔は見せつけるわけではなく、純粋な畏怖からぴたりと赤亜に寄り添っている。そんな八千翔に初が抱き着いていた。
それ以上言葉が筐体内に落ちることなく、昇降機が停止する。
静止時の衝撃で胃が持ち上げられ、軽い吐き気を覚えるが何とか堪えられた。
初が小さく声を漏らしていたが、聞かなかったことにしておく。
扉が開くと、暗闇が広がっている。
一応の年長者として赤亜が先頭を買って出た。頭の後ろでまとめた藍色の長髪を追って八千翔が歩き出し、初が追う。期せずして俺が最後尾を担当することになった。
一歩一歩進むごとに室内照明が点灯し周囲の光景を可視領域へ押し出す。
黒い壁が並んでいる。装飾はないが、ところどころに窪みと切れ目があることから部屋にはなっているのだろう。室内を確認する術はない。
前を歩く赤亜が携帯端末を取り出す。
特殊電波を受信し、一定の調子で鳴る音が示す方角へと歩いていく。
八千翔に初、俺はその後に続くだけだ。
背中に氷を突っ込まれたような気分だ。
先程から一定の周期で吐き気を催す。
視覚でも聴覚でも捉えられていないが、俺の感覚が告げている。
この地下空間には絶対的によからぬモノが眠っている。
加えて、そのよからぬモノの邪な気配に当てられ、誘われている。
誘蛾灯に近付きすぎて圧倒的な熱量の前に焼き尽くされる蛾のようだ。
自滅の道に進んでいることを理解しながらも、誘惑に抗えない。
ある種の支配されることへの悦びに抗っているのが、この何とも形容し難い嘔吐感なのかもしれない。
非常灯が足元を照らす。頭上からは淡い橙色の照明が降り注いでいる。
何度か角を曲がり、真っ直ぐの道を延々と歩く。
どこをどうやって辿り着いたかは分からない。
多分、理解することを頭が拒絶しているのだろう。
ほぼ流される形で追いかけ、初にぶつかるまで止まったことに気付いてなかった。
「……痛いんだけど」
「……ごめん、なさい」
「アンタでも素直に謝れるのね」
「そりゃあ……まぁ」
いつでもどこでも犬猿の仲みたいに言葉で殴り合うわけではない。
流石に時と場合を弁える。視線を上げると八千翔が柔らかい笑みを浮かべていた。
「ほらほらぁ、お似合いじゃない。初ちゃんと亮くんはっ」
「場を和ます冗談にしても酷いですよ、神坂さん」
「やち姉、それだけは絶対有り得ないから」
「俺だって断固お断りするね!」
「なんつった……あァ?」
「それだけ元気があれば、三人共大丈夫だろうな」
告げた赤亜の声は固い。呆れでも嘲りでもなく、ただ緊張の色があった。
横へと動き、改めて前を見る。旧式のマンションにあるようなネームプレートをはめ込む穴があるが、空洞だった。黒い壁の奥から薄らと光が漏れている。扉の輪郭を描いていた。よく見ればカードキーを指すための穴が壁に刻まれていた。
赤亜がポケットから黒いカードキーを取り出す。手にするが、足は進まない。
左手が眼帯で覆われた、左目を押さえる。痛みを覚えている風に見えるが、声には出さず俺に顔も見せてくれない。確認することもできなかった。
恐らくは無意識に放出されている霊力波長が近付く全てを威圧している。
この先に何かがいる。その何かは、きっと俺もよく知っている。
知っているからこそ近付けない。近付きたくない。
赤亜が大きく息を吸って、吐く。覚悟したのだ。俺も続こう。
思うことは一緒のようで、八千翔と初も深呼吸して己を落ち着かせ、また高めていた。
この五年で幾度となく感じた空気に似ている。命のやり取りを行うような、危険度の高い犯人と対峙する前に覚える本能的な死の気配だ。
戦地に赴き、死ぬかもしれない。平和と言われる時代に身構える必要のない覚悟を常に抱く。
きっと、俺自身いずれ奪う瞬間が来ると認識しているからだろう。
俺も、八千翔も初も問わない。ここに何があるのか、と。
赤亜が歩みを進め、区切られた黒い壁の前に立つ。
カードキーを差し込む。軽やかな音と共にロックが解除され、ゆっくりと内側へスライドしていき入口が生まれる。黒壁に囲まれた部屋に入る赤亜の後を追って、八千翔と初が続く。俺も後に続いて入っていく。
鼓膜を震わす爆音。出迎えたのは獣の咆哮だった。
鎖と鎖がこすれ合う耳障りな音が響く。室内の四方を囲む壁は淡い緑色の光を発している。
蓄光素材を用いているのだろうか。優しい光がもたらす幻想的な世界は、ない。
天井は外の壁と同じく黒で、たくさんの鋲によって鎖が固定されていた。
ぶら下がる鎖は四本あり、それぞれが吊り下げられた男の四肢へ繋がっている。
逆立てていた茶髪は血に濡れ、重力に引きずられ目元にかかっている。
見開かれた瞳は一点を凝視し続け憎悪に染まっていた。
殺戮の快感に浸るように愉悦を湛えていた輝きは失われている。
常に最前線で戦い殺し続けた坂敷 紅狼が拘束されていた。
体中には無数の傷が鮮血を流し続けていた。傷痕が塞がりかけては、また広がる。破壊と再生を繰り返す。クラッドチルドレンの驚異的な身体能力が、見えざる何かに抗って激痛と熱を生む。
蒸気を発する肉体の熱気が血液を凝固させ、固まった場所が無理矢理破り裂く。
損傷し蘇る一瞬一瞬が聞こえて精神を侵し襲うようだった。
咆哮が轟く。肌を刺す声は声と呼べるものではなく、人語からは程遠い。
空腹を訴える野獣が放つ、苛立ちによる威嚇行為と同質のものだった。
「来たか」
いつもの調子で告げたのは、黒いスーツに身を包んだ千影だった。
黒く艶やかな長髪は赤亜と同じように頭の後ろで一つにまとめている。
手には黒革の手袋を嵌めており、ところどころ生々しい鮮血に濡れていた。
赤亜がさらに一歩前に出る。
「千影さん。本当、なんですか。紅狼が〈死神〉に選ばれた、と」
「ああ。セイリスにゼキエル、櫃浦。白に赤に黒に続き、深緑の禍対星が出た」
千影が体をずらす。眼前に広がる光景を捉えて、俺は目を見開いた。
淡い緑の光に照らされた空間に球体が浮かんでいる。
その表面には、三角形を二つ組み合わせた六芒星が深く青々しい輝きを放っていた。