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灰色の境界  作者: 宵時
第五章
117/141

5-7 霊なる高みへの誘い

 裂帛(れっぱく)の声が鳴り渡る。

 地が揺れ、重々しい響きと共に呻き声が漏れ出す。

 総合体育館の一角には何枚かの畳を合わせた即席の試合場が作られており、胴着姿の男女入り乱れて訓練に汗を流していた。

 俺を含めた控えの者達は畳の外側、ニス塗りの床板に正座して待機している。

 冷たい上に硬いので中々に辛い。座布団くらい用意してくれてもいいと思う。

「ほらほら、かかってこないと訓練にならないよ?」

 (あで)やかな声でわざとらしく胴着の胸元を開いた八千翔(やちか)が誘う。

 取り囲むように位置取っている健全な少年達が鼻息を荒くする。

 胴着の下に身に着けたアンダーシャツを押し上げる双つの豊かな果実が気になって仕方がないのだろう。同じ男として、その罠へ飛び込んでいくのを(とが)めることはできない。

 俺には別方向から串刺しにする視線があるので、あえて全体を見ているが。

 赤みがかった茶色のウェーブヘアを揺らし、八千翔が俺へ目配せする。無視。

「私に尻もちつかせたらお尻、組み伏せられたら皆が注目しちゃってるこの胸」

 脇を締めてさらに強調された豊乳に視線が集中し、少年達の体温が上昇していく。主に下半身の一か所に熱量が集まっていると思う。

 少女も男子勢の反応を冷やかに見てはいるが、幾人かは見惚(みと)れていた。

 離れた位置では別グループがミニバスケットボールで汗を流している。

 シューズが床をこする甲高い音が連続し、ばたばたと行ったり来たり繰り返す。

 床を叩いて飛翔、小気味よい音を立ててボールがゴールへと吸い込まれて歓声が響く。ボールを奪い合う乱戦ではなく、一人が突出しているようだ。

 黄色い声の割合が高い。そんな周囲の様子は八千翔と向き合う少年達には関係ないだろうし、俺からしてもそれはそれ、これはこれと線引きしておきたい。

 それでもミニバスグループから熱烈な殺意が俺に突き刺さっている。

 興奮冷めやらぬ少年達を前にして八千翔がさらに挑発していく。

「気絶させちゃったら……目覚めるまで何でもしていいんだよ?」

「うおおおぉぉぉぉぉぉぉっ」「もう我慢できないっす!」

「やっちゃいます!」「一斉でいいんですよね? ね?」

「確認する暇すら惜しいぜ、早い者勝ちだろっ」

「ざっけんな! 神坂様のお胸は俺の手に収まるべきなんじゃああぁぁぁっ」

 少年達が情欲を爆発させて飛びかかっていく。

 八千翔は悪戯っぽい笑みで少年達を迎え撃つ。

 正面からの羽交い絞めを一歩退いて回避。同時に放たれた足払いには跳躍して対処し、後ろから抱き付こうとしていた少年の膝を踏み台にさらに高く飛翔していく。

 少年同士が抱き付き、そこに蹴りを叩き込んで三人が絡み合う。

 瞬時に判断して一人の少年が倒れてもつれ合うむさくるしい台座を足場に跳ぶ。

 空中で体を(ひね)った八千翔が向かってきた少年の顔面へ容赦なく蹴りを叩き込む。

「有難う御座います!」謎の感謝を述べつつ鼻血を噴いて少年が倒れる。

 着地を狙って滑り込んできた少年が八千翔の足を取ろうとする。

 少年の顔面を蹴り飛ばした勢いで再度空へ舞う少女の肢体は捕まえられない。

 滞空時間を読み違えて滑り込んだ少年はそのまま、もつれたままの少年達に突っ込む。脇腹を綺麗に(えぐ)り蹴られた少年が痛みに鳴く。

「さあ、神坂様! 俺の胸に飛び込んできてくださいっ」

 先に突っ込んでいった少年から時間を読み、一人が恋人を出迎えるかのように両手を大きく広げて待機する。同じような体勢で三人が他の予想着地点で待つ。

「そういう訓練じゃないから、ごめんねっ!」

 抱きしめられることを回避するべく、八千翔は両手で一人の肩を掴む。

 腕の力で再度空へ逃げようとするが、待機していた三人が姿勢を解いて駆け寄り、少年の腕ごと八千翔の両腕を捉える。

「よっしゃあ、やっと捕まえたっ!」「おい、絶対離すなよ!」

「当たり前よっ! 俺はお胸様を頂くからな!」

「馬鹿、そりゃ俺のもんだ」「はぁ? お前は尻派だったろ!」

「まだ私は捕まってないよ?」

 乾いた音が鳴り響く。腕の可動域を無視して八千翔の腕が翻り、固められた状態から地に降りて蹴りを放つ。

 支点となっている少年の空いた腹に足が沈み、苦悶の声が漏れる。

 拘束が緩んで八千翔が腕を抜き、再び乾いた音を鳴らし残る少年達へ手刀を放つ。一切の無駄がなく最小限の動作で性の襲撃者が仕留められていく。

 最後の一人には綺麗に鳩尾(みぞおち)へのボディーブローが決まった。

 手刀で首筋を打ち抜かれた少年達の体が揺らぎ、倒れる。

 腹を撃ち抜かれた少年は余りの痛みに嘔吐し、吐瀉(としゃ)物を撒き散らす。

「あー……」

「ありゃりゃ、やりすぎちゃったかな?」

「神坂さん、加減を考えて下さいよ」

「だって、ねぇ。女の子の身の危険でしょ?」

 貞操の危機は守らなくっちゃ、との言い訳は聞こえなかったことにする。

 八千翔の舞に見惚れていた少年達が我を取り戻し、汚物を散らす少年を介抱するべく駆け寄っていく。手馴れた動きで吐瀉物を拭い、担架で外へと運び出す。

 見送って、俺は呆れと共に溜息を吐く。

「神坂さん、体で釣るの止めましょう、って言いましたよね」

「で、でもね。何かご褒美がないとやる気が出ないかなーって」

「それ自体はいいんですけど関節抜けからのリバーブローはやりすぎですって」

「受け止めてくれるくらいの人がいればいいんだけどなぁ」

 追及をやんわりと交わしつつ、踊るように八千翔がくるくると畳の上で回る。

 全く懲りていないらしい。小さく息を吐く。

 八千翔が期待に満ちた目で俺を見る。

「あれから一週間、皆を鍛えてきたけどイマイチなんだよね」

「元から暴れ気質な連中はそれなりに使えているはずですけど」

「それなりには、ね。もっと芯が欲しいのよねぇ。誰かさんみたいな」

 何が楽しいのか、くるくると回りながら時折立ち止まっては俺を見る。

 ミニバス側ではまたゴールが決まったようで黄色い歓声が沸いていた。

 だが、声を受けているのは多分男ではない。

 できるなら向こうに混ざりたかった。

 下方からの視線。戦いに挑み、敗れ去った少年達が慈悲深き仏を前にしたように、手を組んで祈りを捧げている。

「お願いします、来々(くるるぎ)さん……」

「隊長、男の意地見せてやりましょうよ!」

「欲望を持ってこその人間だって総長様も仰ってたじゃないっすか!」

「……千影さんを総長って呼んだら殺されるぞ」

 突っ込む気も失せてきた。

 誰が隊長だよ。欲望もベクトルが間違っている。

 いや、生物としての本能からいえば正しい形なのだろうか。

 死を前にした時に生物は種の保存に奔走するという。

 俺には当てはまらない。

 明確な死を前にして、生存すること以外に気を回す余裕などなかった。

 守れず立ち向かえず看取ることしかできない自身の弱さを呪った。

 今もまだ、力の使い方を学ぶ道程にある。

 八千翔が回るのを止めて立ち止まる。瞳には慈母の微笑み。

「やる気出たかな」

「胸を借ります」

「狩られないように気を付けないとねぇ」

 茶目っ気のある口ぶりに俺も小さく微笑んで返しておく。

 腕を振り、足を振って軽い準備運動をした後に畳の上に立つ。

 試合場として設置されている畳の広さは約五二〇平方メートルほど。

 駆け回るバスケットボールと違い、柔道や剣道では一人が一人と向き合う。

 競技の特性上、背を見せるという選択はなく基本的に対面で行われる。

 八千翔が展開したのはややイレギュラー的な趣ではあるが〈灰絶機関(アッシュ・ゴースト)〉の戦闘員、刃として切り込んでいくには対多数の戦闘を常に念頭に置かねばならない。

 そうした意味を踏まえるなら八千翔のやり口は正しい。

 胴着の裾を正し、帯をしっかりと締める。対峙する八千翔もあからさまな色仕掛けである胸元を晒さず、真面目に着直して帯を締め、やや緩めに拳を構えた。

「来々木さん、やっちゃってください!」「できれば権利ください!」

「馬鹿か、そんな真似できるわけないだろ」「……まず、そんな雰囲気じゃない」

 野次馬の声は遠い。聞こえないし、聞く必要もない。

 ミニバス側の歓声も意識の外に外れていく。

 八千翔が笑う。淫靡(いんび)でありながら、好戦的な野獣の(かお)

 二人で円を描くように、少しずつ距離を縮めていく。

 合図なく、周囲の音が消え失せると同時に双方が駆けた。

 胴着を掴みに来た手を払う。容赦ない金的狙いの蹴り上げを膝で受ける。

 首目がけて放たれた意識を刈り取る手刀は着弾点をずらして肩で受けた。

 右足を支点にして左足で蹴りを放つ。八千翔には読まれていて、空を蹴り飛ばしただけ。

 浮いた足を踏み潰される前に自ら態勢を崩す。畳の上を転がって行き、立ち上がったところで顎を狙ってきた蹴りを両腕を交差させて受け止める。

 立ち上がって追う前に八千翔の体は宙を舞っていた。

 俺の体を蹴った反動で飛翔し、蹴りに入ると思ったが距離を取って後方へ着地。

 息を吐かせず、俺は瞬時に距離を詰めて着地の一瞬を狙う。刹那、反応が遅れた隙に胸元を捉えて胴着を掴む。手に感じる暖かさに惑わされることなく、投げた。

 投げると同時に自身も追う。

 ただ投げただけでは受け身を取られてすぐに巻き返される。

 重要なのは八千翔を自らのフィールドに立たせないこと。彼女を跳ばせると追いつくのは難しい。再び地に降り立った時には勝負が決まっている。

 故に投げ落として抑え込む。まるで柔らかい絨毯に飛び込むように。

 されるがまま八千翔は投げられ、畳に打ち付けられる。誰が判定するのか。

 目の前に開いた胸元が飛び込む。男としてどうしても引き込まれてしまう。

 さらに近付いている。いや、八千翔の体が跳ねているのだ。

 ただ倒されるだけでなく、しなやかな体の動きで復帰した八千翔が両手を広げて俺の顔面を捉える。苦しい。柔らかい。気持ちいい……じゃない!

 今度は俺が倒される。

 後頭部から叩きつけられれば脳震盪(しんとう)不可避。

 受け身を取ろうにも腕が動かない。前も見えない。

 俺の意識が飛ぶ、ことはなく体は転がっていく。

 顔を胸に押し付けられたまま畳の上で俺は組み伏せられていく。

 心地よい感覚は遠く去り、這い蹲らされた状態で背中に体重がかかる。

 柔らかい感触を堪能する余裕はなく、全身の関節が軋んで悲鳴をあげる。

 投げ倒したと思ったら一瞬で引き倒され、寝技で固められていた。

「おい糞、代わってくれ!」「お前ドMかよ。あんな地獄固め喰らいたくねぇよ」

「痛みでまともに味わえる余裕なんかないと思うわ」「でも羨ましい」

 音が戻ってきた。普通の世界へ帰ってきた。

 がっちりと手足を固められて抜けれそうにない。

 ついでに突き刺さるどこからかの視線が本当に痛い。

「…………やち姉、その辺でいいんじゃないの?」

「えー、これから楽しいトコなのにぃ」

「もう技決まったでしょ。離れる離れるっ!」

 視線の主が現れたらしい。技が緩まり、拘束が解けた。

 根源的な恐怖が降りかかる。痛む体を無視して畳に手をつき、体を跳ねさせる。

 転がって畳の試合場から落ちていく。転がる反動を利用して起き上がると、先程まで俺がいたであろう位置でバスケットボールが跳ねていた。

 ボールを落とした主である(うい)が射殺すような鋭さで俺を睨む。

「初ちゃん、試合は大丈夫なの?」

「休憩入ったから。エロガキの奇声で集中できなくってね」

「で、でもたくさんゴール決めてたんじゃないの?」

「まぁね。ついつい力が入りすぎちゃったけど、結果オーライだったみたい」

 八千翔と会話しながらも初は俺を睨み続けている。

 権利をくれだの叫んでいた少年達は銅像のように正座で待機姿勢。

 何も知りません、という姿勢を貫いてやがる。変わり身の早さは一人前だった。

 八千翔が目配せでこっちへ来いと言っている。

 俺としては戻りたくないが、生贄にならないと緊張状態は解けないだろう。

 これから起こりうる状況を理解しておきながら身を捧げようとする自己犠牲っぷりが我ながら嫌になる。多分、託された信念なのだろう。

 誰かが傷を負うくらいなら自らが受け止める。

 などと恰好を付けるが、詰まるところエロガキ代表として制裁を受けるだけだ。

 諦めて、死刑台へ歩むように初と八千翔が立つ試合場へと戻る。

 一歩下がった八千翔が両手のひらを合わせて謝罪を示す。

 死者への念仏かもしれない。アンタが諸悪の根源だろうが。

 初は体操服姿だった。下はハーフパンツではなく、絶滅危惧種のブルマを穿()いている。何か狙っているのだろうか。女の子らしさのアピールだろうか。

 そんなことを考えていると、全てを見透かされていたらしい。

「いい度胸してるよねぇ……こんのエロガキ」

「弁解させてください。ね。男の(さが)というか、(ソウル)といいますか」

「…………こんな馬鹿でも〝適合者〟なのが悲しいわ、ホントに」

 初が呆れたように溜息を吐く。憤怒の感情が薄れていく。

 代わりに身を縛るような、張りつめた真面目な空気が染み出す。

 八千翔の顔つきも真剣なものへと切り替わっていた。

 初が真っ直ぐに俺を見て口を開く。

「ねぇ、亮。あたし達と同じ位階へ来てみない?」

 天へ向けた手が差し伸べられる。かつて、小百合がしたように。

 そして千影が俺を絶望の闇から引き揚げた時のように、初が(いざな)った。

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